寺田寅彦「珈琲哲学序説」/ルドルフ・シュタイナー「医食を考える」
☆mediopos-3111 2023.5.25
寺田寅彦に「珈琲哲学序説」という随筆がある
寺田寅彦はよくコーヒーを飲みに出かけるものの
「コーヒーに限らずあらゆる食味に対しても
いわゆる「通」」ではないのだという
ここで語られているのは
コーヒーをなぜ飲むのか
コーヒーにはどのような作用があるのか
その作用が芸術や哲学や宗教と
どいう点で類似しまた相違しているのか
といったことについての
「コーヒー漫筆」あるいは「コーヒー哲学序説」である
以下その論を追ってみる
寺田寅彦は研究が行き詰まったときなどに
コーヒーを飲むことで
「解決の手掛かりを思いつ」いたりもすることから
「もしやコーヒー中毒の症状ではないか」とも思うが
「飲まない時の精神機能が著しく減退」する
というほどではないので
「この興奮剤の正当な作用」であろうととらえている
興奮剤として働いた体験も一度だけあるといい
そのことで「これは恐ろしい毒薬であると感心もし、
また人間というものが実にわずかな薬物によって
勝手に支配されるあわれな存在であるとも思った」と
冷静にコーヒーの作用を反省的に分析し
スポーツ好きが観戦中に興奮状態に入ったり
宗教に熱中した人が恍惚状態を経験したりするように
「禁欲主義者などの目から見れば
真に有害無益の長物かもしれない」としながら
「芸術でも哲学でも宗教でも
実はこれらの物質とよく似た効果を
人間の肉体と精神に及ぼすもののように見える」という
とはいえ宗教は酒に似て
「往々人を酩酊めいていさせ官能と理性を麻痺させ」
「人を殺す」ような犯罪にもつながるような
「信仰的主観的」なところがあるが
コーヒーや哲学で「犯罪をあえてするものはまれ」であり
「官能を鋭敏にし洞察と認識を透明に」し
「懐疑的客観的」なところがあり
「これによって自分の本然の仕事が
いくぶんでも能率を上げることができれば、
少なくも自身にとっては
下手へたな芸術や半熟の哲学や生ぬるい宗教よりも
プラグマティックなものである」ともいう
また芸術的な側面との比較でいえば
「芸術という料理の美味も時に人を酔わす」が
「成分によって芸術の分類ができるかもしれない」といい
「コカイン芸術やモルフィン文学が
あまりに多きを悲しむ次第である」ともしている
この随筆の主な内容は以上の通りで
コーヒー好きの語る
その効用の「プラグマティックな」側面についての
「珈琲哲学」のさわりといったところ
とくに意外な観点もないけれど
これが語られたのは昭和八年で
この時代に日本で論じた人は稀だったのではないか
ちなみにコーヒーの作用について
ルドルフ・シュタイナーは一九〇六年頃の講演で
次のように語っていて
寺田寅彦が語ったことを裏づけていたりもする
「コーヒーが胃に引き起こすのと同じものを、
みなさんは論理的に思考するときに、
頭のなかに引き起こします。」
「コーヒーは首尾一貫した思考を促進しますが、
人間はコーヒーの作用に依存するようになります。
コーヒーは強制的に作用するのです。」
「コーヒーをたくさん飲むと、
首尾一貫した思考をしようとするとき、依存的になります。
自立して思考しようとするなら、
下部に作用するものから自由にならなくてはなりません。
自立のなかに、心魂から発する力を形成しなくてはなりません。
適切な訓練をすると、胃も順調になってくるでしょう。」
「考える」といっても
胃に作用させることで考えさせられるとき
そのことで胃は不調になってしまうということだろう
たしかにコーヒーを飲み過ぎると胃が不調和になる
寺田寅彦の語る通り
コーヒーには「首尾一貫した思考を促進」する働きがあるが
いわばコーヒーによって強制的に
思考させられるようになるため
それに依存しすぎないように
適切なバランスを保つ範囲で嗜むのがよさそうだ
■寺田寅彦「珈琲哲学序説」
(寺田寅彦『銀座アルプス』 角川ソフィア文庫 2020/5)
■ルドルフ・シュタイナー「医食を考える」
(シュタイナー(西川隆範訳)
『人智学から見た家庭の医学』(風濤社2003/9)
(寺田寅彦「珈琲哲学序説」より)
「自分はコーヒーに限らずあらゆる食味に対してもいわゆる「通」というものには一つも持ち合わせがない。しかしこれらの店のおのおののコーヒーの味に皆区別があることだけは自然にわかる。クリームの香味にも店によって著しい相違があって、これがなかなかたいせつな味覚的要素であることもいくらかはわかるようである。コーヒーの出し方はたしかに一つの芸術である。
しかし自分がコーヒーを飲むのは、どうもコーヒーを飲むためにコーヒーを飲むのではないように思われる。宅うちの台所で骨を折ってせいぜいうまく出したコーヒーを、引き散らかした居間の書卓の上で味わうのではどうも何か物足りなくて、コーヒーを飲んだ気になりかねる。やはり人造でもマーブルか、乳色ガラスのテーブルの上に銀器が光っていて、一輪のカーネーションでもにおっていて、そうしてビュッフェにも銀とガラスが星空のようにきらめき、夏なら電扇が頭上にうなり、冬ならストーヴがほのかにほてっていなければ正常のコーヒーの味は出ないものらしい。コーヒーの味はコーヒーによって呼び出される幻想曲の味であって、それを呼び出すためにはやはり適当な伴奏もしくは前奏が必要であるらしい。銀とクリスタルガラスとの閃光せんこうのアルペジオは確かにそういう管弦楽の一部員の役目をつとめるものであろう。
研究している仕事が行き詰まってしまってどうにもならないような時に、前記の意味でのコーヒーを飲む。コーヒー茶わんの縁がまさにくちびると相触れようとする瞬間にぱっと頭の中に一道の光が流れ込むような気がすると同時に、やすやすと解決の手掛かりを思いつくことがしばしばあるようである。
こういう現象はもしやコーヒー中毒の症状ではないかと思ってみたことがある。しかし中毒であれば、飲まない時の精神機能が著しく減退して、飲んだ時だけようやく正常に復するのであろうが、現在の場合はそれほどのことでないらしい。やはりこの興奮剤の正当な作用でありきき目であるに相違ない。
コーヒーが興奮剤であるとは知ってはいたがほんとうにその意味を体験したことはただ一度ある。ぎんざへ行ってそのただ一杯を味わった。そうしてぶらぶら歩いて日比谷へんまで来るとなんだかそのへんの様子が平時とはちがうような気がした。公園の木立ちも行きかう電車もすべての常住的なものがひどく美しく明るく愉快なもののように思われ、歩いている人間がみんな頼もしく見え、要するにこの世の中全体がすべて祝福と希望に満ち輝いているように思われた。気がついてみると両方の手のひらにあぶら汗のようなものがいっぱいににじんでいた。なるほどこれは恐ろしい毒薬であると感心もし、また人間というものが実にわずかな薬物によって勝手に支配されるあわれな存在であるとも思ったことである。
スポーツの好きな人がスポーツを見ているとやはり同様な興奮状態に入るものらしい。宗教に熱中した人がこれと似よった恍惚状態を経験することもあるのではないか。これが何々術と称する心理的療法などに利用されるのではないかと思われる。
酒やコーヒーのようなものはいわゆる禁欲主義者などの目から見れば真に有害無益の長物かもしれない。しかし、芸術でも哲学でも宗教でも実はこれらの物質とよく似た効果を人間の肉体と精神に及ぼすもののように見える。禁欲主義者自身の中でさえその禁欲主義哲学に陶酔の結果年の若いに自殺したローマの詩人哲学者もあるくらいである。映画や小説の芸術に酔うて盗賊や放火をする少年もあれば、外来哲学思想に酩酊して世を騒がせ生命を捨てるものも少なくない。宗教類似の信仰に夢中になって家族を泣かせるおやじもあれば、あるいは干戈を動かして悔いない王者もあったようである。
芸術でも哲学でも宗教でも、それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときにはじめて現実的の意義があり価値があるのではないかと思うが、そういう意味から言えば自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言ってもいいかもしれない。これによって自分の本然の仕事がいくぶんでも能率を上げることができれば、少なくも自身にとっては下手へたな芸術や半熟の哲学や生ぬるい宗教よりもプラグマティックなものである。ただあまりに安価で外聞の悪い意地のきたない原動力ではないかと言われればそのとおりである。しかしこういうものもあってもいいかもしれないというまでなのである。
宗教は往々人を酩酊させ官能と理性を麻痺させる点で酒に似ている。そうして、コーヒーの効果は官能を鋭敏にし洞察と認識を透明にする点でいくらか哲学に似ているとも考えられる。酒や宗教で人を殺すものは多いがコーヒーや哲学に酔うて犯罪をあえてするものはまれである。前者は信仰的主観的であるが、後者は懐疑的客観的だからかもしれない。
芸術という料理の美味も時に人を酔わす、その酔わせる成分には前記の酒もあり、ニコチン、アトロピン、コカイン、モルフィンいろいろのものがあるようである。この成分によって芸術の分類ができるかもしれない。コカイン芸術やモルフィン文学があまりに多きを悲しむ次第である。
コーヒー漫筆がついついコーヒー哲学序説のようなものになってしまった。これも今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果であるかもしれない。」