C.S.ルイス『悪魔の手紙』
☆mediopos2779 2022.6.27
『ナルニア国物語』で知られるC.S.ルイスの
『悪魔の手紙』(1942)はルイスの著書のうちで
もっとも広範な読者を獲得しているという
(キリスト教や教会の影響が少ない日本では
どこか神学的なものの裏返しの思想的な内容は
ファンタジー的な物語性が希薄なこともあり
読者は『ナルニア国物語』よりずいぶん少ないだろうが)
この『悪魔の手紙』は
現役を引退した老悪魔のスクルーテイプが
人間をはじめて誘惑しようとする若い悪魔ワームウッドに
手紙で助言を送るという内容である
悪魔を信じない人も
悪魔に過剰に関心を持つ人も
悪魔がいちばん唆しやすい対象であるという
老悪魔は若い悪魔に
人間に悪の道を教えることではなく
「きみに与えられている役目は、
やつを混乱させること」だというように
議論をすることでも
証明したり論理的に説得することでもなく
混乱させいわば中庸の道を辿らせないことを勧める
悪魔はもともと天使だった霊的存在が
中庸をうしなってそれに応じた世界に棲み
そこからじぶんの世界へと人間を誘う存在である
本書にはキリスト教的な世界観が背景にあるから
そこに神秘学的な視点はないが
その視点でいえば悪魔には二種類あって
ルシファー的な存在とアーリマン的な存在がある
ルシファー的な存在は霊的なものに傾斜させる悪魔であり
アーリマン的な存在は物質世界に傾斜させる悪魔であり
その中庸を図ろうとするのがキリスト存在である
だからイエス・キリストを信仰するといっても
霊的なものに過剰に傾斜しすぎれば
ルシファー的な悪魔の唆しを受けやすくなり
地上的物質的なものに傾斜しすぎれば
アーリマン的な悪魔の唆しを受けやすくなる
したがって人間を唆して中庸を奪えば
悪魔の試みは成功することになる
悪魔の唆しを避けるためには
霊的なものに興味をもちすぎるばあいは
日々の生活を含む地上をしっかり歩むのがいいだろうし
日常的な実生活のなかに埋もれてしまいやすいばあいは
逆に霊性のほうに目をむけるのがいいのだろう
その意味でいえば
最初に示唆したように
悪魔を信じない人も
悪魔に過剰に関心を持つ人も
それだけで悪魔の恰好の餌食になりやすい
その意味では
じぶんが本書の老悪魔になったとして
どうしたら人間を誘惑できるかを考えることで
むしろ逆にじぶんが中庸をなくさないでいられる
重要なポイントが理解することができる
悪にもなり得る力をもちながら
その力から自由でいること
現代ではそのことがもっとも重要なことだろう
■C.S.ルイス(中村妙子訳)
『悪魔の手紙』
(平凡社ライブラリー 平凡社 2006/2)
(「まえがき」より)
「悪魔について人間が考えようとするときに、おちいりやすい誤りが二つある。正反対の態度なのだが、どちらも間違っている。一つは、悪魔の存在をまったく信じない態度。もうひとつは、それを信ずるだけでなく、過度の、不健全な関心を寄せる態度である。どちらも誤っているのだが、態度としては正反対といっていいだろう。悪魔自身は人間の側のこの二つの誤りを喜んでいて、全社の態度をとる唯物論者をも、後者の、不健全な関心をもつ魔法使いをも、ひとしく歓迎している。」
(「第一信」より)
「ワームウッド君に。
きみはきみの担当の男にたいして読書指導を試み、その一方、例の唯物論者の友人としばしば会うように働きかけているらしいね。だが、それは少しばかり素朴にすぎはないだろうか。やつを論証に明け暮れさせておけば、〈敵〉の魔手から守りおおせる————きみはそう考えているようだが。やつがもう二、三世紀前の人間であれば。そういうことも可能だったかもしれない。そのころの人間はまだ、あることが証明されているときと、いないときとをはっきり区別しており、証明されていれば本気で信じた。彼らはまた思考を行動と結びつけていて、一続きの推論の結果にもとづいて、自分の生き方そのものを変える気が大ありだった。
ところが週刊誌や、それに類する他の武器の力を借りて、われわれはそうした態度をおおかた変えてしまった。きみの担当の男は幼いころから、互いに矛盾するいくつものの哲学が自分の頭のうちに一緒くたに跳ねまわっているのに慣れっこになっている。やつはいかなる教説についても、まず「真理」であるか、「虚偽」であるかといった観点に立たずに、「アカデミック」か、「実際的」か、「古くさい」か、「現代的」か、「慣習的」か、「非情」かを問う。したがって論証でなく、意味もろくにわからない術後の羅列こそ、この場合、きみの最良の味方なのだ。論証をさせずに、そうした術後を漠然と与えておけば、やつは教会に近づかないだろう。唯物論は真理だと信じさせようとしても時間の無駄だ。むしろ、唯物論は強烈だ、もしくはしたたかだ、勇気ある哲学、未来の哲学だと思わせるのだ。やつが心にかけているのは、そうしたことなのだから。
論証で厄介なのは、自分の議論の正しさを証明しようとしているうちに、戦場が知らず知らず〈敵〉の陣地内に移ってしまうことだ。〈敵〉にも論証はできるからだ。もっとも、わたしが提案しているたぐいの、本当の意味で実際的なプロパガンダにかけては。〈敵〉は地獄にいますわれらの父に、はるかに劣っているがね。それは、ここ数世紀の歴史が明らかにしているとおりだ。され、きみの担当の男に議論をさせているうちに、その理性がかえって目覚めてしまうことがあるし、いったん目覚めると、どんな結果が生ずるか、わかったものではない。きみはわれわれに好都合なように、特定の一連の思考をねじ曲げることができるかもしれない。しかしきみはまたこの間にやつのうちに、普遍的な問題を考えよう、直接的経験の流れにのみ、関心を集中するのをやめようという、致命的といってもよい習慣が強められているのに気づくだろう。きみの任務はそれとは逆に、感覚的経験の流れそのものにやつの注意を引きつけることだ。それこそが生きているということ、「実生活」————リアル・ライフだと考えさせたまえ。「リアル」とはどういうことか、その点について自問させてはならない。
覚えていてほしい。きみの担当の男はきみとは違って、徹底して霊的な存在ではないのだよ。きみ自身はいまだかつれ人間であったためしがないから(癪にさわるが、その点、〈敵〉はわれわれにたいして優位に立っている)、彼らがどんなに日常的なものの圧力に屈しやすいかを悟っていない。
(・・・)
何世紀の前にわれわれが人間のうちに作動させたプロセスのおかげで、人間は見慣れたものが目の前にあるあいだは、見慣れていないものをほとんど信じられなくなっている。彼らがいつも物事の当たり前さを実感するように働きかけたまえ。とりわけ科学を(えせ科学でなく、厳として実在する諸科学を)キリスト教にたいする防衛手段として用いようと試みてはならない。そうした諸科学は人間に積極的な影響を与えて、触ることも、見ることもできない実在について考えることを奨励する。現代の物理学者のうちにも〈敵〉に寝返った悲しむべき実例がいくつかあった。きみの担当の男が科学をかじりやたがるならば、経済学というか、社会学に関心を集中させて、やつらの信奉する「実生活」から離れさせないようにさせるのだ。だが何よりいいのは科学書を真剣に読ませるかわりに、自分は消息通だと思いあがらせ、たまさか聞きかじったり、読んだりしたものを、まるで「現代の科学的研究の成果」であるかのように思いこませることだ。
忘れないでくれたまえ。きみに与えられている役目は、やつを混乱させることなのだよ。きみら若い悪魔連中がしゃべるのを聞いていると、悪魔の本務は教えることなんじゃないかという気がしてくるのだがね。
きみを愛してやまない叔父
スクールテイプ」
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