見出し画像

難波優輝「批判的日常美学について」第3回 「性格が悪い人」を差別してもいいのか: 「清潔感」からはじめる性格差別の哲学」/ 小塩真司『「性格が悪い」とはどういうことか ――ダークサイドの心理学』

☆mediopos3739(2025.2.13.)

難波優輝「批判的日常美学について」
第3回は「性格が悪い人」を差別してもいいのか:
「清潔感」からはじめる性格差別の哲学」

「第1回 労働廃絶宣言:労働を解体するための感性論」
「第2回 反ファッション論:みせかけ美徳消費の悪徳」は
mediopos3710(2025.1.15.)でとりあげている

第1回では
強いられた労働から解放されるユートピアを想像することで
世界を変えることについて

第2回では
美徳消費批判は消費がいかに美徳と絡まり合っているのかを
考えることから始まることについて
論じられた

今回は「性格差別」についての話だが
だれしも「差別」しないでは生きていけないという現実に
直面せざるをえないというところにまで展開されている

まず「清潔感」は美的性質と道徳的な性質を
併せ持っているということについて

「清潔感」とは実際に「清潔」であることを意味しないが
「清潔感」がないといえば
「だらしなく、周りの人に配慮できていない」と
非難されたりもする

「清潔感」とは衛生に関わる性質ではなく
美的な好みに関わるような性質にほかならないからだ

そしてそれが道徳的な判断に用いられたりもする

「清潔感のある人は美的によい。
のみならず、清潔感のある人は道徳的にもよい。
もちろん逆も言える。
清潔感のない人は美的にわるい。
のみならず、清潔感のない人は道徳的にもわるい。」

しかし「清潔感に基づいて人の扱いに差をつけること」は、
「その人の美しさや外見に起因する不公正な扱い」
つまり「差別」である

それに関連して「性格が悪い人」を非難するという問題がある

小塩真司『「性格が悪い」とはどういうことか』という
「性格が悪い人」についての興味深い著作がでている

ダークな性格の典型には
「マキャベリアニズム」「サイコパシー」
「ナルシシズム」「サディズム」の四つがある

誰かを支配したり
他人に対する共感がなかったり
自分が周りよりも価値があると思い上がったり
人が傷つくところを楽しんだりする
そうした「望ましくない」性格の側面は
だれのなかにも少なからずあるというものだ

そうした性格の悪さが顕著な場合
「人びとは、性格ならばいくら非難してもよい、
と思っているように思われる」のだが

難波氏は「倫理的な観点からみるならば、
非難してはならない、と考える」という

「性格が悪いことによって
その人が不利益を被るような社会になっていることは、
性格が悪いとされる人への抑圧」であり
「もし私たちが真に差別撤廃を目指すのならば、
その人が幸福に生きられる社会にしなければならない」

「悪い性格を生きる人びとに何の制裁もない社会では、
おそらく人類は衰退していくだろうし、
私たちの福利はどんどん下がっていくだろう」が
「悪い性格を持つ人を差別しなくても
人類が衰退しない方法を私たちは
考えなければならない」というのである

もちろんこれは極論であって
現時点で実際に「悪い性格」を「非難してはならない」
ということにはならないだろう

難波氏は「差別」を解消するための極北にある観点として
「性格差別は差別のなかの差別。
もっとも究極の差別であり、
おそらくは他のすべての差別の解消の後に
はじめてまじめに問題になる差別であろう」
と言っているように

「私は「あらゆる差別を撤廃する」と
声高に言うことに自信がなくなってきた」としている

「私は他人を性格に基づいて差別したいように思われる。
性格差別が、他人に対する美的な魅力の
源泉にもなっているように思われるからだ。
性格差別撤廃の難しさ、それは技術的な困難はもちろん、
私たち人間が価値を見出す生き物であるがゆえに感じる
原理的な困難さであるのだろう」と

そして「私は、他の差別を撤廃するために、
性格差別をしていくことになるだろう」

「「性格が悪いから嫌いなのだ。これは差別ではない」は
もはや成立しない。」

「他人の性格を差別する私たちはみな
少なからず差別をする者たちである。
私たちはその罪を背負って生きていかねばならない」
と論を結んでいる

大変難しい問題である

なんらかの善き性質を求めるとき
同時にその逆の性質を排さざるをえない
それはどんな形をとっていたとしても「差別」となる

いかなる差別もしてはならないというのが理想だが
差別という「罪」を背負いながらでしか
生きていけないという現実のなかにあるのである

向上しようとすることは
そうでないものを「差別」することにつながり
善きものを求めることは
悪しきものを「差別」することになるが
そうしなければ向上も善きものを求めることもできない

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
という福沢諭吉『学問のすゝめ』の言葉は
逆説的に「差別」というジレンマ
あるいはダブルバインドを生み出すことにもなる

■難波優輝「批判的日常美学について」
 第3回 「性格が悪い人」を差別してもいいのか:
「清潔感」からはじめる性格差別の哲学」(2025-02-04)
(晶文社Web「スクラップブック」)
■小塩真司『「性格が悪い」とはどういうことか ――ダークサイドの心理学』
  (ちくま新書  2024/7)

**(難波優輝「批判的日常美学について」第3回)

・はじめに:「清潔感」と「清潔」

「「清潔感」がだいじだ、と人びとは口々に言う。その口ぶりには道徳的なニュアンスがあり、有無を言わさぬ重みがある。清潔感がないということは、だらしなく、周りの人に配慮できていないのだ、と人は非難する。」

「だが、清潔感があることと清潔であることは独立である。清潔感があってもちっとも清潔ではないことは全然ありえる。まっさらなシャツが菌まみれであったり、汚染されていたりすることはふつうにありえる。整えられた髭にはうじゃうじゃ細菌が繁殖しているかもしれない。

 だとしたら、清潔感とはいったい何なのだろうか。」

・美的かつ道徳的な性質を併せ持つ「清潔感」

「私は清潔感とは美的性質であると考える。ここで美的性質とは、美的な用語によって指示される特定の性質を指す。「瀟洒である」とか「いきである」とか「引き締まっている」とか「かわいい」などが美的性質だ。

「清潔感」は美的性質だ。清潔感があることは、衛生に関わる性質ではなく、何らかの美的なよさに関わるような性質なのである。それはちょうど「清潔感のある人が好き」という言い方にあるように、美的な好みに関わるような性質だ。」

「しかし、清潔感は道徳的な判断に用いられているように思われる。「清潔感のない人はだめだね」と人びとは言う。しかし、これは奇妙だ。清潔感が美的性質なのだとして、なぜそれが道徳的な判断にも用いられるのだろうか。」

「清潔感とは、単なる美的性質であるのみならず、同時に、道徳的性質でもあるような興味深い性質なのである。清潔感のある人は美的によい。のみならず、清潔感のある人は道徳的にもよい。もちろん逆も言える。清潔感のない人は美的にわるい。のみならず、清潔感のない人は道徳的にもわるい。」

「清潔感に基づいて人の扱いに差をつけることは、まさしく、「その人の美しさや外見に起因する不公正な扱い」である。ルッキズムの何が問題なのか。ルッキズムとは、たんに見た目が美しいか、美しくないか、と判断するだけでは当てはまらない。そうした美的判断が不当に他の判断に影響を与えることを意味する。つまり、見た目の美しさを商品にしているとかいないとかに関わらず、職場やローンなど、見た目の美しさが特に関係ない状況、関係させるべきではない状況でも見た目の美しさが影響してしまう、ということなのだ。」

「「清潔感」とは「清潔さ」とは違い、美的性質であった。同時に、道徳的性質でもある。

 ここからさらに指摘できるのは、美的性質でもあり、道徳的性質でもある「清潔感」は、文脈において、道徳的性質のみであるフリができる悪さがあるということだ。」

・「性格差別」という影の差別

「実のところ、私がもっとも気になっていたのは、性格の非難だ。人びとは、性格ならばいくら非難してもよい、と思っているように思われる。」

「だが、性格で人を非難してよいのだろうか。清潔感がないことは、「無責任で、だらしなく、思いやりがなく、怠け者だ」と判断してよいのだろうか。ここで議論のために、清潔感がないことは、確かに、「無責任で、だらしなく、思いやりがなく、怠け者だ」ということを正確に表示しているとしよう。では、こうした性格を持つ人を非難してよいのだろうか。

 私は、倫理的な観点からみるならば、非難してはならない、と考える。

 清潔感があることが特定の(良い)性格のしるしだとして(逆に、清潔感がないことが特定の悪い性格のしるしだとして)、それを私たちは評価すべきではない。なぜならそれは性格差別だからだ。清潔感のない人に対する差別で発生しているのは、外見差別だけではない。同時に発生しているのは、性格差別(キャラクタリズム)である。性格差別とは、他者によって知覚・評価されるその人の性格の美しさや性格に起因する不公正な扱いだ。

 これはへんな主張だろうか。私たちは、性格に基づいて人びとの扱いを変えることをおかしなことだとふつうは思わない。しかし、それはもっとも広く行き渡った差別である、と私は主張する。もし差別を避けたいと思うのならば、人びとの性格が悪いからと言ってそれに基づいて人びとに対する扱いを変えてはならない。それは人びとの見た目に基づいて扱いを変えるようなものだから。」

「ここで反論があろう。「見た目は仕事や生活とは関わりないが、性格は、例えばずるがしこい性格や約束を守らない性格に関しては、それを非難したり軽蔑することは、実践的に重要である。これは実質的な区別であり、悪い差別ではない。あなたは性格の悪い人びととともに生きたいと言うのか。性格の悪い人と一緒に働きたいのか?」と。確かに、社会的に「悪い性格」と呼ばれる人びととともに暮らすことは多くの人びとにとって不利益になるだろう。例えば、悪い性格には、マキャベリズム、ナルシシズム、サディズム、サイコパシー、スパイトなどがある。誰かを支配したり(マキャベリズム)、自分が周りよりも価値があると思い上がったり(ナルシシズム)、人が傷つくところを楽しんだり(サディズム)、他人に対する共感がなかったり(サイコパシー)、自分が損をしてでも他人に嫌な思いをさせることを愛好したり(スパイト)。この説明をみるだけで、確かに、あまりかかわらないほうがよさそうに見える。私たちが悪い性格を避けるのには実質的で合理的な理由があり、それゆえ、そうした差別は許されうるのだ、と。

 だが、性格が悪いことによってその人が不利益を被るような社会になっていることは、性格が悪いとされる人への抑圧である。ずるがしこくても、約束を守らなくても、支配的でも、他者を傷つけることに喜びを感じていても、他人を見下し自分にだけ価値があると思い上がっていたり、他人に共感がなくとも、他人を不幸の道連れにすることを愛好していたりしても、もし私たちが真に差別撤廃を目指すのならば、その人が幸福に生きられる社会にしなければならない。」

「ここで次のような応答があるかもしれない。「異常な主張だが、受け入れよう。確かに、性格差別は存在する、と。だが、そうした性格差別は、就労の場面などで考慮すべきものに過ぎない。外見差別が問題になるのは、第一には就労の場面やローン組み、あるいは裁判の現場などであり、日常生活においてどんな外見を好むのかは問題にならないはずだ。同様に、日常生活においてはどんな性格を好むのかは私たちのプライベートな話であり、問題にならない」と。」

「しかし、近年の議論では、恋愛やデート、友情といった親密な関係においても、弱いながらも反差別的な道徳的義務がありうるという見解が提示されている。」

「私的な選好が集積すれば、たとえ各個人の行為が小さな行為であっても、社会全体で見れば有害な差別的パターンを再生産してしまうおそれがある。」

「それゆえ、外見差別をしない、という弱い反差別義務が私たちに存在しうる。だが、この弱い反差別義務は、実践レベルではそこまで過度な負担を課すものではないかもしれない。」

「性格差別に関しても同様に、悪しき性格だと感じてもそれを再考する弱い義務はありうるだろう。もしあなたがあらゆる差別をしたくないのなら、私的領域においても「性格が悪い」とみなされる人びとに不利益な扱いをしてはならないはずだ。

 とはいえ、現時点で「悪い性格」としてリストアップされている性格が人類の主流の性格になったり、何らかの制裁が与えられずに野放図に拡大していくとしたら、私たちの重視する社会的な信頼が損なわれ、経済活動や生活がままならなくなるのはおそらく確かだろう。人びとがみな裏切り者ばかりになったら、まともな市場経済は崩壊していきそうだ。人びとがみな自分のことだけを一番に考えるようになったり、相互扶助的制度は消え去るだろう。他人に利益をもたらすくらいなら自分が損をしてでも道連れにする性格が主流になったら、壊滅的な戦争や紛争が多発するかも知れない。そして、そもそも、身近な関係において、相手がマキャベリズム的性格であることを分かったうえで友人としてその人を心から愛する、ということが人類に可能なのか、私にはよくわからない。自分がつねに犠牲者になる可能性を認識しながらその人を愛するというのは相当な慈愛の強さが求められるように思われる。

 悪い性格を生きる人びとに何の制裁もない社会では、おそらく人類は衰退していくだろうし、私たちの福利はどんどん下がっていくだろう。その意味で、悪い性格に対する差別は、人類が衰退しないための合理的な理由がある、と言ってよいかもしれない。しかし、それだけでは、悪い性格を差別することの十分な理由にはならないかもしれない。悪い性格を持つ人を差別しなくても人類が衰退しない方法を私たちは考えなければならないだろう。」

・人類が人類である限り性格差別から逃れられないとしても、やるべきことはまだまだある

「性格差別は差別のなかの差別である。なぜなら、人間は他の人間をその性格に基づいて判断することを重視しているように思われるからだ。しばしば「顔や身体目的で誰かと性愛関係になるのは浅薄だ」という非難がなされがちである。確かに、長期間の付き合いにあたっては、顔や身体の特徴だけではなく、性格の方が重要になってくると考えるのは変ではない。それゆえ、性格に基づいてパートナー選びをすることはむしろ賞賛される。だが、性格もまた、顔や身体的特徴と同じく、それほど本人が選べるものでもないように思われる。したがって、人間がより称賛する性格への愛好は、性格差別の源泉そのものだ。「カラダ目的」は道徳的に悪いと非難されがちだが「ココロ目的」も同様に道徳的に悪いようだ。

 性格差別とは、人間本性に基づいた差別である。性格差別をしない人を想定することは難しい。人間が人間を性格差別しない日が来たとしたら、それは人類が終わる日だろう。それはもはや人類ではなく、「人類2(じんるいツー)」であるように思われる。性格差別は差別のなかの差別。もっとも究極の差別であり、おそらくは他のすべての差別の解消の後にはじめてまじめに問題になる差別であろう。

 だが、これをもって「差別撤廃などは無理難題であり、差別などという概念は無意味だ!」という主張が正しいということには全然ならない。差別の撤廃はよいことである。しかし、確かに性格差別で突き当たる。とはいえ、性格差別を解消するまでに、私たちが差別を撤廃するためにすべきことは無数にあるだろう。とりわけ私が本連載で関心を持っているのは、美的なものと倫理的なものが癒着することで生まれる差別や抑圧であるが、そうしたものはこの後の連載で扱うように、まだまだ分析し、批判し、改善し、撤廃すべきことが大量にある。コミュニケーションの差別だとか、愛し方の差別だとか、病への差別だとか。性格差別の撤廃の課題が現れるまでに私たちが取り組まなければならない差別は山程ある。だから、私たちにとって性格差別の撤廃がいかに難しくとも、それだけで差別の撤廃を諦めることにはならない。私たちはできる限り、差別に向き合い、その出現を食い止めなければならないだろう。」

「以上の議論を踏まえると、私は「あらゆる差別を撤廃する」と声高に言うことに自信がなくなってきた。私は他人を性格に基づいて差別したいように思われる。性格差別が、他人に対する美的な魅力の源泉にもなっているように思われるからだ。性格差別撤廃の難しさ、それは技術的な困難はもちろん、私たち人間が価値を見出す生き物であるがゆえに感じる原理的な困難さであるのだろう。

 私たちは性格差別をする。それは私たちが人間を味わっているからこそ起きるのだろう。美徳の称揚は、差別につながる。だとして、 性格の美醜をキャンセルして知覚できなくする技術が開発されるとどうなるのであろうか。人は互いの有用性や快楽性によってのみつながることができるようになるのだろう。それはそれでベタな差別が起きるであろう。もはや、「性格が悪いから嫌いなのだ。これは差別ではない」はもはや成立しない。

 とはいえ、私は、他の差別を撤廃するために、性格差別をしていくことになるだろう。おそらくこれを読んでいるあなたも同じく。他人の性格を差別する私たちはみな少なからず差別をする者たちである。私たちはその罪を背負って生きていかねばならない。」

○難波優輝(なんば・ゆうき)
美学者・会社員。専門は、分析美学、人間の美学、SF、ポピュラー文化。newQ所属、立命館大学ゲーム研究センター客員研究員、慶應義塾大学SFセンター訪問研究員。修士(文学、神戸大学)

◎難波優輝「批判的日常美学について」
 第3回 「性格が悪い人」を差別してもいいのか:
「清潔感」からはじめる性格差別の哲学(2025-02-04)


いいなと思ったら応援しよう!