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中島啓勝『ておくれの現代社会論:〇〇と□□ロジー』

☆mediopos3506  2024.6.23

本書には『ておくれの現代社会論』という
少し変わったタイトルがつけられている

なにが「ておくれ」なのだろうか・・・

私たちはどの時代においても
じぶんたちの生きている「現代」を
特別な時代だとしてとらえ
それなりの危機感をもって生きているが

いわゆる先人たちもまたそれぞれ
「現代」への危機感をもって生きたのであり
「先人たちがその時々に繰り広げた現代社会論が
傾聴に値するものであればあるほど、それはとりも直さず、
我々が生きるこの現代が「ておくれ」である可能性が
高いことを示唆している」という

そうした「ておくれ」という時代認識を持つということは
「過去に対して複眼的な視点を持っていることを意味し」
「深刻な危機を回避できるタイミングは
とっくに過ぎ去ってしまったのだと認める一方で、
その危機が我々にもたらした思想問題の重要性は
決して過ぎ去ってなどいないと気づく」ことで
「我々は「ておくれ」を痛感する」ことができる・・・

「ておくれ」という表現がなされてはいるが
それは必ずしも絶望的なまでに為す術がない
ということだというのではない

18章に渡り
「ておくれ」として
半ば(真剣な)ユーモアをもって論じられているのは
時代の変化に常に意識的でありながら
現代社会が直面している諸問題について
過去からの警鐘にも耳を傾けながら
時代を越えて通用する価値が
探求されなければならないということである

多くの問題は過去にすでに警鐘が鳴らされてきた問題であり
それらの問題が解決されないまま現代を迎えている
という意味が込められているようだ

本書の各章のタイトルは
「〇〇」という「論点」を表す漢字二文字の熟語と
「□□ロジー」という「思考の道筋」を表す
“logy”を語尾に持つ英単語が「と」でむすばれ
以下のように「〇〇と□□ロジー」という副題が付けられている

「民主とメソドロジー」「成長とサイコロジー」
「戦争とトポロジー」「経済とアポロジー」
「国家とアンソロポロジー」「福祉とセオロジー」

「空気とエコロジー」「権利とアーケオロジー」
「情報とテクノロジー」「知能とオントロジー」
「芸術とエティモロジー」「教育とアナロジー」

「信仰とバイオロジー」「正義とパソロジー」
「倫理とトートロジー」「偽装とコスモロジー」
「暴力とアイディオロジー」「災禍とソシオロジー」

これらの表現は「「□□ロジー」を敢えて読み換え、
それを織り込んだ言葉遊びをきっかけにして
現代社会を論じていく」という方針からであり

しかもその方針の背後には
「ロゴスというものに対する
信頼と不信が同時に存在している」

つまり「硬直化したロゴスは、表面的には
合理的で正しいことを述べているように見えるが、
我々が生きているこの現実を十分に映し出すことができない」
そうした「ありのままの現実を捉えられないロゴスに
失望しているからこそ、言葉遊びという「ロゴスの悪用」を通じて
その欠陥を補おうとしている」のだという

「現実をそのまま肯定しようとする」のではなく
そしてたとえ「理想」とされるものが
「この地上では決して達成し得ない超越的なものである」としても
「理想があるからこそ、現実がよく見える」のであって
「ロゴスの潜在的な力を信じ」ながら
「現実ではなく、真実を肯定する」ことが目指されている

それが「○○と□□ロジー」として表されているのだが
「現実」に呑みこまれてしまうのではなく
かといって「理想」を盲信し「現実」から離れるのでもなく
「絶望なしに絶望し、信じることなしに信じる」・・・

そのように
本書はシニカルでありつつユーモアをあわせもった
多彩で複眼的な現代社会論であり
今後それぞれのテーマについて考えようとする際
さまざまな示唆を得られそうだ

■中島啓勝『ておくれの現代社会論:〇〇と□□ロジー』
 (叢書・知を究める ミネルヴァ書房 2024/2)

**(「序 ておくれの現代社会論」より)

*「我々現代人は、自分たちが生きているこの時代を比類なき激動の時代だと捉えるような議論に興じ続けてきた。現代社会を語る側も大袈裟なまでに危機感を募らせて、この未曾有の難局を乗り越えるにはどうしたらいいかと騒ぎ立ててきた。しかし、落ち着いて考えてみればこのような議論はこれまでも連綿と続いてきたのであり、過去を生きた人々はそれぞれの「現代」を憂慮してきたのだった。我々は健忘症であるかの如く、先人たちが鳴らしてきた警鐘を聞き逃し続けてきたのである。

 そして残念なことに、先人たちがその時々に繰り広げた現代社会論が傾聴に値するものであればあるほど、それはとりも直さず、我々が生きるこの現代が「ておくれ」である可能性が高いことを示唆している。危機感を云々するタイミングはとっくに過ぎてしまった。気がつけば我々は、価値観の転換や難局の克服に失敗していたのだ。あまりにも悲観的な時代認識だと非難されるかも知れないが、過去の警鐘を真剣に受け止めるならば、れおくれであることの自覚を持たない方が不自然であり、現実逃避的な態度ではないだろうか。」

「我々が「敗者」から学んでこなかったのは、おそらく自分たち自身が「敗者」だという自覚がないからである。まだ大丈夫、まだ間に合うなどと言って現実から目をそらし、浮ついた危機感だけを口にしてはすぐに忘れてしまうのは、「敗者」である自分を直視できないからに他ならない。逆に言えば、自身のまた「敗者」の系譜に並んでいることを自覚しなければ、その上で過去の「敗者」が何を考え、どのように行動してきたのかを虚心に学ぶことなどできないだろう。

 ここで敢えて、自分たちの生きている時代を特別視する愚を犯すことを許してもらうならば、我々が生きているこの現代ほど「勝者」なきゲームに晒されている時代はないのではないだろうか。そしてそれはここ日本に限った話ではなく、世界全体を覆う事態のように思われる。大多数が「敗者」として生きているにもかかわらず、そのことを否認しながら終わりなき不安にさいなまれる時代を、ておくれの時代と呼ばずに何と呼ぶべきだろうか。

 我々はておくれとなった現代を受け入れなければならない。それは絶望し、何もかもを諦めることではない。山口(昌男)の言葉を借りるならば、それは頭を冷やすことであり、心から納得のいく生き方を探し出そうとすることである。現代社会を語る言葉は、ておくれであることの自覚を経由してはじめて、生きるに値する生き方とは何かを我々自ら切り開くための手がかりと変わる。ひょっとすると、その時「ておくれ」は、限りなく「でおくれ」に近づくのかもしれない。」

**(「Ⅰ 政治と向き合う、経済を見つめ直す」〜「第1章 民主とメソドロジー」より)

*「実は本当の問題は民主主義なのではない。我々が「方法」に囚われ、「方法」を考えることしかできなくなっているということこそが問題なのだ。」

*「「目的」を探すための「方法」という言い訳を続けながら、「目的」なき「方法」だけが肥大していくというこの近代の病に対処するためにも、民主主義が「方法」に過ぎないことを思いだす必要がある。そしてこの「方法」はあらゆる「目的」を懐疑して破壊してしまうということに、警戒を払わねばならない。(・・・)我々はやはり、自分たちの生きる「目的」を見つめ直すべきなのだ。たとえ懐疑という「方法」に呪われたままだとしても。」

**(「Ⅰ 政治と向き合う、経済を見つめ直す」〜「第6章 福祉とセオロジー」より)

*「神道の内部において「神々」が共存するように、神道と仏教と儒教という「神々」も「福祉の哲学」の中で共存し得る。我々は「神々」が相即する「あいだ」に生きることで、利己と利他の「あいだ」に生きることができる。本当の福祉とは、「あいだ」の自覚によってのみ支えることができるのだ。」

**(「Ⅱ 文化を探る、味わう」〜「第7章 空気とエコロジー」より)

*「山本七平の『「空気」の研究』は、後の日本人論、日本文化論ブームの先駆的存在として今でもよく読まれ、参照される名著である。しかし、実際に手にとって読んでみると、意外なほどと言っては失礼だがその議論は複雑に入り組んでいて、いわゆる「日本人とは元来こういうものだ」という決定論的な性格は非常に弱い。「空気」「水」「臨在感的把握」など、魅惑的なキーワードが随所に散りばめられており、発表されてから四〇年がたった今でもそれらを用いることで快刀乱麻に日本社会を斬ることができそうな印象を受けるにもかかわらず、ではそこからどんな結論が導き出せるのかと言えばそれは決して明らかではない。」

*「このように複雑極まりない難題について必死に格闘しようとしたのが熱心なプロテスタントだった山本だという事実は非常に興味深い。彼は神なき時代である近代に対しても、一神教の神を持たない社会である日本に対しても、一定の距離を持って対象化する視点を持ちえた。情況倫理ではなく、固定倫理を持つことの重要性を説いたのは信仰者として当然のことだったのだろう。だが、それと同時に、彼は自分が近代という時代の日本という社会に生まれたという事実に対して、ストイックなまでの当時者意識と責任感を抱いていた。「空気」に呑まれず「水」を差し続けながら、生態系の中で共生を図るための、確固たる生き方とは何か。それを支えるための論理と倫理とはいかなるものか。近代日本の宿命は、まだその答えを待っているのだと言える。」

**(「Ⅱ 文化を探る、味わう」〜「第12章 教育とアナロジー」より)

*「我々はしばしば、数値化されたデータこそがこの世界についての「正確な知識」なのだという思い違いを起こしてしまう。こうした思い違いを誘発してしまう思考のあり方のことを「デジタルの知」と呼ぶとすれば、それに対して、現実を写し取る方法としては限界があることを承知の上で、それでも敢えて「もの」を介してこの世界を知ろうとする思考は「アナログの知」ということになるだろう。そして、「アナログの知」は「正確な知識」を得たという誤解を避けつつ、「デジタルの知」にはできないコミュニケーションを可能にしてくれる。」

*「それにしても、何故アナロジーはこれほど我々の生活に密着しているのだろうか。結論から言うと、それはアナロジーが極めて役に立つ思考法だからである。」

*「先生は確かに「正しい」とは限らない。しかし、数値化されたデータ、教科書に載っている出来合の情報もまた、「正しい」とは限らないのだ。それよりも重要なのは、先生が実は自分と類似した「もの」であると子どもたちが気づき、そこから自分も仲間も皆が「もの」になり得ること、それも「探求」と「可謬」のプロであるような「もの」になり得ることを発見できるかどうかなのである。」

**(「Ⅲ 思想にふれる、思想を生きる」〜「第13章 信仰とバイオロジー」より)

*「我々は「ヒトの論理」と「人間の論理」という、分裂した二重の「生きる論理」を生きている。「ヒトの論理」はある意味では唯物論的である。そては物質の組み合わせによって説明されるもので、「そのことはモンシロチョウだってミミズだってオケラだってアメンボだって何の違いもない。それに対して「人間の論理」は明かに観念論的だ。何故生きているのか、どう生きるべきなのか、そもそも生きるとは何なのか。(・・・)とにかく「人間の論理」は「死」を知り、「死」を前に恐怖し、「死」を何とか克服したいもの特有の、頭でっかちな論理なのである。」

「宗教や哲学は、まさにこうした「人間の論理」によって生みだされた知的営為だと考えることができる。我々は「死」の恐怖を何とかするために、絶対、超越、不滅などの存在を信じ、自分たちの「死」が究極の終わりなどではないと考えようとしてきた。」

*「あらゆる生物に備わっている。多種多様にして生成発展を繰り返していく「生きる論理」。人間のまた生物の一種である以上、こうした「生きる論理」を持っているわけだが、人間だけは自らがいつか「死」を迎えるということを知ってしまったため、二重の「生きる論理」を抱えることとなった。」

*「生と死は対立的ではなく、表裏一体の現象だ」という、いかにも気の利いた風な物言いは決して珍しいものではないし、「死中に活を見出す」と言えば何やら深遠な奥義の存在を思わせる。しかし、人間という生物に与えられた「生きる論理」とは、要するに生に執着するでもなく、生き急ふでもなく、ちゃんと死ぬことのように思われる。」

**(「Ⅲ 思想にふれる、思想を生きる」〜「第15章 倫理とトートロジー」より)

*「「何故人を殺すことはいけないのか」や「何故人に親切にしなければならないか」といったような、根本的な倫理上の問いに対して、「いけないことはいけないことだから」「善いことは善いことだから」のようにトートロジーの形をした答えが出されることがある。こうとしか答えようがないと開き直る相手に対して、我々は普通、そのような答えは何の説明にもなっていないと感じるだろうし、意味がないと思うだろう。

 しかし、トートロジーが意味を定義すようとする言語行為なのだという観点に立つならば、少なくとも相手は無意味な発言をしようとしているのではないことがわかる。彼らは善悪の判断の前に、善悪の定義について、こちらと共有したいと望んでいるのである。その反面、差し出された定義には限界があるにもかかわらず、相手はその定義を押しつけようともしている。つまり、トートロジーは意味がない発現ではないが、説明を拒む態度を含み得るのである。

 よく考えてみれば、トートロジーに限らずあらゆる倫理的な答えは、過去から現在、そして可能性としては未来も含め、共同体内で不断に形成される語の意味を、話者が擬似的に奪い取って使用することによって成り立っていると言える。我々は誰も、善や悪について確定的なことは言えない。それにもかかわらず、我々は相手と共に少しでもその意味づけを行おうとしているのだ。」

**(「終 ミソロゴスの論理」より)

*「本書ではこれまで、現代社会における重要な論点を提示した上で、どのような思考の道筋をたどれば新たな見通しが開けてくるのか、あれこれと模索してきた。各回のタイトルはそのような趣旨を端的に示すために、「論点」を表す漢字二文字の熟語と「思考の道筋」を表す“logy”を語尾に持つ英単語を並べた、「〇〇と□□ロジー」という形に揃えた。「経済とアポロジー」「情報とテクノロジー」「信仰とバイオロジー」といったように。」

*「「□□ロジー」を敢えて読み換え、それを織り込んだ言葉遊びをきっかけにして現代社会を論じていくという、このような方針の背後には、実はロゴスというものに対する信頼と不信が同時に存在している。ロゴスとは「言葉」「言論」「論理」「理性」など幅広い意味を包含するギリシャ語であり、列挙した訳語からも容易にわかるように西洋思想史を貫く最重要概念の一つである。」

「硬直化したロゴスは、表面的には合理的で正しいことを述べているように見えるが、我々が生きているこの現実を十分に映し出すことができない。それはロゴスが力不足だという場合もあるが、逆にロゴスが美しい理想ばかりを語って現実から遊離してしまうという場合も含んでいる。どちらにせよ、ありのままの現実を捉えられないロゴスに失望しているからこそ、言葉遊びという「ロゴスの悪用」を通じてその欠陥を補おうとしているのだ。」

*「西洋古典学者の田中美知太郎は、その著書『ロゴスとイデア』の中で、ミサントローポすとミソロゴスという二つの言葉を取り上げ、ミサントローポスを「人間嫌い」と訳すならばミソロゴスは「原ゴン嫌い」と訳すことはできるであろうと述べている。そして、人間嫌いが不用意に人間を信じることから生まれてくるように、ミソロゴスもまた、安直に言葉を信じることによって生まれるというプラトンの説を紹介している。つまり、ロゴスに対する不信は元々、ロゴスに対する盲目的な信頼によって引き起こされるのだというのである。」

*「「ありのままの世界を信じる」とか「この世の全てを受け入れる」といった、一見すると潔いとすら思える「現実主義」とは、田中(美知太郎)に言わせれば理想を見失って動転しているだけの未熟な精神なのであり、ミソロゴスとはそんな未熟な精神が生みだしたニヒリズムに過ぎないということなのだ。こうしてみると、現代社会においてロゴスへの信頼と不信が共存しているように見えるのも何の不思議でもないことがわかる。我々はロゴスを信じているわけでも信じていないわけでもなく、ただ単に理想を喪失してしまっているのである。

 ここで言う理想とは、我々の生きるこの地上では決して達成し得ない超越的なものである。世俗で得られるいかなる成功や幸福とも似ても似つかないものである。だからこそ人は、そんな理想を信じられず、現実をそのまま肯定しようとする。しかし、その先に待っているのは現実による裏切りであり、絶望であり、虚無感なのだ。」

*「現実ではなく、真実を肯定する。これこそが、自分の実感や社会の慣習に隷属しているだけのニヒリストに対する、筋金入りにプラトニスト田中美知太郎の答えなのだが、彼がイデアを認識することを「絶望しないために絶望する」のではなく「絶望なしに絶望する」と表現していることは注目に値する。我々が虚無感を覚えるのは、それが「絶望しないために絶望する」、つまり現実依存からくる逆説的な現実逃避だからである。それに対して、理想こそが真実であると信じることは「絶望なしに絶望する」、つまり現実否定を通じた現実直視であり、理想を基準にして正しく現実を認識することを意味する。理想があるからこそ、現実がよく見えるのだ。」

*奇妙ないい方になるが、我々はミソロゴスにならないように努めるのではなく、きちんとミソロゴスを務め上げることが求められている。慣習的なロゴスの在り方を疑いつつも、ロゴスの潜在的な力を信じる。絶望なしに絶望し、信じることなしに信じる。「○○と□□ロジー」という言葉遊びは、その一つの試みだったと言える。それは、ありのままの現実を捉えるための遊びであり、理想を語ることを取り戻すための遊びでもあったのである。」

**(「あとがき」より)

*「本書のタイトルにもある「ておくれ」という時代認識は、過去に対して複眼的な視点を持っていることを意味している。つまり、深刻な危機を回避できるタイミングはとっくに過ぎ去ってしまったのだと認める一方で、その危機が我々にもたらした思想問題の重要性は決して過ぎ去ってなどいないと気づくからこそ、我々は「ておくれ」を痛感するのだ。このような「ておくれ」の意識を共有してくれたらと願わずにはいられないが、もし本書が遠い未来の誰かに読まれてその人が「ておくれ」を感じたとしたら、それは果たして喜ぶべきなのか悲しむべきことなのか、よくわからない。しかし我々は皆、そこから歩みを進めるしかないのだろう。」

【目次】

序 ておくれの現代社会論
   「現代」を特別視してしまう我々
   ておくれの時代としての現代
   中村雄二郎の危機感
   近代と現代の二重思考
   社会の担い手としての「敗者」
   「敗者」として現代を生きる

 Ⅰ 政治と向き合う、経済を見つめ直す

第1章 民主とメソドロジー
   民主主義への二つの悲観論
   劣勢に立たされる「終焉」論
   民主主義という「方法」の呪縛
   「方法」の呪縛と逆説
   「目的」を見失った我々
   デカルトの形而上学を支える「方法」
   保守主義者デカルト?
   「方法」に翻弄される末裔たち

第2章 成長とサイコロジー
   サイコパスと呼ばれる人々
   いわゆる「良心」が欠けている?
   起業家と政治家に?
   サイコパスと成長主義
   成長主義と親和的なサイコパス
   熱い共感を持てない社会
   成長主義を克服するために

第3章 戦争とトポロジー
   戦後日本は戦争を経験してきたのか
   新しい戦争の正体とは
   戦争の位相同型を捉える
   「やわらかい」幾何学=トポロジー
   「スマート兵器」の担い手は誰か
   サイバー戦争を招く露出狂
   道義的な実践を

第4章 経済とアポロジー
   エリザベス女王の率直な疑問
   経済学は害をなした?
   経済学の豊かな可能性
   限定合理性と不確実性のなかで
   「知らない」という自覚
   ソクラテスの「無知の知」
   ラムズフェルドの「不知の知」

第5章 国家とアンソロポロジー
   「おかしな」人とうしろめたさ
   批判一辺倒から再構築へ
   「線の引き方をずらす」とは
   国家の「家」性を見つめ直す
   「国家」を我が事として引き受ける
   血縁にこだわらない日本の「イエ」
   忘れられ捏造される「イエ」の歴史

第6章 福祉とセオロジー
   「福祉」という言葉のイメージ
   福祉の危機と個人主義
   互助を支える「福祉の哲学」
   神仏儒という「自然」観?
   「神仏儒」の習合 
   「二間性」の自覚=「福祉の哲学」

 Ⅱ 文化を探る、味わう

第7章 空気とエコロジー
   先生は「文化論は好きではない」と言った
   「近代」というイデオロギー
   「空気」を広めた山本七平
   「空気」の支配の過剰化
   山本七平の「空気」と「水」
   「空気の支配」のリアリズム
   情況に流される日本的啓蒙主義
   いまだ答えのない日本の宿命

第8章 権利とアーケオロジー
   不本意なタイムカプセル
   墓の発掘も人類の使命か
   考古学の罪と二つの権利
   遺跡発掘調査の「野蛮」さ
   「未来の権利」と「過去の権利」
   「過去の権利」と欲望の正当化

第9章 情報とテクノロジー
   か弱い赤ちゃんの秘密
   「霊長」と化すデジタル情報技術
   「IT」の意味を問い直す
   ハイデガーの技術論とは
   技術による「挑発」と科学の知
   人間の「情報技術化」?

第10章 知能とオントロジー
   何故人の顔を見分けられるのか
   マイケル・ポランニーの「暗黙知」
   分析知に偏重することの危険
   暗黙知の矮小化とその原因
   人工知能・自然知能・天然知能
   「あなた」に対面する一・五人称的知性

第11章 芸術とエティモロジー
   古さがかえって美を生む
   Kawaiiよりも先に輸出されたWabi-sabi
   「さび」の三つの語源
   三つの「さび」
   「さび」は何故複眼の美学となるのか
   矛盾に満ちた生はそのままで美しい

第12章 教育とアナロジー
   デジタルとアナログ
   連続的な量か、離散的な数値か
   数値が正しいと思わない知
   「アナログの知」とアナロジー
   アブダクションとしてのアナロジー
   「自由」な「探究」を育む
   「もの」を介して「可謬」のプロになる

 Ⅲ 思想にふれる、思想を生きる

第13章 信仰とバイオロジー
   生物それぞれの「生きる論理」
   自己・時間・存在を喪失させる「死」
   二重の「論理」と「信仰」
   「人間の論理」で「ヒトの論理」を乗り越える
   自分が自己矛盾的な存在であること
   「生きる論理」の絶対矛盾

第14章 正義とパソロジー
   早期臨床実習と医療の三本の柱
   病理学=パソロジー
   「パトスの学」としてのパトロギー
   ロールズ正義論の大前提
   平等を重視する「正義の味方」たち
   現代正義論における「パトス」の軽視

第15章 倫理とトートロジー
   よそはよそ、うちはうちです
   無意味なはずが意味を持つ?
   意味を定めていこうとする行為
   XをXで再命名する
   よそはうちではない、うちはよそではない
   倫理的言明が持つ両義性
 
第16章 偽装とコスモロジー
   現代社会の不吉な特徴
   現代は「真実以降」の時代
   偽装の裏でオリジナルを信じる逆説
   コンプラ疲れとファクトチェック
   アンチコスモスとしてのカオス
   偽装と擬装

第17章 暴力とアイディオロジー
   「暴力はいけない」という暴力
   主観的暴力と客観的暴力
   リベラル・コミュニストが担う暴力
   「システム的」暴力を暴力と呼んでいいのか?
   法的暴力を原理的に批判するベンヤミン
   イデオロギー的暴力批判の効用

第18章 災禍とソシオロジー
   歴史の特異点としてのパンデミック
   ソーシャル=社交で見えてくるもの
   「社交」復権の時代へ?
   「礼節」から「礼儀」、そして「文明」へ
   「技術」と「社会」の近代
   「文明の再文化化」と新たな「個人」像
   「社交」の復権か、「社会」への依存か

終 ミソロゴスの論理
   タイトルの秘密
   言葉遊びから現代社会を論じる
   ロゴスへの信頼と不信
   プラトンのミソロゴス論
   理想を見失う未熟な精神
   ミソロゴスを務め上げる

引用・参考文献
あとがき
人名・事項索引

○中島啓勝(なかじま・よしかつ)
1979年 生まれ。
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。
現 在 京都文教大学・龍谷大学非常勤講師。
主 著 「「京都学派」の歴史哲学における下村寅太郎の位置付け」『社会システム研究』(12),2009年。
「絶対無の共同体とその善性──西田幾多郎とベネディクト・アンダーソンの比較を中心に」『社会システム研究』(15),2012年。
「京の視座」(『朝日新聞』京都版,2016年11月~2018年6月連載),ほか。

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