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デニス・プロフィット/ドレイク・ベアー『なぜ世界はそう見えるのか/主観と知覚の科学』

☆mediopos3365  2024.2.3

本書『なぜ世界はそう見えるのか』の最後に
二十世紀初頭のスペインの詩人
アントニオ・マチャードの詩の一節が引かれている

 恋人よ 道はない
 歩くことで道はできる

そして「足跡は道となる。
道案内は、身体がしてくれるだろう。」と示唆される

意図は異なっているだろうが
この詩から思い出されるのは
高村光太郎の詩『道程』である

 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出來る

本書で繰り返されるキーフレーズは
「あなたは世界を見ているのではない。
『あなたが見る世界』を見ているのだ」だが

わたしたちはふつう素朴に
みんな同じ世界を
「見て、聞いて、触れて、嗅いで、味わ」っている
と思っているが
それらの経験的事実は
「人それぞれに固有のもの」で
世界は個々人の生育環境や身体の状態により様相を変える

昨今の「脳」偏重の向きのなかで
本書は「身体」の重要性が説かれているのである

わたしたちは身体による経験によって
じぶんの「環世界(ウンヴェルト)」を形作っていく

私たちの「思考」もまた身体化されたもので
その「知覚世界————環世界(ウンヴェルト)————に現れる思考は、
身体の内部で生じる感情や感覚の影響を受ける」

まさにじぶんが思い感じ考え行動したことが
じぶんの経験する世界をつくっていく

『道程』の言葉をもじれば

 僕の前に世界はない
 僕の後ろに世界はできる

ということにもなるだろうか
そしてそこには「身体」が重要な働きをしている

したがって視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚
さらには身体的な行動がどのような経験をするかによって
世界がどうとらえられるかが変わり
その世界からまたフィードバックされることで
みずからの感覚世界・思考世界・意志世界も変わってくる

その意味でいえば
感覚・思考・意志は
外から与えられたものではなく
みずから作っていく必要がある

「なぜ世界はそう見えるのか」という問いに対し
「そう見えるように世界を作っているのだ」
と答えることもできるということだ

外からは同じように見えることも
だれもが同じ経験をしているとはいえない
「僕の前に世界はない
 僕の後ろに世界はできる」のだ

そのときでき得る限り意識化していく必要があるのは
じぶんの属する「集団的アイデンティティー」だろう
それは「多くの面で世界や他者に対する
私たちの見方を誘導し」ているからである

「集団的アイデンティティー」は
水のなかにいる魚が水を意識し難いように
自らの見方を意識し難くしている

■デニス・プロフィット/ドレイク・ベアー(小浜杳訳)
 『なぜ世界はそう見えるのか/主観と知覚の科学』(白揚社 2023/9)

*(「はじめに おれは電熱の肉体を歌う」より)

「私たちはだれもが同じ世界を経験しているはずだという共通の思いこみのもとに日常生活を送っているが、知覚研究でわかるのは、経験的事実————見て、聞いて、触れて、嗅いで、味わう世界————は人それぞれに固有のものだということだ。バスケットゴールが三〇五センチメートルの高さだという事実は、あなたの身長が一四〇センチか二二三センチであるかによって、非常に異なる意味を帯びてくる。

(・・・)

 デニーや共同研究者、また他の研究者の実験でも、パットがうまいゴルファーはホールカップのサイズを実際より多く見ていること、成績のいいアメリカンフットボールのプレースキッカーの目はゴールポストの感覚を広く、クロスオーバーの高さを低くとらえていること、成績のいいアーチェリー選手には的の中心が大きく見え、それはダーツプレイヤーでも同様なことがわかっている。肥満の人や疲れている人は、やせている人や休息をとった人よりも、対象物までの距離を長く感じる。優れた水泳選手および足ひれを付けた人は、水中の距離を短く見積もる。物に手を伸ばすとき、道具————スーパーマーケットで見かける、最上段の棚に置かれたシリアルの箱を取るためのマジックハンドなど————を手にしていると、距離の目算が短くなる。車を運転してきた人は、歩いてきた人よりも、移動距離を短く感じる。

 他の動物の調査を開始するときには自然と浮かぶような問いを、人間を調べる心理学者はめったに問いかけない。われわれの目の前にいるのは、どのような動物なのか。どのような身体を持ち、その身体によってどのような行動が可能なのか、私たちはそうした問いから乖離した、肉体のない脳の時代に生きている。(・・・)認知科学者にとっての脳は、抽象的な記号計算を行うコンピュータだ。いずれの分野においても、身体は、脳をこなたから彼方へ移動させる手段ではあるかもしれないが、重要なものとはみなされていない。

 だが現代の知覚研究の一端が明らかにしたように、人間が考え、感じ、存在するありようは、否応なく肉体によって方向付けられるのである。身体と脳は不可分に混ざり合っているというこの事実を、探求すると同時に広く世に知らしめんとするのが、本書である。身体とは何か————身体に何ができ、何が必要で、何を避けるべきかのか————を知ることで、より深く自分自身を知り、人生を理解できるようになる。そのためにはまず、脳を身体の中に戻さねばならない。」

*(「【第一部 行う】 第一章 発達する」より)

「身体の発達と運動スキルの熟達に伴い、私たちは周囲に新たなアフォーダンスを見出すようになる。発達、実践、発見の三者は、互いに分かちがたく結びついている。身心が発達し、実地での練習を積むにつれ、噛めるものだらけだった世界が、やがてはつかめるもの、投げられるもの、場合によってはスリーポイントシュートができるものに満ちた世界になっていく。どんなことを、どれくらいうまくできるかによって、人間の環世界(ウンヴェルト)が形づくられていくのだ。」

*(「【第二部 知る】 第四章 考える」より)

「思考は身体化されたものである。私たちの知覚世界————環世界(ウンヴェルト)————に現れる思考は、身体の内部で生じる感情や感覚の影響を受ける。思考には、直感、努力の感覚、感情、情動などが伴う。理性と情動はまったく別個の、分離可能な心的能力ではない。むしろその二つは、意外な形で絡み合っているのだ。情動に関して言えば、私たちは「やるかやらぬか」————新たな試みに乗り出すか、やめるか————を決める際、感情的感覚の穏やかだが熱心なはたらきかけを受ける。どの株を買うか、だれを恐れるか、どの政党に投票するかに結論を下すとき、そこにはじつは感情や感覚が絡みついているのである。」

*(「【第三部 帰属する】 第七章 つながる」より)

「健康、寿命、幸福、認知機能————このどれもが————ソーシャルサポートによって維持され、よりよいものへと変えられている。愛する人の手を握ると、不安が和らぐ。友人と昇る坂道は、それほど急坂に見得ない。こうした発見が教えてくれるのは、人間の環世界(ウンヴェルト)————知覚世界————は他の人々であふれており、彼らは私たちの幸福や健康を気にかけ、困ったときには手をさしのべる存在として知覚されているということだ。そうした他者への期待は、幼少期かた大人になるまでに各自が味わった、愛着の経験によって形作られる。ヒトという種は、社会的動物となるよう進化した。人間の赤ん坊を育てるいんは膨大な手間と時間がかかり、親一人では到底無理だ。社会的動物である私たちは、世界を、社交の機会とコストに満ちたものとしてとらえる。そして自分を、仲間と形作る特定の集団、すなわち「内集団」に属する一員とみなす。その外側にいる人々は、「外集団」だ。」

*(「【第三部 帰属する】 第八章 同一化する」より)

「特定の相手を他者化する、つまり外集団に属するものとみなしたり知覚したりすると、その相手を心情的に理解できない、不可解な存在となる。ある意味で客体化(モノ化)されるのだ。主体(人)ではなく、客体(対象)となるのである。

 集団的アイデンティティーが、いかに多くの面で世界や他者に対する私たちの見方を誘導しているかを考え始めると、ともすれば暗澹たる気分にさせられる。だが集団的アイデンティティーの皮相な側面(希望の持てる側面と言えるかもしれない)は、それが変わりいるということ、しかもときに急速に変わりうるということである。」

「私たちのアイデンティティーは、帰属する人々や集団に結びついている。

 アイデンティティーの領域は、何層ものソーシャルサポートを通じ、次第に外へと広がっていく。家族や共同養育者かた、隣人、学校、宗教団体へ、やがては母国、そして文化圏へと拡張されるのだ。どの国も、突きつめればその国にしかない地理的条件のもとに築かれており、特定の暮らし方だけをアフォードする生態学的地形を備えている。」

*(「おわりに 歩くことで道はできる」より)

「本書でみなさんにお伝えしたいのは、「知る」ためには、その前に「行う」こと————自分の身体を用いて、意図的に行動すること————が必要だという点である。自ら回転木馬を回した子猫は空間のアフォーダンスを知覚する方法を学習したが、ゴンドラに入れられた受動的な子猫は学習しなかった。あらゆるところにAIが使われる未来の世界で、私たちは何を自分で行う選択をし、その結果何を知るのだろうか。

 二十世紀初頭のスペインの詩人アントニオ・マチャードの詩に、こんな一節がある。

 恋人よ 道はない
 歩くことで道はできる

 足跡は道となる。道案内は、身体がしてくれるだろう。」

*(「訳者あとがき」より)

「知覚が専門のベテラン心理学者デニス・プロフィットと気鋭の実力派ライター、ドレイク・ベアーがタッグを組み、知覚をめぐるこうした疑問に真っ向から取り組んだのが本書である。プロフィットとベアーは脳を偏重する近年の風潮に異を唱え、むしろ重要なのは身体だと説く(原書の副題も、「身体はいかにして心を形作っているのか」だ)。意外性に満ちた数々の研究が明かすのは、驚愕の事実だ。私たちが経験している現実————だれもが同じように知覚しているつもりの、この《世界》————は、個々人の生育環境や身体の状態によって、大きく様相を変えるのだという。それどころか私たちの思考までが、じつは身体や身体のなす行為に左右されるというのである。本書には、それを端的に言い表したキーフレーズが幾度となく登場する。いわく、「あなたは世界を見ているのではない。『あなたが見る世界』を見ているのだ」」

○目次

はじめに おれは電熱の肉体を歌う

【第一部 行う】

第一章 発達する
歩くことを学ぶ/視覚の機能をとらえなおす/視覚的断崖とゴンドラ猫/手でつかめば世界が把握できる/ゾーンに入る

第二章 歩く
坂の傾斜はどのように知覚されるのか/歩行が生んだ人間の世界/表現型に沿った生き方/世界は伸び縮みする

第三章 つかむ
人間の手(と行為)は心を宿している/手が語る人類の歴史/見えないのに見えている/手が注意を誘導する/利き手が善悪を決める

【第二部 知る】

第四章 考える
ガットフィーリング/思考と生体エネルギー/流暢性/多様性が集団意思決定において重要なのはなぜか/フェイクニュースと身体化された思考

第五章 感じる
情動を知覚する/やれ、やるな/社会的痛み/感情の誤帰属とうつ/恐怖を感じると世界が歪む

第六章 話す
口と手のつながり/手を使って話す/インデックスは音声でも作られる/身体化された語源と記号接地問題/ボトックスと読解力との関係/動きによる読解

【第三部 帰属する】

第七章 つながる
心地よい接触がないと生きられない/皮膚は社会的器官である/MRIで手をつなぐ/友の存在が重荷を軽くする/母親と他者/絆の力/認知的加齢と社会的ネットワーク

第八章 同一化する
帰属する集団でものの見え方が変わる/他人種効果と没個性化/物語が持つ力/団結力の光と闇

第九章 文化に同化する
名誉の文化/文化相対主義/分析的思考と包括的思考/中国――稲作文化と麦作文化/社会的アフォーダンスと関係流動性

おわりに 歩くことで道はできる

謝辞/推薦図書/訳者あとがき/原註/索引

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