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ヴォルフガング・ギーゲリッヒ『仏教的心理学と西洋的心理学: 心理学の自己明確化に向けて』

☆mediopos2728  2022.5.7

異なるものと
真摯に対決するために
わたしたちはこの世に生まれ
魂を不断に育てている

ギーゲリッヒの表現には
確かにきわめて難解な側面があるが
その難解さは
単に答えを提供するのではなく
問いそのものをともに生きようとする
そんな「弁証法」的なプロセスとして
心理学をとらえているからこそなのだろう

本書のタイトルは
「仏教的心理学と西洋的心理学」とあるが
もちろんここで二つの心理学を
比較検討しようとしているのではない
その真摯な対決を通して
新たな魂の学としての心理学が目指されている

日本の心・西洋の心といった比較や
過去と現在といった比較のような
類型化した心理で個人の心理をとらえることはできない

「今日を生きている個人が、総体としては
心理学的には過ぎ去った時代に属していることがあり」
「今日を生きる別の人物が、その人の心理学的構造」においては
「真に現代的人間である場合もある」ように

たとえ物理的に同時代人であるとしても
異なる「歴史的地層」に住んでいると
ユングが表現しているように
心理学的には「まったく異なる歴史的時代を生きている」

東西の比較を行うとしても重要なのは
「二つの文化における心理学的に同時的な現象」であり
「共通の歴史的地層に属している必要がある」のである

私たちの日常的な場面においても
私たち一人ひとりは異なる「歴史的地層」に住んでいる
さらにいえば「歴史的」な側面を超えて
ある意味ではまったく異なった世界に住んでいるともいえる

その意味ではそうした
まったく異なった世界に住んでいる人間が
こうして同一の物理的世界に存在している
そのことこそが私たちがこうして
生まれてきた意味だとも言えるのだろう

心理学者はそうした異なった世界に住んでいる人間に
みずからの理論や世界観や主観的意見を
外から侵入させることなく
「与えられた現象の内的真実だけに発言させるために、
真摯に最善の努力をすること」が条件づけられている
そして相談室にいる二人の心の対話や相互作用によって
「治療」が成立することになる

さてそうしたなかで心理学者は
「人間に対する客観性」を獲得することに関して
素朴な主体−客体の区分を去り
「主体は主体自身の内側に、すでに主体−客体を携えている」
という洞察に至らなければならない

つまり「人がどのような場で「私」と発話したとしても、
その私というものは常に自己矛盾」であり
「私自身と「私自身にとっては未知のもの」との
結合と分離の結合」であるような「弁証法的」な在り方をしている

「相手」(=他者)との対決は
みずからの内なる「相手」(=他者)との対決であり
そうした弁証法的なプロセスとしての問いそのもののなかに
「真の自己認識」を得ようと努める必要があるということだろう

■ヴォルフガング・ギーゲリッヒ(猪股剛/宮澤淳滋 訳)
 『仏教的心理学と西洋的心理学: 心理学の自己明確化に向けて』
 (創元社 2022/3)

(「序論」より)

「本書のタイトルが示唆しているように、(・・・)東洋と西洋の類似性や本質的な差異について、一つひとつ彼らへの同意や翻意を示して、それを吟味することが本書の目的ではない。」

(「地理学の誘惑」より)

「日本の心と西洋の心との関係が二者択一の性質を持ち、いわば二卵性双生児の性質を持っているという想定は、幻想である。この「地図」のファンタジーは、心理学的現実があたかも空間内に定位される対象である、と言っているようなものである。(・・・)しかし、心理的現実は事象ではなく、すなわち空間内に定位される対象ではない。それは観念であり、概念であり、ファンタジーや、イメージや、態度や、感情等々である。それは自然世界の一部ではなく(・・・)、その代わりに、厳密に理念的(概念的)な性質を持ち合わせている。心理学的現実は非−存在的な魂の中に身を置いている。そして、観念などとして、実際に意識を形作り特徴づけることで初めて、この現実の世界のでそれは効力を発する。しかしながらこのことが示唆しているのは、心理学的現実が、この世界における現実性としては、自然の中にも、空間内にも、地図上にも身の置き所がなく、その代わりに時間と歴史の中にその身を置いているということである。」

(「非同時的なものの同時性の原理、あるいは歴史的差異」より)

「ユングが思い描いていたのは、今日を生きている個人が、総体としては心理学的には過ぎ去った時代に属していることがあり、また一方で、同じように今日を生きる別の人物が、その人の心理学的構造に照らして見ると、真に現代的人間である場合もある、といったことである。物理的には彼らは同時代人ではあるが、心理学的にはダイアクロナス[異時代人]であり、つまりまったく異なる歴史的時代を生きており、あるいはユングの言葉を使えば、異なる「歴史的地層」に住んでいる。

 しかしながら、こうした類いの心的−歴史的地層化は、共存するさまざまな個人に、一つの地層が割り振られることで明らかになるだけではなく、一個人を通じても成り立ちうる。」

「ここから東西の比較に関する問いへと立ち戻り、これまでにもたらされた事実的に同時的なものの心理学的な非同時性という洞察に留意して、次のように結論づけなければならない。すなわち、比較に際して重要なのは、問われている二つの文化における心理学的に同時的な現象を検討することである。そして、単にそれらがたまたま事実として同時に存在しているということだけに基づいて現代文化と伝統文化を比較しないことである。比較されるものは、やはり、共通の歴史的地層に属している必要がある。」

(「魂の現象と心理学との共約不可能性」[共通の物差しで測れないこと]より)

「もしわれわれが西洋において、形而上学的あるいは超越的アイデアとしての仏心と論理的大勢が等価のものを探そうとするならば、それは「永遠なる救いか天罰か」といったアイデアや、あるいはキリストの三位一体や、天上のエルサレムや、処女降臨などといったアイデアを思いつくはずである。

 心理学において、これらのアイデアはどれも額面通りに受け取られるべきではない。(・・・)このようなものは、むしろすべて、魂の現象である————アイデアであり、ファンタジーであり、イメージであり、魂が魂自身について語っているのである。そのため、それらは心理学的に研究され解釈されるべき素材である。」

「いまやわれわれはよりはっきりと、仏教的な「心の構造」のアイデアとして提示されたものと、現代心理学との、共約不可能性を理解する。この二つは、それぞれ研究されるべき素材と、そうした存在を研究する分野として、互いに関連している。すなわち、分子や原子が原子物理学と関連し、ブラックホールが天文学と関連し、動物が動物学と関連しているのと、それは同じである。この二つは根本的に異なる水準にある。心の構造という仏教の概念は、形而上学的アイデアあるいは信仰体系として、論理的には、神話的アイデアやお伽噺や形而上学や夢や症状や妄想と同じカテゴリーに属している。」

(「自己と「確信」との未壊の結合 対 この融合の分離」より)

「自分の確信や偏見や信仰や暗黙の想定などに疑問を抱かず、それらを素朴に受け取り、反省せず、同一化している状態は、錬金術から援用された心理学用語を使って、unio naturalis[自然の一体性]と呼ぶことができる。これは、原初的な自分自身と、自分の「真実」との、未壊の結合である。しかし、錬金術と心理学のためには、この合併したもののセパラティオ separatio [分離]や解体が必要である。」

「人々は、客観的には現実の新たな論理の支配下にいるにもかかわらず、主観的にはすでに過ぎ去った時代の論理に従って思考し、行動している。とても頻繁に生じることだが、あまりに人間的な人間は、魂がすでに達成している発展に従えるようになるまでに、多くの時間を必要とする。そうした人間は、かつての論理に固くしがみついているために、魂が到達した新たな真実に激しく抵抗することさえある。」

「不可欠である第一段階(確実に革命的な第一段階)は、自然界や現象的存在と矛盾し対立する心や意識を自覚するようになることである。」

「第二段階が、この心と存在との融合の分離である。もう一歩進んで、この分離によって、意識が客体とは反対の主体としての形式を持っていることに、つまり「私」という形式を意識が持っていることに、気がつくのである。言い換えると、それは依存に浸かりきった状態から「私というもの」が「誕生」することである。(・・・)この第二段階は、自然な存在から、つまり unio naturalis[自然の一体性]から、主体を完全に解放するのである。」

「しかし、主体と客体がそれ自身へと帰り着くだけでは十分ではない。人間に対する客観性の獲得を人間自身が必要としていることについて語る時のユングは、まったく新たな第参段階を求めている。それは、主体によって明確な主体性の論理が実現された先にある。この追加された段階で、実際には、明示的な私というものとしての「私」の誕生に際して主体と客体との間に生じた分離と同じ分離が、もう一度繰り返される。しかしながら、今回この separatio [分離]の作業が二度目に生じなくてはならないときには、一つ前の分離(第二段階)から生まれた主体と客体との区別の第一の要素にだけ、すなわち主体である私というものにだけ、分離が適用される。このような第二水準の separatio [分離]という問題は、もちろん主体と客体の間の第一水準の分離が実際にすでに生じ、常態化しているところにだけ生じる。

 この新しい分離が示しているものは、主体が主体と客体の片側であるというだけではなく、主体はそれ自体が、主体−客体でもある(それ自体の内側に主体−客体を携えている)ということである。このことからわれわれは
 主体————客体
という素朴な対立ではなく、
 主体[主体−客体]————客体
というより複雑な形式にたどり着く。

 このように、人間に対する客観性を人間自身が獲得するというテーマに関わる議論では、われわれは素朴な主体−客体の区分の側を忘却しなくてはならない。主体に生じることを、つまり主体の内的な論理に生じることを理解できるようになるには、客体にではなく、私というものと主体に、集中しなくてはならない。というのもユングの発想を突き詰めれば、主体は主体自身の内側に、すでに主体−客体を携えているという、いま叙述した洞察に至るからである。主体は、この対立区分の片側にすぎないのではない。主体自身の内的構造としてこの対立を主体自身の中に携えてもいる。」

「人がどのような場で「私」と発話したとしても、その私というものは常に自己矛盾である。すなわちそれは弁証法的であり、「[主格の]私」と「[目的格の]私」の結合と分離であり、私自身と「私自身にとっては未知のもの」との結合と分離の結合である。あるいは、純粋概念と現実の現象との結合と分離の結合である。」


(「弁証法」より)

「以下の条件が求められている。責任ある心理学者であろうと努めること。(現れいる)イメージやファンタジーやアイデアに勝手に心理学者の意識を限定されることがないように努めること。与えられた現象の内的真実だけに発言させるために、真摯に最善の努力をすること。そうした現象の中で、すでに魂は客観的に————夢や神話やテキストや文化的現象として————魂自身を表現している。「できるだけそのままをもう一度語る」以上のことをしようと願わないこと。ユングの「とりわけ、それに属していないものを外側からその内に侵入させてはならない」という忠告に注意すること以上のことをしようと願わないこと。言い換えれば、心理学の「無[空]意識」にしっかりと専念すること。そして厳格に解釈者や解説者であり、心理学理論やWeltanschauung[世界観]や単なる主観的意見の擁護者ではないこと。これらの条件を満たした場合にのみ、心理学者によって客観的に語り記されたものが新しい魂の言説という大勢を得られる。しかしながら、もし心理学者の語りや記述が、私的個人としての心理学者の主観的意見や連想の表現であるならば、それは自我の関心事にすぎず、魂の威厳はなく、根本的にはかないものでしかない。」

(「「問いそれ自体を愛する」ロブ・ヘンダーソンによるヴォルフガング・ギーゲリッヒへのインタビュー」より)

「R:ヘンダーソン:「ヴォルフガングの言っていることは理解できない。なぜ彼は、もっとわかりやすい書き方をして、自分のこよをもっと理解してもらえるようにしないのだ」と言う人たちに対して、あなたはどんなふうに応えますか?

W・ギーゲリッヒ:(・・・)むしろ問題なのは、あなたが念頭に置いている人たちが、読んだものをすぐに理解できると想定しているらしい、ということです。何と奇妙なことでしょう!ファーストフードと一分間のサウンドバイトを体験している年代に特徴的な想定でしょう。根気がありません。即時的に満足を求める彼らの要求には、心理学的に、二つの意味があります。一つ目に、彼らが読書体験に求めているものは、彼らの平凡な考え方の確認と固定化であって、否定的に表現すれば、心の拡張も、困難な作業も、途切れのないサーカムアンビュレーション[円環運動]も、概念との格闘も、必要ないのでしょう。(・・・)心理学的な読書は、本質的にその人自身とその人の[大文字の]自己とを必要とします。それは何よりも、古い瓶が変容することを、つまり人の精神の枠組みそのものを、より高い分化の水準へと引き上げることを意図しているのです。

 二つ目に、彼らの要求が意味するのは、理解することに関する彼らの理屈では、(自我としての)彼らが理解する者であるべきだ、ということになります。しかし心理学においては、そもそも私たちの理解が問題なのではありません。重要なのは。ただ魂が理解することです。

 私が自分で読書する際には、自分には理解できない本だけを読みます。なぜ一目見ただけで理解できるような本に煩わされる必要があるのでしょうか? その本が私にもたらすものは、私がすでに考えていることととても似ているのでしょうし、そのために自分の時間を費やす価値はほとんどないでしょう。しかし、難解な本を読む際には、私は理解できないものを自分自身の中に匿い、そしてそれと共に生き、それを身ごもります。しばしば長い年月が費やされますが、その長い年月の果てに、恐らくその意味がそれ自身を私に向けて開示するのです。

(・・・)

 はじめは私たちが外側から見ているために、問いが答えでるとわからないだけです(その一方で魂はすでに理解しています)。そのため、答えの中へ生きることは、私たち自身の存在が問いの中へと完全に内化されていること以外の何ものでもないでしょう。」

[目次]

「仏教的心理学と西洋的心理学」
序論
地理学の誘惑
非同時的なものの同時性の原理、あるいは歴史的差異
否定や亀裂の入った連続と、途切れることのない連続との対立
決定的否定 対 一括的否定
魂の現象と、研究分野としての心理学との、共約不可能性
豊かな所有としての無〔空〕 対 貧困としての無〔空〕
自己と「確信」との未壊の結合 対 この融合の分離
実際に存在する「〔目的格の〕私」における具現化
鏡の迷路
弁証法

「問いそれ自体を愛する」
ユングとの出会い
無意識
夢はどこから来るのか

未知のユング?

テクノロジー
神について?
今日の世界における魂
ユング派の分析
夢と共に作業する
ユング派の分析の未来
インターネット
癒し
ギーゲリッヒvsユング

〈資料〉
ハーバート・リード宛書簡

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