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深澤英隆「ルドルフ・シュタイナーとグノーシス主義」

☆mediopos-2544  2021.11.3

シュタイナーは人智学を
グノーシスの改新ではない
そう明言してはいるが

初期(神智学協会ドイツ支部の時代)において
雑誌「ルチフェル」(後の「ルチフェル・グノーシス」)を
編集・刊行していたことからもわかるように
人智学はグノーシスとの明かな違いと同時に
「本来の自己認識」という点においては
グノーシスと響き合っていることは確かだろう

とはいえグノーシス主義のいう認識は啓示的性格をもち
そこに浄福やエクスタシーを伴ったりもするのに対し
シュタイナーの示唆している高次認識への道は
近代哲学の認識概念の延長上における
「認識論的主体」の深化・拡張であって
みずからの意識においてなされる
(拡張された)「科学的」認識の道である

その点においてグノーシス主義のように
宗教的全体知や終極的救済といったことは語られず
むしろ「自由の哲学」にみられるように
シュタイナーは当初からの基本認識である
「倫理的個体主義」を保持したまま
自我を高次のものへと変容させていく
終わりなき宇宙的プロセスとして人間進化をとらえている

しかしながらおそらく多くの場合
シュタイナーの神秘学的な内容は
さまざざまな形でその「部分」だけが受容され
教育・社会運動・医学・農業・芸術・宗教など
それぞれがそれぞれのかたちで
シュタイナー思想の部分だけを
無批判に信奉していく傾向があるのは否定できない

キリスト者共同体にしても
これはほんらい人智学ではなく
シュタイナーの示唆によるものでしかないが
それにもかかわらず現在ドイツでは
ルター派・カトリックに次ぐ信者を集めているという

その意味で人智学とシュタイナーが信仰される
という現象は避けられないだろうし
また人智学が「運動」として位置づけられたことによって
ほんらいの「倫理的個体主義」とは
矛盾してしまう側面も多分にでてくることになる

「認識論的主体」の深化・拡張は
深化・拡張しえたところでしか成立しないのだが
人智学及びシュタイナーあるいは組織・運動へと
さまざまに「投影」されたものが
認識の深化・拡張だと錯誤されてしまうということだ

さて今回ご紹介したのは
1970年代からシュタイナーや関連書籍の翻訳もされている
深澤英隆氏の論考である

深澤英隆氏は
ゲルハルト・ヴェーアの『ユングとシュタイナー 対置と共観』や
エリアーデの『世界宗教史 4』なども訳されているように
シュタイナーの人智学を他の思想との比較で多視点的に見ている
こうしたスタンスは視野狭窄にならないためにも
シュタイナー理解において欠かせないのではないかと思われる

■深澤英隆「ルドルフ・シュタイナーとグノーシス主義」
 (大貫 隆・高橋 義人・島薗 進 ・村上 陽一郎 編
  『グノーシス 異端と近代』岩波書店 2001/11 所収)

「いわゆる「人智学」運動の創始者、ルドルフ・シュタイナーがグノーシスの徒か否か、という問いには、すでにさまざまな立場から答えが出されている。(・・・)この作業はしかし、一見そう見えるほど単純明快なものではない。」

「その思想傾向から見ても、また教会的キリスト教との関係からしても、シュタイナーの人智学はしばしば「グノーシス(主義)」の一形態と見なされがちなことは容易に理解できる。また、例えばヘルメス主義などに媒介されつつ近現代に成立したエソテリズムやニューエイジ等を(教会的なそれではなく思想史的なカテゴリーとして)「新グノーシス」と呼ぶならば、人智学をそこに含めることもおそらく不当ではない。しかしそれと同時にまた、すでにふれてきたようなシュタイナー思想と元来のグノーシス主義との差異も見のがすことはできない・
 既述のようにシュタイナーの「認識」概念は、霊的なそれをもふくめて、近代哲学の認識概念の延長上に考えられている。いわゆる「認識論的主体」の深化・拡張ということが、シュタイナーの初源的関心事なのである。シュタイナーの「科学的(学問性)」主張を看過すると、シュタイナーの真意は分からない。宗教的全体知や、終極的救済といったことがらを語ることを、むしろシュタイナー自身は回避している。シュタイナーの思想に否定神学的要素があまり見られないことも、これと関連するグノーシス主義との違いである。自然科学は、実在の本性が知りえぬからといって「否定科学」に走ったりはせず、部分的認識を集積してゆく。これと同様にシュタイナーの意図したことも、日ごとに講演する場所と内容をかえつつ、肯定的存在定立を積み重ね、更新してゆく、対抗科学の実践なのである。
 シュタイナーの「自我」概念も、グノーシス主義の人間主体の理解とは、大きく異なっている。神智学時代以前のシュタイナーは、「倫理的個体主義」を主張するニーチェ主義的アナーキストと見られていたが、そうしたニュアンスは、人智学の構築以降も維持される。現代西洋人の自我や個人主義的自己意識は、シュタイナーにとっては否定され、放棄されるべきものであるどころか、宇宙的プロセスを経て獲得されたものである。問題はその意識水準を下げることなく、自我を「霊的自我」に変容させてゆくことであった。その過程は、明らかに進化論的に考えられており、プレーローマ世界のようなものとの合一により一挙に達成されるのではない。それは転生を繰り返しつつ進行する、終わりの見えないプロセスである。聖書的な立場からは、グノーシス主義の人間主義やナルシスティックな自己崇拝が批判すべきものとされる。人智学についても同様の批判は成り立つかもしれない。この点で、「神」智学から「人」智学への改名は、ある意味で象徴的である。もっともシュタイナー自身の思想では、いまある自己のありのままの肯定ではなく、終わりなき進化という点にアクセントが置かれている。ただし内外の人智学信奉者がシュタイナー思想を自己愛や自己肯定の養分とする光景は、決してめずらしいものではない。
 物質性・質料性の評価ということも、すでに見たようにグノーシス主義との際だった差異である。近世の自然神秘主義、例えばベーメなどでは、神性と自然は深い弁証法的関係におかれたが、なお物質性は十全に肯定されえなかたt。しかしヘーゲルを経たシュタイナーでは、物質性は(いずれ霊化され、揚棄されるにせよ)霊性の進化の必然的契機として、積極的な意味を与えられるのである。また文化や社会も、シュタイナーにあっては宇宙論的進化図式のなかに位置づけられてゆく。シュタイナーのいわゆる社会の三分岐化の理念に基づく社会運動なども、グノーシス的現世拒否とは対極の姿勢をしめしている(この問題はしかし、政治とグノーシスという問題圏で、あらためて考えられる必要があろう)。
 最後に残る問題は、「神話」の理解や位置づけに関わる問題である。かつてプロティノスはグノーシス主義に対し、概念の神話化や儀礼化を批判した。シュタイナーにおいては、この点はどうであろうか。
 シュタイナー批判者のなかでは、もっとも入念な読み込みを示しているK・レーゼは、グノーシス主義とシュタイナー思想との相違を的確に指摘しながらも、人智学の体系を、神話的思考と学的思考が混然と混ざった「新グノーシス的神話」と呼ぶ。ミュトス/ロゴスの関係をどうとらえるかは、シュタイナー理解の試金石ともなる。シュタイナー自身はすでにみてように、自らの営為を、学的ロゴスのオルタナティヴな更新と考えている。これを受けて、教育や医療といった部分のみをロゴスとして受容する者もいる。あるいはそもそもミュトスとロゴスといった差異に対する感覚もなくシュタイナーに耽溺する者もいれば、そうした二分法を超えたいわばパフォーマティヴなシュタイナー受容を実践する方向もある(例えばヨゼフ・ボイスなど)。もちろん、シュタイナーの思想を丸ごとミュトスとみて、実証主義的、あるいは批判的ロゴスの観点から全面批判することも、ひとつの立場である。
 プロティノス以降、グノーシス主義の奔放な神話性ということは、定着した見方となっている。とはいえ、何をミュトスと見なすかは、何をロゴスと見なすかということに常に相対的である。いずれにせよ、グノーシス主義においける神話的なるものの意味や機能、ミュトス的表象性とロゴス的概念性との関係は、余さず解明されたとは思えない。シュタイナー理解にあっても、さらにはグノーシス(主義)そのものの理解にあっても、ミュトスとロゴスとの間の相対性や流動性や相互転換性といった出来事を、おそらく我々はなお注視する必要があるだろう。」

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