デイヴィッド・ピーニャ=グズマン『動物たちが夢を見るとき 動物意識の秘められた世界』/渡辺茂『動物に「心」は必要か 増補改訂版/擬人主義に立ち向かう』
☆mediopos-3129 2023.6.12
動物たちも人間のように「夢」を見る
タコも夢みるそうだし
ネズミは悪夢さえみる
手話を覚えたチンパンジーは
眠っているときに
その手話で話すのだそうだ
しかし「人間のように」というように
それを「擬人化」してとらえるときには
注意が必要である
「動物には、自分自身の身体図式、
精神構造、進化の歴史」があり
「私たちはときに動物のなかに
自分の経験の片鱗を見ることがあるが、だからといって、
動物は私たち人間の反映ではない」のである
(『動物たちが夢を見るとき』)
「動物は、ただそうあるように存在しているのであって、
私たちがそうあってほしいと望むように
存在しているのではない」ことを理解しておく必要がある
そうでないと動物それ自体の存在価値が
理解されなくなってしまうからである
動物からモノに到るまで
人間的な名前を付けたりするような「擬人化」は
あくまでも「みなし擬人主義」であって
それらを「人間」を投影してしか理解できないようになると
それらがもっている「主体」性を無視することにもなる
渡辺茂『動物に「心」は必要か』は
人間以外の存在に「心」を認める必要はあるのかというような
動物の意識を否定するような視点であるかのように
誤解される怖れがあるが
むしろ「擬人主義」によって
人間中心主義に陥ってしまいがちな視点に対して
警鐘を発しているものだ
ひとは勝手なもので
ペットなどの動物から愛用しているモノに到るまで
じぶんが感情移入でき
そこにじぶんの分身を投影しやすい存在に対しては
名前を付けたり語りかけたりするように
容易に「擬人化」し愛着を示したりもするが
感情移入できないものに対してはそうではない
それが私たちの生活のなかでのそれであれば
それはそれで意味をもってもいるだろうが
研究者としての態度となると話は別で
擬人化は容易に無意識のバイアスになってしまう
「動物意識の秘められた世界」を
理解するためにも
人間に使っている「心」のイメージを
そのままあてはめて理解するのではなく
それぞれの存在の独自性を踏まえ尊重していく必要がある
ちなみに人間の「心」にしても
ひとは容易にじぶんのそれを
他者に投影して理解してしまいがちである
(争いや戦争さえそうして起こる)
ある意味で「他者」は動物以上に理解不能だったりもする
そうした際に陥りがちなじぶんのバイアスにも要注意である
■デイヴィッド・ピーニャ=グズマン(西尾義人訳)
『動物たちが夢を見るとき/動物意識の秘められた世界』
(青土社 2023/3)
■渡辺茂『動物に「心」は必要か 増補改訂版/擬人主義に立ち向かう』
(デイヴィッド・ピーニャ=グズマン『動物たちが夢を見ると』〜「第4章 動物の意識の価値」より)
「動物の意識を否定する現代の風潮に対して、私たちは戦慄すべきである。というのも、動物の内面の拒絶から動物の幸福の無視にいたる距離は、限りなく小さいからだ。この時代における道徳的な課題の一つは、動物の意識の否定が私たちの思考に及ぼす影響力を弱めることである。それができれば、私たちは、動物を心ない物質の塊とみなすことをやめ、意識をもった存在として認識できるようになるだろう。そのとき動物は、それ自体が重要であると同時に、ものごとがそれに対して重要性をもつ存在、言い換えれば、まさにその存在を理由として、それ自体が価値をもち、かつ世界に価値を吹き込む存在となるに違いない。
動物を「気にかける」ことは、この道徳の最前線で前進を続けるための一つの道である。この「気にかける(mind)」という表現を私は気に入っているが、それは、そこに二重の意味があるからだ。つまり、動物に起こることや、その生活、環境に配慮するという意味と、動物を心(mind)をもつ認知主体とみなし、扱うという意味である。また、この二つの意味が噛み合っている点も気に入っている。動物を認知的に気にかけることは、道徳的に気にかけることを可能にする(あるいはずっと容易にする)のだ。動物が心をもたない獣だという見方をくつがえす試みは、種差別主義的な暴力の発生を抑える機会につながるだろう。この種の暴力は、人間という特別な立場から見れば当然の帰結だというまやかしでカモフラージュすることで、さらにずっと残忍なものとなり、生活のさまざまな局面で何のためらいもなく再生産されるようになる。起きている動物が外に示すものから、眠りという辺鄙な場所で育まれたものまで、動物の心のあらゆる側面に注意を払わないかぎり、いま見た二重の意味で動物を「気にかける」ことは決してできないだろう。」
(デイヴィッド・ピーニャ=グズマン『動物たちが夢を見ると』〜「エピローグ 動物という主体、世界を築き上げる者」より)
「動物について知らないことはたくさんある。私たち人間と束の間の時間を共有している、その死すべき存在とは何者なのか? 動物にとって私たちはどのような存在なのか、また、私たちにとって動物はどのような存在なのか? 人間と動物を隔てるように働く多くの現実的な力(言語の溝、他者の心の問題、擬人化の危険など)がある一方で、私たちを結びつける反対方向の力が、同じくらい多く、同じくらい現実的に存在していることをどう理解すべきだろうか?」
「動物の夢の世界に足を踏み入れることで、私たちは動物が人間を好けウールダウンさせたものではないことを知る。動物は、肉体的、心理的、進化的、精神的な発達を阻害された、ある種の異常な状態に閉じ込められているわけではないのだ。動物には、自分自身の身体図式、精神構造、進化の歴史がある。自分なりの関心、願望、動機をもっている。現実を形づくり、解釈する自分自身のやり方があり、充実した世界を楽しみ、生き抜く方法をもっている。私たちはときに動物のなかに自分の経験の片鱗を見ることがあるが、だからといって、動物は私たち人間の反映ではない。動物は、人間の姿を映し出すために存在するのでも、人間を補完するために存在するのでもない。人間のために。あるいは人間のおかげで生きているのではない。動物は、ただそうあるように存在しているのであって、私たちがそうあってほしいと望むように存在しているのではない。哲学者トム・リーガンの言葉を借りれば、動物は「生の主体(subject of a life)」、つまりそれ自身の生活の主体なのである。
私たち人間にとって、こうした動物の「第三者性(their-ness)」は、どうにもならない限界だと言える。つまりその第三者性によって、動物を理解しようという私たちのあらゆる試みが、解決不能な曖昧さ、回答不能な問い————少なくとも満足した答えは出せない問い————に、悩まされることになる。動物が夢を見るときに起きていることを理解したいという私自身の試みも、例外ではない。
人間以外の動物がどのような夢を見ているのかについて、私たちはまだ完全に説明することはできず、せいぜい部分的な理解にとどまっている。」
「動物は、豊かな記憶力、豊かな想像力、豊かな具現性を備えた心をもっており、その豊かさを垣間見せてくれるのが夢である。より具体的には、夢の存在によって私たちは、動物が人間と同様に、世界における自分自身の経験を能動的に構築していることに気がつく。動物は、出来合いの経験を受動的に受け取っているのではない。自分に向かってくる感覚与件の渾沌とした流れから、単一で、意味があり、一貫した現象世界を作り上げているのだ。」
(渡辺茂『動物に「心」は必要か』〜「序章 擬人主義のなにが問題か」より)
「進化論に基づくヒトと動物の連続性は、相反する二つの立場を生み出した。ヒトのことはわかっているから、それを基準にして(認知科学的にいえばベース・アナログにして)動物を類推する(ターゲット・アナログにする)立場と、ヒトはあまりに複雑だから、まず単純な動物を研究して、そこからヒトを類推しようとする立場である。前者が擬人主義、後者が擬鼠主義という訳だが、ご本尊のダーウィンは前者である。このようなことが問題になるのは、研究対象が「心」だからで、心臓の動き、骨の構造などが研究対象の場合は、擬人主義が問題になることはない。ヒトとほかの動物の違いは、単なる種差の問題である。僕が擬人主義に異を唱えるのは、それが動物を人間的に理解しようとするからである。多分、擬人主義では、本当の「心」は人間にしかなく、動物との連続性を考えると、ほかの動物にも「心」的なものがあり。それは人間の「心」から類推できると考えているからだろう。そして、「心」の進化は、ホモ・サピエンスへの一本道だったというのだろう。僕はこれらの考えを弾劾する。(・・・)人間の心のメンタリスティックな理解は、ほとんど言い換えで、よくいって説明の節約に過ぎない。多少蛇足になるが、進化論成立の後で擬人主義と擬動物主義という選択があったという訳ではない。進化論から導き出されるのは動物からヒトを理解する立場であって、その逆は、進化を目的論的に解釈しない限りあり得ない。」
「擬人主義は着々と甦りつつある。いや、おおっぴらに擬人主義を標榜する研究者までいる。啓蒙書の名手でもあるドゥ・ヴァールもその一人だ。
(・・・)
ドゥ・ヴァールは、しかし、擬人主義を一般的に主張しているのではなく、霊長類、特に大型類人猿に関して擁護しているに過ぎない。彼の意見は多分、多くの初学者を納得させるだけの力がある。しかし、一旦認めると、その後の線引きは難しい。擬人主義の起源を探り、なにが問題あるかを明らかにするのが本書の目的である。」
(渡辺茂『動物に「心」は必要か』〜「第15章 擬人主義を排す」より)
「「みなし擬人主義」は、動物や機械に囲まれた生活において有効かもしれないが、「みなし」であることを肝に銘じておくことが必要である。そして、動物行動の科学的理解には、擬人主義は無用であるばかりでなく、有害である。それはなにも説明しない。「みなし」は「みなし」であることを、絶えず啓蒙し続ける必要がある。たとえ、そのことが民衆に浸透するのが蝸牛の歩みであっても。」
(渡辺茂『動物に「心」は必要か』〜「第16章 動物の哲学」より)
「動物の哲学に対する僕の根本的違和感は、それが人間理解のための議論だという点だ。哲学者からは、そのような基本的な前提すらわからないのか、と叱られそうだが、僕は動物を理解しようとしているのであて、ヒトはその中の一種に過ぎない。「人種差別」はいうまでもなく正当化できないが、そこから類推して種差別が不当だというのは論理の飛躍である。僕は人間中心主義、霊長類中心主義、哺乳類中心主義、四足動物中心主義に異を唱えてきた。その意味では種差別に反対してきた。しかし、どのような人種にも同じ権利があるのと同じように、すべての種を同じように扱わなくてはならないと主張している訳ではない。種差をこそ問題にし、高次認知機能の放散を主張してきた。一次元の序列化ではなく、放散ということは、それぞれの種に対応して扱いを変えるということを意味する。種差別を認めた上で、その差別の基準を少しずつかがきてき合理性に基づくものにする。不断の努力が必要なのである。単純な正解はない。理屈ではなく実証的な知識の蓄積こそが、より合理的な種差別に近づく道なのである。」
(渡辺茂『動物に「心」は必要か』〜「第17章 無脊椎動物に「心」は必要か」より)
「魚も虫も哺乳類、鳥類に比肩する複雑な行動を示すことがわかる。では、彼らは「知性」を持っているのだろうか。知性は、複雑な行動の背後にそれがあるとヒトが想定するものである。つまり、魚や虫は持っているものではなく、観察した人間が、魚や虫の行動を「知的」だと推測するものである。そして多くの人が、この章で紹介したような魚や虫の行動を「知的」だと考えるだろう。(・・・)
ヒトは、彼らに私的経験としての「心」があると考えるだろうか。換言すれば、擬人主義を魚類や虫にまで拡張するだろうか。(・・・)擬人主義の起源はヒト集団での他者の行動予測である。ヒト集団の成員は形態的に均一である(もちろん厳密には個人差がある)ので、擬人主義の般化は見かけ上の類似性の制約を受ける。ドゥ・ヴァールが大型類人猿に限って擬人主義を認めたのもそのためである。その結果、多くの人が見かけが人間と異なる虫への「心」の付与には慎重になるのではないか。魚、タコ、虫、奇怪なエイリアン、それらが知的なことは認めても、ヒトと同じ心があるとは考えないのではないか。心があると考えるのは、ヒトに似ている動物か、ヒトと交渉のある動物に限られるようだ。」
(渡辺茂『動物に「心」は必要か』〜「第18章 植物に「心」は必要か」より)
「神経系をもたない生き物の環境における適応的な行動は、「知的」ということをそのように定義すれば、まさしく知的である。彼らの中に高度な情報処理のためのアルゴリズムがあることに間違いは無い。しかし、ヒトは食虫植物や粘菌に、原因としての「心」があると感じるだろうか。(・・・)擬人主義の源は同種の少数個体の仲間で適用する行動予測の方法であり、仲間とはまず見た目が似ているものなのだ。そのため、節足動物や軟体動物への「心」の付与はためらわれる。
植物や単細胞動物は神経系をもたない。「知的活動=神経活動」や「心=脳」は大きな挑戦を受けることになる。」
(渡辺茂『動物に「心」は必要か』〜「第19章 機械に「心」は必要か————ヒトとの共生」より)
「ヒトとの相互コントロールをしているという意味では、動物も機械も人間社会に組み込まれている。しかし、動物も機械も、ヒトの文化を理解している訳ではない。社会に組み込むための最低限の「社会規範」を訓練(プログラム)されているだけである。すべての動物は機械だと考える人はいても、電卓や電車を動物だと考える人はおるまい。「動物は機械だ」ということと「機械は動物だ」ということは違う。ヒトは動物を作ることはできない。完全養殖も品種改良も遺伝子操作も、つまりは既存の動物に手を加えるに過ぎない。(・・・)擬人主義の般化の場合、ある種のロボットのほうが虫や貝よりも擬人的理解を招きやすい。そこではヒトとの形態のみならず運動を含めた見かけの類似度が般化次元の一つになっていると思う。」
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