アラン・ド・ボトン『メランコリーで生きてみる』
☆mediopos3639(2024.11.5.)
現代はきわめて外向的な時代で
外向的な人が得意とするような
「初対面の人に好印象を与える、
大きな会議に出席する、スピーチする、
ライバルに秀でる、人を指揮する、喜んで参加する、
世論を反映する、社交的である、よく旅をする、
気軽に出かけて幅広くお付き合いする」
といったことを苦手とする
メランコリーで内向的なひとは軽視されがちで
外向的なひとの得意とすることを
なんとか成し遂げようとしたりすると
病的な症状になったりする
悪くすれば
精神科医に診てもらうように言われたり
向精神薬が投与されることになったりもする
病的な症状になるというのも
外向的なものが指向されることに対する
「影」を背負ってしまっているところも多分にありそうだ
メランコリーについては
mediopos2766(2022.6.14)で
谷川 多佳子『メランコリーの文化史』
そして人間の気質に関する
シュタイナーの講義をとりあげたことがある
必ずしもメランコリーについて否定的にだけ
とりあげられているわけではないが
どちらかといえば「精神医学」的なものとの関係で
不安や抑圧さらには鬱病的なものとしてとりあげられている
それに対し
アラン・ド・ボトン『メランコリーで生きてみる』は
内向的でメランコリックな人にとって
メランコリーを復権させ重要な役割を与える希望の書でもある
メランコリーといえば
憂鬱・もの悲しさ・気分の落ち込み・ふさぎ込み・哀愁
といったような心の状態がイメージされる
それは誰しもが多かれ少なかれ抱く感情であるにもかかわらず
外向的な現代社会においてはネガティブにとらえられがちだが
そうしたメランコリーこそが
「不完全で残酷」な世界とそんな世界を生きている私たちが
よりよく生きるための最善の方法で
「苦しみに対する最善のその心構え、そして、疲弊した心を
希望や善を失っていないものへ向かわせる
もっとも賢明なその態度を、うまくとらえたことばが
メランコリーなのだ」というのである
メランコリーそのものについての話ではないが
「正しさとメランコリー」の章の冒頭で
こんな言葉が投げかけられている
「相手が善人かどうかを見きわめるのに必要な問いかけは、
ただひとつ。あえてシンプルにこう尋ねればいい。
「あなたは自分を善人だと思いますか?」」
そしてこう示唆している
「これに対する納得のいく答えはひとつしかない。」
「いいえ」
現代ではいかに自分が正しいかを
議論によって「論破」しようとする
あるいは都合の悪いときには隠蔽したりもする
きわめて外向的な指向があり
政治家も官僚も学者もいうまでもなくマスメディアも
外向的でなければ成り立たないほどになっている
章の最後には
「ヨハネ福音書」の第八章にある
パリサイ人たちに対するイエスの言葉
「あなたたちのなかで罪を犯したことにない者が
まず、この女に石を投げなさい」がとりあげられているが
メランコリーであることが許されない現代のパリサイ人たちは
おそらく躊躇いもなく石を投げるだろう
■アラン・ド・ボトン(齋藤慎子訳)
『メランコリーで生きてみる』(フィルムアート社 2024/10)
■谷川 多佳子『メランコリーの文化史/古代ギリシアから現代精神医学へ』
(講談社選書メチエ 講談社 2022/6)
■ルドルフ・シュタイナー(西川隆範訳)「人間の四つの気質」
(ルドルフ・シュタイナー『人間の四つの気質』風濤社 2000/3 所収)
**(アラン・ド・ボトン『メランコリーで生きてみる』〜「はじめに」より)
*「人間生きていれば、悲しみは避けて通れないけど、その対処方法には実にいろいろある。激しく怒る、絶望する、叫ぶ、悲嘆に暮れる、すねる、泣くのもそうだろう。ただ、わたしたちが悩ませられているこのみじめで不完全な状態に向きあう最善の方法は、ある感情に落ち着くことかもしれない。それは、あわただしい現代社会ではいまだめったに語られることのない、「メランコリー」という感情だ。直面しているさまざまな問題の大きさを考えれば、いつも幸せであろうとするのではなく、もの悲しさに賢く上手に慣れていく方法を身につけることも同じように重要なはずだ。苦悩のしかたにも善し悪しがあると言ってよければ、メランコリーは、人生のさまざまな試練に直面する最適手段として、広く世に知られてもおかしくない。」
*「メランコリーは失望とは違う。メランコリーな人には、失意の人が潜在的に抱えている楽観主義が一切ない。だから、がっかりしたことに対して怒りでとげとげとげとげしいことばを吐かずにすむ。ごく若いうちから、人生の大半は苦しみだと理解し、人生観もそのように組み立てている。もちろん、だからといって、人生の苦悩や、不当さや、辛さを喜んでいるわけではない。それでも、本当はこんなはずじゃなかったと思うほど図々しくもなれない。
メランコリーは怒りとも違う。最初はどこかで交差していたかもしれないが、怒りはとうの昔に消え失せ、はるかに円熟し、もっと思慮深く、あらゆるものの不完全さに対してもっと寛大になっている。メランコリーな人は、辛いことや動揺させられることを、しかたがない、といった感じで「そりゃたしかに」と受け止める。(・・・)
それでも、メランコリーな人は被害妄想(パラノイア)にはならないようにしている。困ったことはたしかに起こる。でも、それは自分ばかりに起こるわけでも、自分がなにか特別悪いことをしてきたせいでもない。ごく普通に不完全な人間がある程度生きていれば降りかかってくるこよ、それだけの話だ。(・・・)
もっと言えば、メランコリーな人は皮肉屋とも違うから、身を守る手段として悲観主義を用いているわけではない。自分が傷つかないよう、なにもかもけなしてやろうなんて思っていない。依然として、ちょっとしたことに喜びを見出し、小さなことのひとつふたつは————たまには————うまくいくかもしれない、と期待することができる。この世に確実なことなどないのを知っているだけだ。
メランコリーの根底には、あらゆるものが不完全であるという認識も、理想と現実の絶え間ないギャップもあるだけに、メランコリーな人は、ふと浮かび上がる美や善に対する感受性がとりわけ鋭い。(・・・)
メランコリーな人がとりわけ苦しむのは、朗らかさが求められる環境だ。職場文化は辛く、消費社会は不快かもしれない。」
*「この本のねらいは、メランコリーを復権させ、もっと重要かつ明確な役割を与え、もっと語りやすいものにすることにある。」
**(アラン・ド・ボトン『メランコリーで生きてみる』〜「知性とメランコリー」より)
*「メランコリーの歴史が始まったばかりの頃、古代ギリシャの哲学者アリストテレスがこんな問いを投げかけたと言われているが、ちょっと独りよがりにしか思えない。「哲学、政治、詩歌、芸術で傑出した人物の多くが黒胆汁(メランコリー)であるのは、いったいどうしたわけか」。メランコリーと優れた才能の関連性の根拠としてアリストテレスが挙げたのが、プラトン、ソクラテス、ヘラクレス、アイアスだった。これが定着し、中世には、メランコリーな人は「土星の徴の下に」生まれたとされていた。土星は同時発見されていた惑星のなかで地球からもっとも遠く、冷たく暗いものと結びつけられていただけでなく、ずば抜けた想像力を刺激する力とも結びつけられていた。ここから、メランコリーであることへの誇りが芽生えるようになった。朗らかな人なら見落とすようなことにも、メランコリーな人なら気づくかもしれないからだ。」
*「メランコリーな人が、どういうかたちであれ優れた知性の持ち主であると言えるのは、本をたくさん読んでいるからでも、黒を魅力的にまとっているからでもない。数え切れない失意の種と、人生にたまにあるすばらしいことのちょうどいい折り合いを、上手に見つけているからなのだ。」
**(アラン・ド・ボトン『メランコリーで生きてみる』〜「向精神薬とメランコリー」より)
*「わたしたちの文化は、幸せ探しに熱心なだけじゃなく————多くの場合————悲しい気分にあきらかに耐えられない。気分が落ち込んでくると、話題を変えられたり、わくわくする映画を観るように勧められたり、スキーでもしてきたらと促されたり、甘いもの、あるいはきらいきらするものを見せられたりする。それでもまだ憂うつな気分が続くようなら、精神科医に診てもらうように言われる。精神科医はセトロニン値を検討して、なるべく早くチームスポーツに加わったり、仕事に出掛けたり、家族を大切にしたり、国への義務を果たしたりできる状態に私たちを戻そうとする。
向精神薬は————ある状況においては————大きな成果をもたらしている。気がかりなのは、悲しんでいる人に手を差し伸べようとする社会よりもむしろ、ときにはきちんと嘆き悲しむべき、と考えることに本質的に耐えられない社会だ。」
*「悲しみに対して向精神薬を熱心に処方するのは、まともな人生に悲しみの居場所はない、「とほのめかしていることになる。」
**(アラン・ド・ボトン『メランコリーで生きてみる』〜「内向性とメランコリー」より)
*「メランコリーな人はおそらく、そもそも内向的でもあるはずだ。現代社会は内向的な人もその正反対の人もどちらも尊重する、なんて言ってはいるけれど、実際には、その行動も、見返りも、魅力もすべて、外向的な秘とたちの才能うあ気持ちに一致するよう、まさに想定されている。まともだと思われたり、成功を収めたりする可能性を少しでも得るには、外向的な人がもともと得意そうな離れ業をなんとか成し遂げなければならない。初対面の人に好印象を与える、大きな会議に出席する、スピーチする、ライバルに秀でる、人を指揮する、喜んで参加する、世論を反映する、社交的である、よく旅をする、気軽に出かけて幅広くお付き合いする、などなど。」
*「メランコリーで内向的な自分の性質をわかっていることは、たんに感受性豊かな自己認識のひとつではない。心の健康に関わることなのだ。自分の内向性ときちんと折り合いをつけられないと、過剰な負担と、そのあとに生じる不安や被害妄想へまっしぐらになるからだ。神経衰弱ということばが指しているのは、静けさ、安らぎ、自分への思いやり、調和をもっと求める内向的人間の心の叫びにすぎない場合が覆い。だから、年季の入った内向的人間が、社交的な予定をなるべく入れないようにする必要性をわかっている。内向的な人の平静さは、ひとりになる時間を持つという、自分に必要なルーチンをきちんと守れるかどうかにかかっている。」
**(アラン・ド・ボトン『メランコリーで生きてみる』〜「正しさとメランコリー」より)
*「相手が善人かどうかを見きわめるのに必要な問いかけは、ただひとつ。あえてシンプルにこう尋ねればいい。「あなたは自分を善人だと思いますか?」
これに対する納得のいく答えはひとつしかない。本当に善人で、思いやり、我慢強さ、寛容さ、歩み寄り、謝罪、優しさというものを理解している人であれば、決まってこう答えるはずだ。「いいえ」
善人であれば、自分にはやましいことが一切なく、純真だなんて思うはずがない。」
*「パリサイ人たちへのイエスの答えは不朽の名句となっている。「罪のない者が、まず石を投げなさい」。この戒めを理解した群衆は石打ちの道具を下ろし、おびえていた女性は命拾いをした。」
「自分自身の過ちをしっかり自覚している社会は、きっと非常にメランコリーな社会だろう。つまりそれは、まれに見る思いやりのある社会でもあるはずだ。」
**(アラン・ド・ボトン『メランコリーで生きてみる』〜「思春期とメランコリー」より)
*「メランコリーな気分になるのも当然、という時期は人生にあるとしたら、それはざっくり言って十三歳から二十歳くらいまでもあいだだ。
この時期に相当な苦悩、みじめな内省、強烈な場違い感を経験してこなかった人間が、引き続き順調な、なんならある程度満足のいく人生を過ごすことになるとは想像しづらい。」
*「ある種の深い理解に本当に至るには、苦しまなければならない。自然の計らいでそうなっているらしい。ただし、なにか理由があって苦しむのと、無駄に苦しむのとでは大違いだ。いやなこともいろいろあるけれど、思春期のすばらしさのひとつは、そうして味わった苦悩が、大人になってからの決定的なできごとや気づきのいくつかにしっかりと根づいていることだ。おもしろくもみじめな思春期の数年間は、メランコリー全盛期として祝福されるべきなのだ。」
**(アラン・ド・ボトン『メランコリーで生きてみる』〜「園芸とメランコリー」より)
*「メランコリーな人は、人間が──だれよりもまず自分自身が──救いがたいことを知っている。完全な純潔さや汚れなき幸せという夢をあきらめている。この世界が、ほとんどの場合、恐ろしくてどうしようもないほど残酷なのを知っている。心を占めるさまざまな苦しみがまだ当分は続くことを知っている。それでもなお、絶望してしまわないよう必死にがんばっている。[…]苦しみに対する最善のその心構え、そして、疲弊した心を希望や善を失っていないものへ向かわせるもっとも賢明なその態度を、うまくとらえたことばがメランコリーなのだ。」
**(アラン・ド・ボトン『メランコリーで生きてみる』〜「訳者あとがき」より)
*「本書の通奏低音をひとことで表すなら、「メランコリー」ってなんとなくネガティブなイメージがあって無私されたり軽視されたりしがちだけど、実はすごく役に立つ大切な感情なんだと、人間生きていればだれでも困難や苦悩は避けて通れないけど、そうしたものを穏やかに受け入れ、ゆるやかに、賢く、粛々と対応しようとする姿勢なんだと、絶望にも無邪気な楽観主義にも偏ることなく、そのちょうど中道を行く、ある意味理想的な歩み方なんだと、という感じでしょうか。」
*******
(谷川 多佳子『メランコリーの文化史』より)
「時代の大きな状況からの鬱、他方、個人の生の根底にある深い苦しみや死の隣接への恐れ、両者は重層的に私たちに鬱をもたらしている。
「メランコリーは古代ギリシアから始まる。美術に、図像として座位で肘をつき手を頬にあてる姿勢がある。医学は人間の体液を四つに分け、そのうちの黒胆汁を憂鬱の原因とし治療を探る。黒胆汁は夜の禍々しさを表し、狂気の源ともされたが、アリストテレスは憂鬱質に肯定的で、黒胆汁を天才に結びつける。こうした古代の医学や哲学は、シリアやアラビアに移り、メランコリー医学はアラビアで優れた業績をなし、それが一一世紀以降ヨーロッパに環流する。
中世のキリスト教世界では、メランコリーは修道僧の「怠惰」————それは精神の疲弊、ある種の絶望といえる————と同一視されて罪となる。だが、ビンゲンのヒルデガルトは自然界の薬草や動物をもちいた治療法を示して中世の優しさを感じさせ、またアガンベンは現代、「怠惰」に、精神の豊かな可能性を前にした逃走の感覚をみるなど、中世の豊穣さがみえる場面もある。
バビロニアの占星術から伝えられた土星は、メランコリーにつながり病や死、恐怖、悲しみをもたらす不吉な惑星とされる。だが土星によって深い瞑想力を与えられた魂は、外面から内面へと向かう。」
「ルネサンスになるとメランコリーと土星の復権が著しい。デューラーの《メレンコリアⅠ》は迷宮とまでいわれる複雑な銅版画だが、そこでは憂鬱は不活発や悲しみとともに、知力ある瞑想を表現している。技術や数学にかかわる道具類は、幾何学的な学問の力につながり、メランコリーの人物の瞑想には近代的な内面性がみられる。デューラーは遠近法の誕生にもかかわるが、そうした遠近法は近代の思想や科学の、空間や主体の確立を助ける。宗教改革の荒波のなかでデューラーはルターを支持し、デューラーやクラナハらはプロテスタントのための作品を遺した。他方、カトリックの側でも、聖書の物語を視覚化する画家たちの仕事がある。同時代、神の対極である悪魔についての絵画もみられる。」
「近代初め、思考による自己省察の形姿をみると、モンテーニュにはメランコリーとの深いかかわりがみられる。モンテーニュのような、憂鬱質の、幻想的な怪物をみるような自身の想念は、デカルトの自己省察においてはなくなり、自己は、身体[物体]から分かたれた「精神」となる。その生理学において四体液説は残存し、狂気が脳内の黒胆汁によって説明される。当時の代表的なメタランコリー論(ロバート・バートンなど)も四体液説を受け継いでいて、治療には医学と神学との視点がある。医学的な体液による説明のあと、治療の基本は神への祈りで、神がメランコリーを治癒するのだが、媒介的に医師の扶けが必要になるとされる。だがデカルトでは、神学の視点が消失する。メランコリーの病理は、身心の相互作用によって説明され、そこから治療が与えられる。デカルトから半世紀あとのライプニッツになると、「メランコリー」の概念はみられず、「不安」が取り上げられる。不安は実生活の場で、選択や意志にかかわっていく。」
「これに呼応するかのように近代医学において、メランコリーが黒胆汁の過剰とされていた体液説が訣別されて、メランコリーは不安や抑圧、デプレッションとしてとらえられるようになる。精神医学の成立とともに、狂気やメランコリーの概念の分類がなされ、病としてのメランコリーは、近代の都市や郊外で、病院や医者によって治療されるものとなる。一九世紀半ばシャルコーは、鬱病と等価とされていたヒステリー発作を、写真や図像でとらえ、中世以来の悪魔や憑依の形象を研究する。フロイトも、悪魔や憑依に関心をもち、悪魔憑きの患者にメランコリーをみる。「喪とメランコリー」を考察して。メランコリーにおける対称の喪失(未知なるものの喪失)と自我の消尽を明らかにし、それは「死の欲動」につながる。対称の喪失や主体の分裂は精神分析においても語られ、芸術においてはジャコメッティが死に隣接した、未知の空虚、消滅への恐れを作品であらわす。フロイトの「未知なるものの喪失」はジャコメッティの「未知の空虚」にふれあい、そこでは存在が、空虚とそして死に接している。」
*******
(ルドルフ・シュタイナー「人間の四つの気質」より)
「「別世界に由来する精神−心魂が、どのようにして地上の身体と結び付くのか。遺伝された身体的特質を、どのようにして纏うことができるのか。輪廻していく精神−心魂の流れと、身体的な遺伝の流れが、どのように結びつくのか」(・・・)。二つの流れが結合することによって、一方の流れが他方の流れを染めます。たがいに染め合うのです。青と黄が一つになって緑になるように、二つの流れが人間のなかで結び付いて、「気質」と言われるものになるのです。そこでは、人間の心魂と遺伝された特質が、たがいに作用を放射しています。その二つの間に気質があります。(・・・)
人間が物質界に歩み入り、二つの流れが人間音なかで合流することによって、四つの構成要素(物質体(肉体)・エーテル体(生命体)・アストラル体(感受体)・自我)がさまざまに混じり合います。そして、どれか一つが他の構成要素を支配し、色合いを与えます。
「自我」が他の構成要素を支配すると、胆汁質が現れます。「アストラル体」が他の構成要素を支配すると、多血質の人間になります。「エーテル体」が支配的だと、粘液質になります。「肉体」が支配的だと、憂鬱質になります。永遠のものと無常なものが混ざり合って、構成要素間のさまざまな関係が現れるのです。
(・・・)
胆汁質の人においては、血液系統が支配的です。ですから胆汁質の人は、どんなことがあっても自分の自我を押し通そうとします。(・・・)
打ち寄せるイメージ、感受・表象に没頭する多血質の人の場合、アストラル体と神経系統が支配的になっています。(・・・)
人間の内面で成長と生命の経過を調整するエーテル体(生命体)が支配的になると、粘液質が発生します。それは、内的な気持ちよさに表現されます。人間はエーテル体のなかに生きれば生きるほど、ますます自分自身に関わり、他のことはなるがままに任せるようになります。自分の内面に関わっているのです。
憂鬱質の人の場合は、人間存在のなかでもっとも濃密な構成要素である肉体が、他の構成要素の支配者になっています。この最も濃密な部分である肉体が支配的になると、自分自身が支配者ではなく、「自分は肉体を、思うように取り扱えない」と観じます。肉体は、人間が高次の構成要素をとおして支配すべき道具です。しかし、いまや肉体が支配的になり、他の構成要素に抵抗します。それを人間は、苦痛・不快・陰鬱な気分として感じます。常に、苦痛が湧き上がってきます。肉体がエーテル体の内的なきつろぎ、アストラル体の内的な動き、自我の確固とした目標に抵抗しているので、陰鬱な気分が発生するのです。」
「どの気質にも、堕落する危険が多かれ少なかれ存在します。
胆汁質の人の場合、青年期に自分を抑制できずに、怒り狂って自我を刻み付けるという危険があります。これは小さな危険です。大きな危険は、自分の自我から何か一つの目的を追求しようとする愚行です。多血質の人の場合は、気まぐれになるのが小さな危険です。大きな危険は、感性の波が打ち寄せ、狂気になることです。粘液質の小さな危険は、外界に対する無関心です。大きな危険は、愚鈍、白痴になることです。憂鬱質の小さな危険は、暗い気分であり、自分の内面に立ちのぼる暗い気分を乗り越えられないことです。大きな危険は、狂気です。」
*******
□ 『メランコリーで生きてみる』(【目次】
はじめに
知性とメランコリー
向精神薬とメランコリー
孤独とメランコリー
達成とメランコリー
人口過剰とメランコリー
写真とメランコリー
母親のおなかのなかとメランコリー
天文学とメランコリー
風景とメランコリー
内向性とメランコリー
セックスとメランコリー
性交後とメランコリー
歴史とメランコリー
正しさとメランコリー
恋焦がれとメランコリー
パーティーとメランコリー
分裂スプリッティングとメランコリー
ポスト宗教とメランコリー
シェイクスピアのソネット二十九番とメランコリー
建築様式とメランコリー
思春期とメランコリー
五十歳とメランコリー
贅沢な気分とメランコリー
日曜の黄昏どきとメランコリー
アグネス・マーティンとメランコリー
北斎とメランコリー
旅とメランコリー
人間嫌いとメランコリー
人類滅亡とメランコリー
アメリカとメランコリー
家畜とメランコリー
タヒチ島とメランコリー
政治的意見とメランコリー
内なる批評家とメランコリー
園芸とメランコリー
訳者あとがき
図版出典
・『メランコリーで生きてみる』著者
○アラン・ド・ボトン(Alain de Botton)
哲学者。1969年スイス生まれ、現在ロンドン在住。「日常生活の哲学」をめぐるエッセイで知られ、執筆の対象は愛、旅、建築、文学など多岐にわたる。おもな著書に『哲学のなぐさめ──6人の哲学者があなたの悩みを救う』(集英社、2002年)『旅する哲学──大人のための旅行術』(集英社、2004年)、『美術は魂に語りかける』(共著、河出書房新社、2019年)など。
・『メランコリーで生きてみる』訳者
○齋藤慎子(さいとう・のりこ)
英日、西日翻訳者、ライター。『北欧スウェーデン式自分を大切にする生き方』(文響社)、『アランの幸福論』『バルタザール・グラシアンの賢人の知恵』(以上ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『トレバー・ノア 生まれたことが犯罪!?』(英治出版)、『最新脳科学でわかった 五感の驚異』(講談社)、『精霊に捕まって倒れる』(共訳)『大適応の始めかた』(以上みすず書房)などのほか、ビジネス書の訳書多数。