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ジャン=リュック・ナンシー『嘘の真理(ほんと)』

☆mediopos3563(2024.8.21)

『嘘の真理(ほんと)』は
ジャン=リュック・ナンシーの
二〇一八年の講演録

講演の冒頭で
「私にとって嘘というのは、
これまで講演会で取り上げた話題のなかでも
一番難しい主題ではないかと思います」
と語られているが

主に比較的若い人たちもふくめた人たちに向けて
平易に語られているにもかかわらず
とても深い内容となっている
いうまでもなく「嘘をついてはいけない」
というような単純な話ではない

タイトルにある『嘘の真理(ほんと)』の
「真理」というのは
「ほんと」とルビがふられているように
その内容が客観的に真か偽かといったようなことではなく
嘘をつくひとの「ほんと」「本音」ということ

おそらく嘘を絶対につかないという人はいない
嘘をつきたくはないと思っていても
相手に向かって面と向かっていつも
「ほんと」(だと思っていること)を言うわけにはいかない

「嘘が持っている本当の側面、
嘘の真理というのは単純では」なく
「嘘は本当のことではない、
と主張するだけでは十分ではない」から

嘘を言うか言わないか
そこには他者への「信頼」が関係している
「嘘をつくときには、誰かへの信頼を引っ込めているように」

つまり「嘘は根本的に、まさしく他人への関係」であって
「他人との関係の中では、
ときに嘘をつくよう求められることも」あるが
それは「信頼するための条件が揃っていないから」だといえる

そして「嘘」の本質には何を隠す「隠蔽」
裏切りにもなる「告発」
そして「自分を価値ある人物にするため」の「承認」のように
さまざまな形がある

講演の最後には
「嘘の特徴としてよく挙げられる二つの形」
フィクションとイデオロギーがとりあげられている

文学・映画・演劇といったフィクションは
いうまでもなく「嘘」ではなく
「「フィクション」の元になったラテン語の言葉
〔動詞fingereおよび名詞fictio〕が
「何かを製作すること、粘土などを捏ねて形を作ること」を
意味しているように創造的な「創作」に他ならないが

「〜イスム」で終わる単語
典型的にいえばイデオロギーについては
「そうした嘘の目的は大きな集合体で私たちを包み込」む
「空理空論」であって「こうした言葉を信頼する人たち」は
「みんなに嘘をついていて、自分たち自身にも嘘をついている」という

ジャン=リュック・ナンシーは
「安心を求めようとしてはだめ」だという
「色々と確信できることは必要」だが
「確信したい、安心したいという欲望や欲求に
騙されてはいけ」ないという

「嘘はいつでも自分自身を安心させるための誘惑」
「自分を守り、自分を立派なものに見せるため、
またイデオロギーの場合には、
自分に確固たる強さを与えるための誘惑」から生まれる

重要なのは「他人との関係の中で何をするべきか知ること、
他人と一緒にいてどんな意味があるのかを知ること」だという
「仮に私たちがみな一人ぼっちだったら、
嘘をつく必要も、本当のこと、真理を言う必要もない」のだから

■ジャン=リュック・ナンシー(柿並良佑訳)『嘘の真理(ほんと)』
 (講談社選書メチエ 2024/5)

**(「嘘の真理」より)

*「嘘が持っている本当の側面、嘘の真理というのは単純ではありません。嘘は本当のことではない、と主張するだけでは十分ではないのです。もし私が、嘘は本当のことではないと言ったとすると、何かしっくりきません。本当ではないのは嘘のないようです。ですが嘘そのもの、嘘つきが話しているという事実はたしかに本当のこと、真理なのです。私が義務、そう、宿題を終えたかどうか訊かれて、「はい」と答えたとしましょう。それは嘘で、私は宿題をしていない。でも私はそう話しているのは本当です。なぜでしょう? たいていの場合、宿題をしたと言い張るのはそれが面倒だからで、そうやってどうにか宿題をやり過ごせると考えるからです。嘘をつく人、嘘をつく主体の真理とはどういうことなのでしょう? そんなことしたくない、面倒くさすぎる、学校なんてどうでもい。それはなぜでしょうか? 学校のことで、私という嘘つきの真理を誰が語ってくれるのでしょう? 学校なんてうんざり、だって自分には向いてないから、全然だめだから、ということもあるかもしれない。たいてい、学校というのは面白くもなければ魅力的でもありませんが、それでも十分うまくいくことはあります。」

*「嘘とは真理を言わないことです。ですが隠されていたり形を変えられていたりする真理、嘘にっよって捻じ曲げられた真理はおそらく、見きわめるのがいつも簡単というわけにはいきません。子どもは一定の真理の内にいて、それは自分の歳にも見合った真理ですが、すっかり出来上がった真理を含む大人の世界からすると少々異質な真理です。大人の世界にあるのは、例えば、働かなくてはならない、法律に従わなければならない、私たちが生きている社会や国の規則に従わなければならない、といった真理です。同時にまた、めまぐるしいほど数々の嘘が非難され真理が公表されるという激流に、私たちの世界がたえず飲み込まれていうことは、みなさんもご存じのとおりです。」

*「大人の世界には、つねに真理をめぐる不確かさの中で暮らすという生き方があります。もちろんある程度のことは知っているにしても、です。例えば、二×二=四ですね。でも基本的な真理とはどういうものなのかさえ、私たちはおそらく知らないのですなぜ二×二は四になるのでしょう? それに答えるには、数と計算をめぐる哲学の内に飛び込んでみる必要があるでしょう。真理はただそこにある何かではありません。このボトルにはたしかに水が入っていますが、でもそれが何の役に立つのでしょう? ペットボトルの水については、何が本当のことなのでしょうか? あるいは一日に何度も肉を食べることや、どの肉を食べるか。これらについてはいったい何が正しいと言えるでしょう? みなさんはしょっちゅう、これは食べちゃダメ、あれを使っちゃダメ、なんて言われていますよね。私たちは、様々なするべきこと、してはいけないことを目の当たりにします。私たちは鶏肉やトマトとどんな風に関わってきたのでしょうか? どれだけの殺虫剤や抗生物質を使ってきたのでしょうか? こうした物質はどのようにして健康を脅かしたり、そうでなかったりするのでしょうか? 大人の世界では本当のことは簡単には示されませんし、明らかになりませんとはいっても嘘が普通のこと、当然のことというわけではありませんよ。さっきの問いは技術や経済のいくつかの仕組みに関する、とっておきの問題なのです私たちが嘘を糾弾することにこんなに馴染んでいるのは、嘘が避けがたいものだと知っているからで、同時にまた、そもそも生きていく中で大切なのは真理のはずだと知っているからでしょう。」

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*「嘘〔mensonge〕という言葉の意味から出発しましょう。フランス語の多くの単語と同様、これもラテン語から来ています。mentiriという動詞で、嘘をつくという意味です。mentiriはもう一つのラテン語、mensに由来し、こちらは精神・心を意味します。嘘とは関係ないフランス語、「精神の〔mental〕」という形容詞の中にこのラテン語があるのが分かりますね。精神とは、私たちの気持ちの状態、つまり注意したり意志したり欲望したりする何かを示しています。嘘は言葉を越えて精神の内に生じ、言葉が外に向かって語ることとは内面で矛盾しています。もし私が宿題をやっていないのにやったと言い張るなら、私はなんらかの気持ちの中にいるはずですし、その気持ちを主張するためにはある程度力が必要になるはずですが、一方で私はそれが間違っていることを知っています。嘘をつくには力が必要です。それが精神の状態に関わる問題だからです。私は本当のことを隠したいこともあれば、その形を変えたいこともあります。もし「そのような精神状態にあること」を意味したはずのラテン語の動詞〔mentiri〕が「嘘をつくこと〔mentiri〕」になったのだとすれば、嘘の精神状態というのはとても強いことになります。上手く嘘をつくにはある程度の力が要求されます。(・・・)嘘をつくには強い精神状態が必要であるだけでなく。嘘には深刻な形が様々に存在します。私は嘘をついて罪悪感や責任を他の誰かに押し付けることもできるのですから。」

*「嘘の本質は、何を隠すという点にも見られるでしょう。ですが、とくには誰か他の人が嘘によって告発されることもあります。その場合、嘘は攻撃的で、他人に何かを押し付けています。」

「嘘は他人に対する悪い駆け引きに対応しているわけですね。さらにまた別の種類の告げ口があります。裏切りです。裏切るとき、私たちは誰か他の人に対する約束を守っていません。」

「隠蔽と告発に加えてもう一つ、嘘のつき方があります。今度は何かを隠すためではなく、自分を価値ある人物にするため、承認を得るためにつく嘘です。」

*「ここまで確認してきたことはすべて、嘘を排除するのが難しいことを示しています。

 でも子どもの嘘と大人の嘘、すべての嘘の背後には何があるのでしょう? 私たちは信頼していないかぎりは嘘をつきます。」

「嘘をつくときには、誰かへの信頼を引っ込めているのです。みなさんが完全に親を信頼しているなら、授業で学んだことをしっかり覚えていなくても正直に打ち明けられますよね。(・・・)嘘は信頼関係次第、と言えます。子どもが大人を完全には信頼しないのも、また逆に、大人が十分に子どもを信頼しないのも普通のことです。」

*「信頼〔confiance〕とはなんでしょう? それは誰か・何かを信用すること〔se fier〕です。フランス語では「婚約〔fiançailles〕」と「信仰〔foi〕」という二つの言葉に信用という考え方が含まれています。」

「信頼は、一般的に子どもが親やまわりの大人に対して向ける向けるものでもあります。子どもにとって、大人が責任をもって自分の面倒をみてくれると感じられることは大切ですから。ということは、大人になるというのは、誰か他の人を信頼する可能性を失うということなのでしょうね。大人になると、信頼は先ほどのような信念や、政治家の演説や恋愛に取って代わられてしまいます。恋愛するというのは、全面的に信頼を委ねるということですから、欠点がある人を好きになるということはありますけど、だからってその人を信用しなくなったりはしませんね。身を任せるくらい人を信頼するときにはいつでも危険が伴います。誰かを好きになったら、安心して「もうこれで大丈夫」なんて思ったりできないでしょう。結婚するかどうかはともなく、とても長い間いっしょに過ごすというのは、たぶん信頼関係が確立されるから可能になるのでしょう。信頼関係はいつだって多少は周りが見えなくなるようなものですけど、保証を求めたりはできないですからね。信頼は真理を摑んでいると主張しないのに対して、嘘の方は、それが隠している真理を摑んでいると信じています。」

*「信頼はほとんど矛盾するようなことを、矛盾ではないにしてもとにかく結び付けがたいことを要求しているわけです。一方では保証がないということ、つまり確信の得られない確信、そして他方では、何が本当なのかを自分で問うことができること、この二つです。どこかに隠されている真理を見つけるということではありません。そうではなくて、真理が限りあるもの、輪郭のはっきりしたものとして示されることはおそらく決してない、ということを知ることが大切なのです。たぶん真理は決してすっきり見渡せるものではなく、反対に、何かをすぐに信じて騙されないように注意しなくてはならないのでしょう。」

*「嘘の中にある本当のこと、嘘の中にある真理についてはどう言えるでしょうか?」

「私自身にとっての本当のこと、どうして私があれやこれやを隠すのか、(・・・)このような真理は、仮にそれを見つけることが重要になった場合でも、見つけるのがとんでもなく難しいかもしれない。でも同時に、嘘つきにとっての真理はあります。実際にその人は嘘をついていて、そこへ向かって本当に押し流されているんだから。私の真理は必ず私の強い欲求の内にあるのでしょうか? 明かに違います。なぜって、私たちの欲求、欲望、願い、期待といったものは、自分のできるこおや、そうなりたいと思う自分の姿にぴったりと当てはまるとは限らないからです。」

*「嘘は根本的に、まさしく他人への関係なのです。他人との関係の中では。ときに嘘をつくよう求められることもあります。信頼するための条件が揃っていないからです。」

*「私たちが互いに話をするときには、お互いを信頼しているのです。それでもなお、話し手が嘘をつく可能性があるのも分かっています。みなさんは私が話していることについて疑問を持ち、嘘をついていないかどうか疑うことはできますね。私はみなさんに対して真実のすべてを、真実だけを話すと誓うことはできません。ですが、もし言葉を話す行為の内に真実味を帯びた何かがなかったら、私たちは話すことなどできなくなります。話す行為は真理の内にあってはじめて可能なものです。こうした言語活動はまた真理の姿を変えるものにもなります。真理は実際に起こるものごとの真理ではありません。宿題をしなかったとか(・・・)といったことが重要というのではないんえす。真理とは何か別のことです。真理というのは、私が話すとき、私が他人の信頼を求めていて、その信頼がすぐに得られるということです。このような信頼が、私たちが人間であり、話す存在だという単純な事実に絶対必要な条件となっているのです。

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*「最後に、嘘の特徴としてよく挙げられる二つの形を取り上げておきたいと思います。一つは間違っていて、もう一つは正しいものです。」

*「一つ目はフィクションのことですが、それはサイエンス・フィクションのことだけではないですよ。文学もすべてフィクションと呼ばれますし、文学でなくても、映画、演劇。あらゆる創作がそう呼ばれます。ラテン語だと「フィクション」の元になった言葉〔動詞fingereおよび名詞fictio〕は嘘ではなく、何かを製作すること、粘土などを捏ねて形を作ることを意味しています。小説、映画、演劇は嘘なのでしょうか? そんなことはありません。」

*「二つ目の特徴はイデオロギーに関係します。かつてイデオロギーという言葉の意味は今よりずっと嘘に近いものでしたが、今日、真実を示し。万物を説明するとみなされているアイディア〔フランス語でidée〕を組み合わせた大掛かりなセットはすべて、イデオロギーと呼ばれます。イデオロギーとはアイディアが集まって体系になったもののことで、一般に「〜主義」という語尾が付いた単語で示されます。例えば「キリスト教〔christianisme〕」とか、「共産主義〔communisme〕」とか。でも「〜イスム」で終わる単語がすべてイデオロギーだということではないですよ。(・・・)ですが、もし私が「ナショナリズム」という語を口にしたら、話はまた別です。(・・・)ナショナリズムは、国民・国家・民族という価値がそれ以外の価値に勝るもので、その国の政治や道徳をまるごと制御しなければならないのだと言います。このとき一つの問題に突き当たります。ナショナリスムはまた、民族対立と戦争に行き着きかねないからです。こうしたイデオロギーに関する言葉はもっと詳しく検討しなければならない多様性を覆い隠してしまいます。」

「一般的に言うと、「〜イスム」で終わる単語はさまざまなアイディア。原理原則。考え方の集合体を指していて、それらはひとまとまりの塊の見せかけをしているので、人々は細かく考えずに賛同してしまいます。」

「今日、イデオロギーはおそらく、必ずしも意図されたものではない嘘がとる形の一つですが、しかしそうした嘘の目的は大きな集合体で私たちを包み込むことであって、この集合体もやはり、風船のように膨れ上がって何か大きなアイディアがあるかのように見せかける空理空論なのです。たしかにそれは常に意図的なものとは限りませんが、しかし他方ではこうした言葉を信頼する人たちもいます。そういう人々はみんなに嘘をついていて、自分たち自身にも嘘をついているのです。」

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*「安心を求めようとしてはだめです。それはたぶん非常に難しいことです。私たちはいつでも安心や確信を得る必要を感じていますからね。」

「たしかに色々と確信できることは必要です。でも確信したい、安心したいという欲望や欲求に騙されてはいけません。そんなとき私たちはすぐ信じやすい状態、そう、嘘の内に飛び込んでしまうからです。嘘はいつでも自分自身を安心させるための誘惑です。あるいは、自分を守り、自分を立派なものに見せるため、またイデオロギーの場合には、自分に確固たる強さを与えるための誘惑ですね。このような自分自身への確信こそが常に言う嘘の核心にあり、また嘘をじつに壊れやすいものにもしているのです。言ってしまえば、とても多くの嘘はまかり通り、力を振るっています。たとえ最後の最後には嘘というものは決してうまくいかないのだとしても。ただ、最後の最後というのはとても長くかかるかもしれません。自分自身や他人に嘘をつきすぎても常に悪い結果になるとは限りませんし、必ず罰せられたり、居残りさせられたりするわけではありませんが、しかし問題なのは罰を受けるということよりも、他人との関係の中で何をするべきか知ること、他人と一緒にいてどんな意味があるのかを知ることなのです。今も私たちは他人と一緒にいますね。仮に私たちがみな一人ぼっちだったら、嘘をつく必要も、本当のこと、真理を言う必要もないはずです。嘘や真理、そうしたことはいっさい存在しないはずですから。」

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**(「質問と答え」より)

*「——誰でも嘘をつくんですか?

ジャン=リュック・ナンシー:そうだね。決して嘘をつかない人を見つけるのはとても難しいですね。誰だって一度や二度は嘘をつく。決して嘘をつかず、いつも本当のことを言うようにしている人もいますよ。それで他人との信頼関係が絶たれてしまうこともある。なぜなら面と向かって本当のことを言おうとすると、自分では必ずしもよく知っていないことについても真実を言ってしまったりするからですね。」

*「——嘘と偽善はどう違うとお考えですか?

 それほど大きな違いはないと思いますね。偽善というのは何かを隠し、よく見せようとすることです。偽善はある程度の損得に対応していて、はっきりとした方針のもとで立ち回っています。ですからその二つはとても近いものです。偽善は「仮面をかぶって隠れている」という意味で、実際の私たち自身とは別の人の姿をとることです。嘘のもっとも基本的なことは、多少なりとも偽善者でなければならない、ということですね。」

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【目次】
・嘘の真理(ほんと)
・質問と答え
・訳者による解説
・訳者あとがき

○ ジャン=リュック・ナンシー
1940-2021年。フランス・ボルドー生まれ。ストラスブール・マルク・ブロック大学名誉教授。哲学者。主な著書に『無為の共同体』(以文社)、『神的な様々の場』(ちくま学芸文庫)、『自由の経験』(未來社)、『共同-体(コルプス)』(松籟社)、『ミューズたち』(月曜社)、『複数にして単数の存在』(松籟社)、『世界の創造あるいは世界化』(現代企画室)、『イメージの奥底で』(以文社)、『アドラシオン』(新評論)など多数。

○柿並良佑(訳者)
1980年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。山形大学人文社会科学部准教授。専門は、現代フランス哲学、表象文化論。主な著書に、『ジャン=リュック・ナンシーの哲学』(共編、読書人)など。主な訳書に、ルイ・サラ‐モランス『ソドム』(共訳、月曜社)、ピエール・ブーレッツ『20世紀ユダヤ思想家』第一巻(共訳、みすず書房)、フィリップ・ラクー=ラバルト&ジャン=リュック・ナンシー『文学的絶対』(共訳、法政大学出版局)など。

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