アンスガー・アレン『シニシズム』
☆mediopos-2532 2021.10.22
シニカルというのは
皮肉っぽさや冷笑的であることだが
もとは古代ギリシアを生きた
ディオゲネスを典型とした
古代シニック派からきている
托鉢生活を送る哲学者の集まりで
「派」といっても結束していたわけではなく
追従する者などに対してもシニカルだったようだ
人や物事など世の中に存在するものを疑い
いわば教育されたものの偏見を明るみだし
そこに「まったく異なる見解がある可能性を」
独自の生活様式のなかで示していた
それは学問ではなく
大衆に対する「挑発や排便行為」といった
粗野で常軌を逸した行動をとっていたというが
そうして人々に気づきを与えることで
世の中を変えることはむずかしかったようだ
現代はある意味でシニシズムに満ちているが
本書ではそれを「現代のシニシズム」とし
「古代のシニシズム」とはむしろ対極にあるという
「今を生きる私たちは総じてシニカル」だ
「現代のシニシズム」は
世界を変えようとする試みは失敗する運命にある
ということが基調となっていて
「古代のシニシズム」が「あらゆるものや人に
迎合することを一切拒んだ」ような態度はとらず
むしろ「常に自己の利益を追求しながらも
自身が厭う状況に迎合」するという
「古代のシニシズム」が「現代のシニシズム」と
大きく異なっている点は
人や物事に対する異議申し立てである批判を
みずからに対しても向けているかどうかということだろう
古代シニック派はみずから
批判を体現しそれを生きようとしたが
現代のシニシズムにおいては
シニカルさのなかにありながら
みずからがそれを体現しようとはしない
古代シニック派はその挑発的で過激なパフォーマンスのため
現代のシニシズムは「自身が厭う状況に迎合」するため
結局のところ世の中を変えることはむずかしいようだ
(という表現もシニカルな物言いになっていたりするが)
シニカルであるということは
人や物事に対して疑問を持つことだが
その疑問をどう生きるかということが
現代のシニシズムにとっては大きな課題となる
管理社会化が急速に進んでいる現代においては
その疑問をもつことでさえも
マスメディアや科学(主義)といった権威の前で
スポイルされてしまう傾向があるようだ
そのなかでみられるシニシズムの多くは
さまざまなパフォーマンスを越えることは稀で
「必然的に資本に取り入れられてしま」ったりもする
その意味でも
現代においてシニカルであることの意味を
とらえなおしてみる必要がありそうだ
■アンスガー・アレン(上野正道 監修・ 彩本 磨生 訳)
『シニシズム』
(ニュートンプレス 2021/9)
(巻末「用語集」より)
■古代のシニシズム(Ancient Cynicism)
「古代シニック派は、托鉢生活を送る哲学者集団だった。学派としての固い結束はなく、杖と外套という独特な恰好のため見分けがつきやすい。意図的な窮乏化、粗野な振る舞い、恥じらいのなさ、不可解な行動、常軌を逸した様子が特徴。シニック派は独自の生活様式を実践することでその偏見をあらわにし、世に存在するものに対し、まったく異なる見解がある可能性を示すことにある。英字表記で古代シニシズムは大文字の「C]から始まり、現代シニシズムと区別される。
■路上のシニック派(Street Cynicism)
「大いに愚弄された古代の托鉢僧の一派。貧しく疎外された人々と結びつき、裕福な権力者を侮辱しながらローマ帝国を放浪した。路上のシニック派は偽りの哲学者として広く非難されたが、その評価は自分たちの理想とするシニック派のレガシーをつくろうとした哲学者や政治家の対立的な視点によるものである。
■現代のシニシズム(Modern cynicism)
「現代のあらゆる形態のシニシズムを指す一般的なカテゴリー。このシニシズムは、特定の集団固有の理想でない限り、現代社会に蔓延するといわれる。権力者(大きな影響力と富を得るためなら手段を選ばないような者)が機を狙う操作的なものから、虐げられ社会の主流から取り残された者が唱える絶望的なものまで幅広い、英字表記で小文字の「c」から始まり、古代シニシズムと区別される。」
■インサイダー・シニック(Inseider cynicism)
「現代シニシズムの一種。(・・・)古代シニシズムとの関連性はほぼなく、現代の職業人や役人のシニシズムに通じる。彼らは、人間は最終的に利己的な動機で動くと信じ、それを前提に同僚とつき合い、大きな組織での生存に全力を尽くす。」
■戦略的シニシズム(Strategic cynicism)
特に今日の大学の学者は、自己妄想的で自らを高めるような理想をもち、常に「戦略的」に介入する。それは政府や影響力のある機関と手を組むために必要かつ懸命な策であり、そのような慎重な駆け引きが権力の手綱を断ち切るのではなく緩めるのに有効であると考えられている。彼らが職業上疑うよう訓練を受けてきた機関やシステムに、学問的に従うという論理である。このようなアカデミックでリベラルなシニシズムは好感をもたれるよう装い、善行を主張するため目立たない。さらに奇妙なことに、その地位はよい露骨なほかのシニシズムを否定することで確立される。それは第一に現代のシニシズムは、あからさまな偽善のシステム(罪の意識のない者のシニシズム)または信念に欠けるシニシズム(悲観主義に偏った者のシニシズム)であるという前提、そして第二に、民主的プロセスに有意義にかかわっていく前兆とみなされることが多いとされる現代のシニシズムは無力化の産物(教育による高揚的効果を欲する人々の病)であるという前提に基づいている。家父長的なニヒリズムや進歩的なシニシズムと同様に、常に「シニシズム」を別の場所に置くようなある種の否定に根ざしている。」
■家父長的なニヒリズム(Paternalistic cynicism)
「政府の操作や制度的なケアの論理を支えるシニシズムの一形態。その強烈なポジティブさゆえ見抜きにくいが、既存の傾向や習慣を操作しながら世論を形成しようとする人々のシニシズムである。家父長的なシニックは自身が提供するサービスにとって儲けることが多いが、その活動(彼らが操る人々にも明らかに利益をもたらす活動)が理解され正当化されるにつれて、より大きく発展する。」
■進歩的なシニシズム(Progressiv cynicism)
「家父長的なシニシズムと同様、その強烈なポジティブさゆえ捉えにくい。教育が本質的な善良さに支えられ、そこに帰着できると考える後期近代の教育者の間で、特に普及している。教育的救済の神話を永続させるシニシズムは、必然的に失望を招き、責任を分け合い、改善を強行する。」
(本文より)
「かつて、現代のシニシズム(cynicism)とはまったく異なるシニシズム(Cynicism)が存在しました(英字表記で後者の頭文字は「C」。シニシズムの代表的な実践家に、シニック派のディオゲネス(生誕紀元前412年〜紀元前403年頃)がいます。ディオゲネスといえば、同時代のギリシャの人々に対し否定的であったことが知られていますが、彼は人々の生活状況を変えることに献身的でした。この点において、彼のシニシズムは覇気のない現代のシニシズムと対極にあります。現代における大衆のシニシズムは、世界を変えようとする試みは失敗する運命にある、と私たちに最初から思わせます。」
古代のシニック派は托鉢生活を送る哲学者の集まりでした。学派として固い結束はなく、かの有名な杖と外灯のみという独特な恰好のため簡単に見分けがつきました。意図的に自らを窮乏化し、粗野に振る舞い、恥じらいもない、理解しがたい行動と常軌を逸した様子から、そのほかの人々との違いは一目瞭然でした。シニック派は独自の生活様式を実践することで、自らが属する文化を批判しました。その狙いは、同時代の人々を憤慨させ、彼らがもつ偏見をあらわにし、世に存在するものに対し、まったく異なる見解がある可能性を示すことでした。一方、現代においてシニシズムの人々を特定するのは大変困難です。少数の改革者によって実践されるものではなく、シニシズムは主流となっています。今を生きる私たちは総じてシニカルです。現代のシニカルな態度も文化的な洗練性や高尚な慣習に懐疑的ですが、対外的な反発力は控えめです。現代シニシズムには社会的・政治的信条がなく、隙にかろうじてつけ込み、常に自己の利益を追求しながらも自身が厭う状況に迎合します。あらゆるものや人に迎合することを一切拒んだギリシャの先人とは直結しません。では、いつ古代シニシズムは現代の形に変化したのでしょうか。」
「本書は特に、古代と現代のシニシズムが教育文化に与えた影響に焦点を当てます。現代シニシズムにおける教育文化とは、多彩な制度的形態で施される教育から、教育を受けた者の価値観や行い、自己理解に至るまで非常に広義です。古代シニシズムは同時代教育文化や伝統的な価値観から逃れることができませんでしたが、それらに対する反発行為で際立つ存在でした。文化を覆すというミッションを最終的に果たせなかっただけに、この点はあっさり見落とされ軽視されています。(…)古代シニシズムが古代ギリシャで生まれたとされる時期のある段階で、教育を受けた西洋人の文化的覇権をどうにかゆるがしていたとしても、根本的にそれを阻むことができなかったでしょう。人々の教育への傾倒を内側からぐらつかせ、公に疑問を呈するというシニック派の計画は実現されていません。古代シニシズムは今なお私たちに多くのことを教えてくれますが、シニック派が教育をあざ笑う様が終始見られることでしょう。」
「現代の私たちは、シニシズムがまるで無意識にあふれ出してしまうもの、完全に屈服しないよう良心で抵抗しなくてはならない自身の暗部かた噴出するもののように考え、それを免罪符にしています。「シニカルな人になんてなるたくない。でも・・・・・・」そんな心もちなのです。」
「ソクラテスのアイロニーは友人や知人の間で実存に対する疑いを生み出すことに注力しているのに対し、シニック派は暴動を引き起こそうとしています。」
「シニック派哲学の教育的活動は本質的に統制できない肉体の経験に根ざしています。」
「シニック派は人間の付属物を取り払いたいと考え、激しい怒りを呼ぶほどに大きく介入しました。無意識に負っている義務を表面化させ、それらを可視化して変えていくことが狙いです。」
「ディオネゲスは公衆の面前で排泄したりしただけでなく、聴衆が演説に聞き入り、恍惚状態になったときを狙ってその行為に及んだ点に注目しています。」
「古代シニシズムは、恥や屈辱を教育実践の中心に据えることで、教育を受ける人々に恥をかかせたり屈辱を与えたりしようとします。」
「シニック派は従来の教育の概念に反発し、追従者たちにも否定的だったため、学問ではなく挑発や排便行為を生活の主体にしていました。」
「シニック派の肉体とその排泄機能や性機能に重点を置くことは、規制の場として、肉体が広範な社会秩序の判断的運用をどのように反映し守ることを期待されているかを理解するためです。」
「教科書的な教育やパターナリズムの束縛から解放された教育は本来よいものである、という原理を主張すること、つまりは明言せずとも暗示することが、教育的救済の神話を永続させ、現代のトラウマに対処する教育者のポジティブながら二枚舌のシニシズムの起源となっているのです。」
「現代シニシズムは、一般化された無関心ではなく、中途半端な幻滅に突き動かされています。」
「シニック派の排便行為を実際に目にしたリアルな観客の理屈抜きの不快感は、憤りを利益に変えるバーチャルな観客に取って代わられました。」
「「人と違う生き方をする」という古代のシニック派の手法は、必然的に資本に取り入れられてしまいます。」
《目次》
もくじ:
第1章 はじめに:逸脱に関する問題
三つの問題
第2章 あらゆる規律を拒否:古代シニシズムとFearless Speech(臆せず語る)
哲学としての立場
臆せず語る
窮乏化
肉体を重んじる教育者
第3章 貨幣の価値を貶める:常軌を逸した古代シニシズム
攻撃的な教え
貨幣の価値を変える
洗練性
排便行為による批判
恥,屈辱,笑い
手に負えない弟子たち
第4章 暴徒への懸念:古代と中世の理想化
理想化されたシニック派
エピクテトス
ルシアン
ユリアヌス
キリスト教の禁欲主義者と聖なる愚者
愚者シメオン
第5章 樽を空ける:近世の不満分子
ラブレー
近世の不満分子
第6章 太陽を解き放つ:啓発された哲学者と放蕩者
啓蒙主義のシニック派
ルソー
ディドロ
サド
第7章 終末の時代を生きる:現代シニックの多面性
シニシズムへの批判
極左勢力の不満
後期ソ連のシニシズム
スローターダイクの批判
反乱の可能性
ニーチェ,ニヒリズム,不完全なシニック派
スローターダイクと排泄行為の規範
第8章 終わりに:シニシズムの必然性
用語集
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