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島田龍編『左川ちか全集』/『短歌ムック ねむらない樹 vol.9 特集=詩歌のモダニズム』 〜「小特集 左川ちか」

☆mediopos2855  2022.9.11

『左川ちか全集』が刊行され
それを受けて
『短歌ムック ねむらない樹 vol.9』で
特集「詩歌のモダニズム」に続く「小特集」で
「左川ちか」がとりあげられている

左川ちかは一九一一年生まれ
そして一九三六年には二四歳ですでに亡くなっているが
そのあいだに約九〇篇の詩・二〇余篇の翻訳詩文
そして一〇余篇の散文を残している

長らくそれらの作品は入手困難だったが
今回『左川ちか全集』にすべて収録され
編者の島田龍による年譜・解題・解説等が付されている

左川ちかは「萩原朔太郎・西脇順三郎・春山行夫・
北園克衛・伊藤整らに前途を嘱望され、
将来のヴァージニア・ウルフ、
ガートルード・スタインに例えられもし」

「戦時下の吉岡実が詩に目覚めるきっかけ」ともなり
村野四郎らもオマージュを捧げ
三善晃をはじめとした作曲家にも影響を与えているという

個人的にはそんな左川ちかのことを
ほとんど意識したことはなかったのだが
今回の全集刊行をきっかけに
ようやく左川ちかをはじめとしたモダニズムについて
調べる機会をもてるようになった

そんななかでの『短歌ムック ねむらない樹』の
「詩歌のモダニズム」と「左川ちか」の特集である

興味深いことに左川ちかは詩人であるにもかかわらず
全集が刊行されたのは詩集を刊行している出版社ではなく
主に歌集を刊行している書肆侃侃房であり
その特集をしているのも詩の雑誌ではなく
短歌の雑誌『短歌ムック』である

ある意味で今や「短歌」の世界のほうが
「ことば」への新たなアプローチを
切に模索する衝動を持ちえているのかもしれない

さておそらく偶然の必然だが
昨日とりあげたテーマ「芸術と現実」との関係で
ひきあいにだしていた伊藤整は
左川ちかと同時代のしかも北海道出身の詩人であり
両者とも日本語の前衛詩運動における
文学作品の翻訳に関わっていた

モダニズムの詩人といえば
その後戦争に協力する詩を書いた云々で
戦後ほとんど顧みられなくなっているところがあるが
そうしたレッテルだけを貼って済ませるのではなく
(過去のものとして顧みられない歴史も同様に)
モダニズムという「未完成の運動体」について見直し
あらためて「芸術と現実」の関係を
生きたものとするための
視点を得る契機とする必要があるのではないか

ちなみに左川ちかが亡くなったのは一九三六年で
それは二・二六事件の直前のこと
そしてその次の年に中原中也も亡くなっている

左川ちかも中原中也もその後生きていて
戦争期を経過したとしたら
その詩はどんな表現をとるようになっていただろう
そんなことを想像したりもする

「左川ちかは未完成なものに惹かれ、
作品は常に進行形で幾つもの
ヴァリアントを作り続けた」そうだが
そういう意味でもモダニズムという
「未完成の運動体」としての「ことば」に潜むものを
現代の「ことば」のなかでとらえなおし
〝どれがほんとうの私なのかわからなくなるまで、幻の鏡〟
に映し出してみるのはどうだろうか

「私たちは一個のりんごを画く時、丸くて赤いといふ観念を
此の物質に与へてしまつてはいけない」
「詩の世界は現実に反射させた物質をもう一度
思惟の領土に迄もどした角度から
表現してゆくことかもしれない」のだから

■島田龍編『左川ちか全集』
 (書肆侃侃房 2022/4)
■『短歌ムック ねむらない樹 vol.9 特集=詩歌のモダニズム』
 〜「小特集 左川ちか」
 (書肆侃侃房 2022/8)

(『左川ちか全集』〜「解説 左川ちかの肖像」より)

「翻訳者左川千賀として川崎愛(一九一一〜三六)が世に現れたのは一九二九年春、一八歳のこと。翌年左川ちかと筆名を改め、三六年一月に亡くなるまでの間に約九〇篇の詩、二〇余篇の翻訳詩文、一〇余篇の散文を残した。萩原朔太郎・西脇順三郎・春山行夫・北園克衛・伊藤整らに前途を嘱望され、将来のヴァージニア・ウルフ、ガートルード・スタインに例えられもした。
 その詩の一篇に初めて出会ったとき、伝記的背景はもちろん、名すら知らなかったが、考えるより感じなさいとでもいうような、モダンでアヴァンギャルドな風格に圧倒された。転がる言葉と言葉がコラージュしシュールな世界を現出させる。前衛絵画のような異質な言語感覚だ。ノスタルジーやロマンティシズムといった叙情性とは程遠いクールで硬質な文体、でありながら観念抽象的な言語遊戯に陥らず、一般的なモダニズム詩には希薄な〝私〟という何者かの熱量をじかに感じた。
 〝私〟とはおそらく、川崎愛でも左川ちかでもない、何者かとしか言いようがなく、それは読み手の心の臓を直接鷲掴みにするような世界の住人だった。そして何といっても、最後のセンテンスの破壊力である。
 詩集が入手困難なこともあって幻の早逝詩人として長く神話化されていたが、近年再評価の機運が高まりつつある。中保佐和子の英訳を契機に、欧米や南米・イスラム圏など海外での翻訳が相次いでいる。(・・・)「二〇世紀初頭の日本における最も核心的な前衛詩人」(『ザ・ニューヨーカー』二〇一五・八・一八)と、海外での評価が先行しているのが現状だ。
 とはいえ、国内でも左川ちかの詩は確実にインパクトを与えている。戦時下の吉岡実が詩に目覚めるきっかけとなったのは『佐川ちか詩集』との出会いだった。オマージュを捧げる詩歌人は、村野四郎らを始め現代もあとを絶たない・若いフォロワーが多いのも特徴だ。著名な一人は作曲家三善晃だろう。声楽曲『白く〜左川ちかによる四つの詩』(一九六二)は代表曲の一つで、今も歌い継がれる。「作曲者のことば」(『音楽芸術』六三・八)で三善はいう。

佐川ちかの詩に不思議な絶望がある 失った声 向こう側の音 見えない花 そしてもう近くに居ない夏 しかしそれは艶冶な装いにくるまれ ほとんど誇り高きものの姿をして居る 微量の毒を含んだ棘が 老人を嗤ひ 少女らの指先に虚しい情感を植え 私を刺した
 「作曲者のことば」

近年でも、青柿将大や茂木宏文、高橋悠治らが彼女の詩に着想を得て作曲しており、和賀作曲のボーカロイド曲も生まれている。さらに国内外の美術家による作品も様々に制作されている。今後はサブカルチャー含め多彩な領域での受容と展開が予想される。
 昭和初期、左川ちかは〝女〟であることのセクシュアリティと孤独に対峙し、これを越境しようと試みた。モダニズムの限界を突破せんと、性と生を疾走した〝現代詩の先駆者〟といえよう。
 今後はモダニズム詩の枠組みのみならず、様々な文学・絵画・映像表現や翻訳トレンドなど同時代の横断的な表現と言説・メディアの中で、その詩風の誕生と変遷を丁寧に読み解くことが必要だと考える。かつて金子みすゞのように、早逝の女性詩人として、さらに超越的な存在として神話化されてきた表象を脱神話化する作業でもある。」

(「小特集 左川ちか」〜島田龍×蜂飼耳×鳥居万由実/座談会「左川ちかとモダニズム詩」より)

「蜂飼/時代的には、プロレタリア詩派とモダニズム詩派の二つの潮流があったと見ることができる時代で、例えば左川ちかが亡くなる前年、一九三五年はアナーキストの一斉検挙が行われた年なんですね。
(・・・)
島田/彼女は病院の中でも、反ファシズムを掲げパリで開催された国際会議に関する『文化の擁護』を読んでいたり、同郷の知己や文学仲間が治安維持法違反で謙虚されています。社会民主党に参加していた従兄は特高の監視対象になっていました。小樽出身の小林多喜二とも面識があったようですね。そういった時代の状況、社会的な関心がそれなりにあったと思います。生きていたら江間章子のように社会性を強めたかもしれないし、あるいはもうペンを折ったかもしれない。一九三六年の一月(二・二六事件の直前)に亡くなったことで直接の戦争を経験しなかったことが、彼女の評価に影響した側面はあります。戦争詩に移行したモダニズム詩人たちは、戦後に確立した詩史叙述においてはかなり追いやられますよね。
蜂飼/左川ちかが亡くなった次の年に死んだのが中原中也なんですよね。中原中也も実は似たようなことを言われていますよね。戦争期を経過したらどうなったかわからないと。」

「鳥居/モダニズムの詩というのは、流行のデザインをみんなが模倣したにすぎなかったみたいに戦後言われて、否定的に見られていた傾向もあったんですよね。その背景としては多くの詩人が戦争に協力する詩を書いてしまった、それはモダニズム詩人に限らないんですが、最新の芸術思想を体現していたモダニズム詩人も他の多くの詩人と同じように戦争に協力する詩を書いてしまったこともあって、批判的に見られることが多かった。けれども、「モダニズム詩はきらびやかだけど意味のない単なる戯れだった」という評価だけで終わらせてはいけないと考えていて、モダニズム詩には現代まで続く近代社会の様々な問題について提起するところがある。左川ちかもそのことをよく示していると思います。もちろん、佐川ちかの作品世界自体がとても味わい深いのですが、左川ちかをきっかけにしてモダニズム詩自体の評価につながってもいいかなと思って、私は博士論文の前半部分でモダニズムの詩人を取り上げました。(・・・)佐川ちかの詩には、社会で職業婦人やモダンガールが登場するなど、それまでのジェンダー概念がゆらぐ中での主体の模索が表れている側面があると思います。
島田/停止した完成形ではなくて、未完成の運動体を愛した人だというのは本当にそうですね。」

(「小特集 左川ちか」〜酉島伝法「幻の鏡」より)

「言葉とビジュアルが相互作用する作品に興味が強く、北園克衛あたりを読むうちに、左川ちかという名前を知ったのだと思う。十数年前のことだ。」

「左川ちかが詩をどのように捉え、書いているのかをずっと知りたいと思っていたが、「魚の眼であったならば」という詩論ではそれを垣間見ることができ、感銘を受けた。〝私たちは一個のりんごを画く時、丸くて赤いといふ観念を此の物質に与へてしまつてはいけないと思ふ。〟〝詩の世界は現実に反射させた物質をもう一度思惟の領土に迄もどした角度から表現してゆくことかもしれない。〟そして、〝私は虫のやうな活字を乾いた一片の紙片の上に這わせる時のことばかりを考へてゐたから。〟という一文には、「昆虫」がすっと結びつき、まさに活きる字で書いた詩人なのだと感じ入った。その頭にあったのは蛹になる前の幼虫だろうか。
 左川ちかは未完成なものに惹かれ、作品は常に進行形で幾つものヴァリアントを作り続けた。それは今も続いているのかもしれない。読み手は何も知らずに読んだ最初の印象を大切にしつつ、書簡などで生に近い言葉に触れたり、解題や解説で知った背景や理解の深まりによって、あるいは思い込みや誤読によって感想のヴァリアントを生み出し続け、詩は繰り返し象りなおされることになるだろう。〝常に見えない紐によつて釣り上げられ、またはお互に引き合つてゐるのだ。〟〝どれがほんとうの私なのかわからなくなるまで、幻の鏡。〟


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