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木石岳「歌詞の響きとは何か—音声詞学入門」(『kotoba No.58』)/木石岳『歌詞のサウンドテクスチャー うたをめぐる音声詞学論考』

☆mediopos3681(2024.12.17.)

『kotoba No.58』(2025年冬号)の特集
「いい歌詞とは何か」から
木石岳へのインタビュー
「歌詞の響きとは何か————音声詞学入門」をとりあげる

「音声詞」の視点から歌詞について考える木石岳の著書
『歌詞のサウンドテクスチャー うたをめぐる音声詞学論考』は
mediopos3407(2024.3.16)でもとりあげている

「音声詞」「音声詞学」は木石岳による用語である

私たちは歌を聴いて
歌詞について語ったりするが
それは歌詞カードに書かれている歌詞の意味とはベつに
音の響きで得た印象を語っていはしないだろうか

歌詞カードに書かれてある歌詞(言語詞)と
実際に歌われている歌詞(音声詞)は同じではない

わたしたちが音楽を聴くときには
実際に歌われている/演奏されている
「音の織物(サウンドテクスチャー)」を聴いている

歌詞カードに書かれてある言葉からすれば
誤読にあたるとしても
そこからそれなりの意味を聴きとり
言葉の意味としては誤読していないときでも
その響きからさまざまな印象を得ているのである

そうした「歌詞のサウンドテクスチャー」は
「言語詞」の「意味」に縛られすぎないほうが
音の響きを豊かに味わえるともいえる

木石岳は自著のなかでも「歌詞カード」を
『1984』に出てくる〝真理省〟になぞらえ
「印刷された文字によって歌を聴いたときの印象を歪め、
リスナーを洗脳する」「恐ろしい改ざん機関かもしれない」
と書いていたが

「音声詞学」において重要なのは聴く側の体験であり
そこでは「聴き間違い」も重要となる

「歌詞カード」に書かれてある歌詞は
聴く体験を「改ざん」しさえするのである

また歌を歌うときについても
たとえば坂本九は「上を向いて歩こう」の
「うえをむいて」を「ウヘホムフイテ」と歌っているが
歌詞の意味内容は変えてはいないにもかかわらず
「歌い方による微妙な変化」があり
木石岳はそれを〈作詞的行為〉と呼んでいたりもする

じっさい私たちが歌を聴くとき
歌詞の聴きとれないことや
「言語詞」を誤読して聴くこともあり
聴いて覚えた歌を誤読したり
〈作詞的行為〉をしたりして歌っていたりもする

「蛍の光」の「明けてぞ今朝は別れゆく」を
「明けて・ぞけさ」と勘違いしたまま
「ぞけさ」とは何だろうと想像したりする
そんな経験はだれしもあるのではないだろうか
そのときも「音声詞」としては成立している

「音声詞学論考」からは
少しばかり逸脱してしまうかもしれないが
たとえばタモリの「空耳アワー」のように
積極的な誤読ならぬ誤聴を遊ぶこともある
いまはYouTubeでも聴けるが聴きはじめるとクセになる

■木石岳「歌詞の響きとは何か————音声詞学入門」
 (『kotoba No.58』いい歌詞とは何か 2025年冬号 集英社)
■木石岳『歌詞のサウンドテクスチャー うたをめぐる音声詞学論考』
 (白水社 2023/7)

**(木石岳「歌詞の響きとは何か」より)

*「歌詞はその言葉とは別に、音の響きで私たちに何らかの印象を与えている。しかし、その「響き」とはいったい何なのか? 音楽家・木石岳氏が提唱する「音声詞学」を手がかりに、歌詞の面白がり方の新たな扉を開く。」

*「歌を聴いて、その歌詞について感想を語る。誰もが何気なくやっている行為であろう。だがそこには落とし穴がある。私たちはほんとうに、聴いたままの感想を述べているのか、実はそれは、歌詞を読んだ感想ではないのか。

 あるいは、またこんな経験がないだろうか。ある曲の、あるフレーズに歌詞の単純な意味内容にはおさまりきらない何かを感じる。けれども「あのサビの前半、なんかいいよね」くらいしか、その感動を表現できない。

 こうしたことに少しでもピンときた方にうってつけの本がある。エレクトロニカ・ユニットmacaroomで作詞・作曲を担当し、ドラマや映画に主題歌を提供、劇伴作曲も行うなど幅広く活動する音楽家・木石岳氏の『歌詞のサウンドテクスチャー うたをめぐる音声詞学論考』)白水社)だ。同書で木石氏は、「音声詞学」を提唱し、汲めども尽きない歌詞の面白味を分析する方法を探求しているのだ。」

・音の編み物に分け入る道具

*「木石/テキストとサウンドを複合的に分析する視点が必要となります。それを僕は音声詞学と名づけてみました。この視点で扱う、響きと言葉の意味の重層性みたいなものを〈サウンドテクスチャー〉と呼んでいます。」

*「————木石さんの著書では音声詞学的に分析するための様々な道具が導入されています。例えば、音象徴に加え、〈音響サブリミナル〉という言葉を使われますが、これは聴き手の無意識に訴えるような効果を指すのですか?

 木石/そうですね。知らず知らずに、くらいの意味です。歌詞の響きの印象が、言葉の意味と衝突して、何か具体性を持ったイメージを引き出すことをそう呼んでいます。

*「————歌詞の「文学的な意味内容が最も強く出る〈完全言語詞〉から、逆に響きの効果が最大になる〈完全音声詞〉まで四つの段階を式で表されていました。ふだん漠然と語ってしまいがちな歌の歌詞や響きが持つ効果を、分析的に語れるようになると思います。本を読まれた方の中から、こういう批評の道具が手に入ってうれしいといった反応はありませんでしたか?

 木石/それがねえ。あんまり聞かないですね。大学の先生方がおっしゃってくれることはよくありますが。作り手からは聞かないです。
 僕が作り手として利用することはめちゃめちゃありますよ。この本で書いた、言語詞と音声詞の対立の中でいかに音声詞っぽさを強調させるかとか、子音と母音、有声音と無声音の対立を作る時に、いったん僕がまとめたのを参照して、意図的に音素を配列していく、みたいなことはやります。自分の楽曲制作の場面で助かっている感じがありますね。」

*「————坂本九の「上を向いて歩こう」(作詞/永六輔 作曲/中村八大 一九六一年)の例が出ていました。歌詞の「うえをむいて」を「ウヘホムフイテ」と歌っていると。

 木石/作詞した永六輔がブチ切れたっていう話ですね(笑)。あれは声帯の振動よりも先に息が出る「母音の有気化」というものです。日本語では有気/無気という区別はないので、歌詞の意味内容を変えていることにはなりません。それでも音響的な効果、聴く側の印象は大きく変わる可能性があります。そういう意味で、僕は歌い方による微妙な変化を〈作詞的行為〉と呼んでいます。そうしたことを含めて記述するには、従来の、五線譜にオフィシャルの歌詞、というだけでは物足りないんですね。
 あと、多くの歌詞批評では「聴きとれなさ」も無視されています。歌詞ってそもそも、そんなに聴きとれないですよね?」

・聴き間違いは面白い

*「————言われてみると、そのとおりです。

 木石/何言っているかわかんないですよ、基本的に。それをあたかもすべて聴きとれたかのように分析するのはおかしいですよね。聴いた時には、言葉としてはこの部分、何言っているのかわかんないけどこういう響きだったと、そういいう批評の仕方もあるべきだと思うんです。

 ————著書では歌詞カードを、ジョージ・オーウェルの『1984』に出てくる〝真理省〟になぞらえて「印刷された文字によって歌を聴いたときの印象を歪め、リスナーを洗脳する」「恐ろしい改ざん機関かもしれない」と書かれていましたね。お話を伺っていて、聴く側の体験を大事にする視点なんだと感じました。あと「聴き間違い」も、聴く側の体験の重要な要素だと思いますが、ご自身の体験は何かありますか?

 木石/例えば、きゃりーぱみゅぱみゅさんの「PONPONPON」(作詞・作曲・編曲/中田ヤスタカ 二〇一一年)です。この本にも載せてますけど、歌詞の「あの交差点で」を「あの子を茶店で」だと思ってました(笑)。僕はめったに歌詞カードを読まないので。
 この聴き間違いは、きゃりーぱみゅぱみゅさん自身がツイッター(現X)で、よく言われるっておっしゃってました。その勘違いを本人は楽しんでらっしゃるようです。聴き間違いはやっぱり面白いですね。

 ————さらには〈コンダラ化〉という現象も出てきます。これはどういう現象なのでしょう。

 木石/コンダラ化は、意味と音の衝突で、音の印象が何やら勝ってしまうような状態を指します。コンダラという言葉はある一定の年齢の人だけが知っている言葉で、僕は年齢的に知らなかったんですけど、『巨人の星』というアニメの主題歌「ゆけゆけ飛雄馬」(作詞/東京ムービー企画部 作曲・編曲/渡辺岳夫 一九六九年)から生まれたものです。
 「思いこんだら」と始まるんですけど、その出だしを「重いコンダラ」と多くの人が認識して、野球の話ですから、グラウンドを整備するあのローラーを「コンダラ」だと勘違いしていた、という話です。
 この主題歌はオープニングでは歌詞の字幕が付いているので間違いようがないのですが、第一二話で星飛雄馬が伴忠太に命じられてひとりでローラーがけをしようとするシーンがあるのですが、そこでも流れるんですね。「おもいーこんだーら」って。その場面のセリフでも、ちゃんと「ローラー」と呼ばれているんですが、そういう歌詞のテキストやアニメのセリフを超えて勘違いが勝ってしまうという現象です。」

*「木石/僕の音声詞学の視点からすると、音象徴などの音響的効果を作り手が狙ってやっているかどうかは結構どうでもいいんです。音声学者の川原繁人さんはラッパーの人が意図的にやっていることを重要視してラップの分析をされていて、その気持ちはわかるんですけど、僕は意図よりも結果の方が大事だと思っています。

 ————聴く側の体験を大事にし、無意識や勘違いをも許容する姿勢は、すごくポジティブですね。要するに、規範に閉じ込めないで逸脱するようなともまったくOKというわけですね。

 木石/そうですね。」

・意外な経歴と弱点

*「————著書を読み、お話を伺って、歌の聴き方がより柔らかく、解放されるような気がします。ありがとうございました。最後に、音声詞学がこれからどのように継承されていってほしいか、お聞かせください。

 木石/音楽家、作る側はもう自由にやっていくのがいちばんいいと思いますけど、論じる側が、聴いた時の印象をなかったことにして、まるで歌詞カードの文字情報がすべてであるかのような態度で論じるのをやめていってくれたらうれしいですね。それってウソですから、無意味なんですよ。

 ————体験を改ざんする〝真理省〟の手先ですね(笑)。

 木石/それと戦っていきたいですね。いま、ラップブームなので韻の分析とかはちょっと流行ってて、それは非常にいいですけど、韻もやっぱり文字情報に還元して分析するんですよね。もうちょっと、聴いた時の印象を重要視して語ってくれるようになったら、音楽の作り手としてはうれしいです。」

**(木石岳『歌詞のサウンドテクスチャー』〜「序章 音の織物」より)

*「歌詞には響きがあって、綺麗な響きや汚い響きがあるということを私たちは当たり前に知っている。しかし同時に私たちは不思議なことに、その事実を無視して音楽について語る癖があるようだ。歌詞について話すとき、その響きの印象は一旦どこかへ追いやって、言葉の意味の分析に集中しようとする。」

・煙、幽霊、魔法————音の織物としての歌詞

*「歌詞にはその言葉の意味とは別に、音の響きが個別に何らかの印象を私たちに与えている。」

「中原中也は言葉の先にある「あれ」のことをいつまでも遠くでなたびいている「煙突の煙」と表現した。歌詞の響きの印象はまさに煙のように、摑みどころがなく、しかし確かに存在はしているのだ。

 専門家によるもっと怪しげな表現を紹介しよう。ベンジャミン・リー・ウォーフという言語学者はそれを(ユングになぞらえて)「幽霊」と表現した。

 さらにもう一人、ローマン・ヤーコブソンという、本書でたびたび採りあげることになる偉大な言語学者をここで紹介したい。彼は詩を巨大な一つの「音の織物(sound texture)」とみなしていて、そのなかに潜んでいる音のイメージの重要性について書いた。

 歌詞が音の織物であるという表現は、私のような音楽家にとっては、非常に納得のいくものだ。私はこれまでたくさんの歌詞をつくってきたが、言葉の意味内容はまるっきり後回しにして、まず最初に、音をどのように紡いでいくかというこにばかり注力してきたからだ。

 音から始まって歌詞を作ることは、作詞に取り組んだことがない読者にとっては意外な創作法に思えるかもしれないが、実際にはそうではない。このような方法は昔から詩の分野でも試されてきた。」

・歌詞の体験

*「私たちは音楽を聴いたときに感じる印象と、歌詞カードに書かれた文字情報を読んだときの印象を、ごちゃごちゃに混ぜこぜにしている。

(・・・)

 歌詞の音楽的な体験と、文学的な体験をごちゃまぜにするのは、おかずとデザートをミックスしたジュースのようなものだ。

 そればかりか、歌詞の体験は、かなり上書き保存されている、多くの場合、歌詞を読んだときの印象が聴いたときの印象へとすり替わっている。

 音楽がまるで文学作品かのように論じられる批判は、私にとって何の意味もない。歌詞は歌われるときに、旋律のリズム構造や音程関係や音素対立、和声やアレンジやミキシングなどによってさまざまに印象を変化させる。

 詩や会話では決して許されないような音の組み合わせ、リズムの組み合わせが歌のなかでは容易に実現され、また同音異義語や不確かな発音による聴き間違いなども相まって、最終的に歌詞は歌詞カード上に印刷された文字情報とはまったくかけ離れたものとして受容される。」

・シング!! ネヴァーマインド・ザ・ワーズ————本書のテーマを貫く「宣言」

*「ボーカルのレッスンではよく「歌詞の意味をもっと考えながら歌いなさい」というようなアドバイスを受けるが、チャップリンの映画『モダン・タイムス』ではそれとは真逆の素晴らしい教訓が登場する。

(・・・)

 ヒロイン役のポーレット・ゴダードが直前にチャップリンに向けて放ったとんでもない無茶な台詞を改めて思い出してみたい、この言葉こそが、映画史上に残るナンセンス・ソングのきっかけとなった。

  歌うのよ、言葉はどうでも良いから!(“Sing!! Never mind words.”)
 この一見まともとは思えないゴダードの要求は、本書のテーマを貫く宣言だと思ってほしい。」

・「歌詞カード」という概念」

*「本書は歌詞に関する本だ。とはいっても、紙に印刷された歌詞のことではない。歌われる歌詞のことで、聴かれる歌詞のことだ。この本では、書かれた歌詞を文章として読解したり、文芸批評のように隠された記号を読み取っていったりすることはない。」

・「音声詞学」という視点————本書の構成

*「第一章で、歌詞の言語的な面と音楽的な面の違いを考えるところからはじめて、発音の問題、次に音素、次に言語リズム、アクセント、母音性など、音声学や音韻論で研究されてきたものを、音楽的な観察と合わせて歌詞へと向けてみた。作詞をする上でアクセントとメロディーは一致している必要はないし、そもそも昔から一致していなかった。作詞本に登場する「一音符=ひらがな一個」や「アクセントと旋律を一致させる」というルールが架空のものであることが、この章を読むとわかると思う。また、なぜ歌詞カードから離れる必要があるかも理解してもらえると思う。」

「第二章(・・・)ではとくに音象徴と呼ばれる、音声の響きはもたらす「イメージ」について注目する。これが煙や幽霊や魔法の正体を知るための最初の鍵となる。」

「第三章からは、どんどん実際の可視を分析する。この章を読めば、歌詞が音の織物であるということが実感できるだろうと思う。子音と母音の対立。スケールと歌詞の関係を見ていきながら、そこから導き出されるイメージのようなものを探る。」

「第四章もさまざまな楽曲を扱っている。この章は言葉の意味よりも音響に特化した歌詞(本書では音声詞と呼んでいる)の分類から始まる。なかでもオノマトペと呼ばれる特殊な言葉を扱う歌や、さらに言語の意味内容がまったくわからないような歌詞を中心に扱っている。最後には歌詞音響は歌詞カードを改ざんするまでに至るコンダライズという現象に触れた。また音と意味が衝突するときに、音素を逆転したまま配置することで期待されるイメージの転移について触れた。」

**(木石岳『歌詞のサウンドテクスチャー』〜「第四章 音声詞とコンダライズ」より)

・歌詞のコンダラ化──そして音声詞学となる

*「私は意味よりも響きのほうが重要などとは思わない。アクセントとメロディーを一致させるべきともさせないべきとも思わないし、本書でいうところの言語詞も音声詞もどちらも好きだ。

 何が良くて何が悪いなどというつもりは毛頭なく、「このような視点(聴点)で歌詞について考えてみよう」という提案をしたかったのだ。なので私は早々にこの不安定な議論に「音声詞学」よいう名前をつけ、なんら芸術論のディベートがしたいわけではないことを宣言し、ひとつの学問分野のふりをして平穏無事に淡々と分析をこなしていくようなそぶりをした。

 私自身は単なる音楽家で、研究者ではない。これまでも、これからも、何かを研究するようなことはないだろうと思う。音声学や音韻論、認知心理学や神経科学、音楽理論など、さまざまな素晴らしい先行研究があって、私はそれをビュッフェ形式で自由に歩きながら皿にのせていった。」

**(木石岳『歌詞のサウンドテクスチャー』〜「あとがき」より)

*「私は昔から、歌詞の印象というものに興味を持っていた。ザ・ビートルズの歌詞がいかに素晴らしいかを論じることはできても、なぜ素晴らしいと「多くの人は感じるのか」という、印象にまつわる単純な疑問さえ、クリアに説明することは難しい様に思えたからだ。

  愛して、愛しておくれ
  ぼくは君を愛しているよ
  いつまでも真実を誓うから
  愛しておくれ

 このうんざりするほど単純でつまらない詩は、ザ・ビートルズの「Love Me Do」を私が訳したもの。このつまらない詩が詠われたときにどんんふうになるかは、おそらくみなさんご存じだろうと思う。私はこの曲がとても素晴らしいということを知っているが、このように文字情報として読んだときに、その印象は完全に失われてしまう。であればこの曲は、歌詞は素晴らしくないけど、歌詞以外のボーカルの声質や発声法やコード進行や演奏法などが素晴らしいのだ、とは思えなかった。私は依然として、「Love Me Do」の歌詞が素晴らしいと感じて、この曲を歌うたびに、その響きの美しさにうっとりとする。しかし、なぜそのように感じるのかはあまり説明できなかった。

 本書のような方法で歌詞について考えるようになるきっかけは、ふたつある。

 ひとつは図書館でなんとなく借りた、兼常清佐の『徳川時代の音楽』という本。この本は要約すると、「江戸時代の音楽は、実際問題どんなだったか」ということを考えるものだ。私はこの本の結論に衝撃を受けたのだが、それは「わからない」というものだった。

 兼常はさまざまに考察を続けた結果、江戸時代の音楽がどんなものだったかわからないと結論づけてこの本は終わる。わたしは吉本新喜劇の伝統芸のように椅子から転げ落ち、一人で「わからへんのかいな」と呟いたように思う。

 しかし私は落胆ではなく。感動していた。この結論が、彼の学者として真摯な態度に思えたからだ。

 正直なところ、私はそれまで音楽について論じられる本が、どれも好き勝手な解釈を好きなだけして、やれ隠された記号を暴き出し、やれ著者の隠された無意識を暴き出し、古今東西さまざまな文献への言及を織り交ぜて披露されるしゃべくり演芸だと思っていたからだ。

 二つ目は、これまた図書館でなんとなく借りた『ワーグナー著作集』の第1巻だった(なぜこんな退屈しそうな本を借りたのかは定かではない)。

 「オペラの作詞と作曲について、各論」のなかでワーグナーはベートーヴェンの第九交響曲の歌、俗に「歓喜の歌」と呼ばれる部分の歌詞を批判していた。この曲はシラーの「歓喜に寄せる賊」という詩をもとにつくられたものなのだが、同じくそれをもとに歌にしたナウマンは詩のアクセントをめちゃくちゃにしていると批判されている。

 面白いのはそこからで、逆にベートーヴェンは「正しいアクセント」で歌にしているにもかかわらず、ナウマンよりも批判されているのだ。そしてワーグナーは「歓喜の歌」に現れる韻を「文学の韻」と呼んだ。つまりそれは文学としてだけで成立する韻であって、歌われるときには消え失せてしまう「視覚上の韻」なのだった。

 私はこの文章を読んだときに、歌詞についてどのように考えるべきかというきっかけを見出したように思う。それは、歌詞は歌われるものであるという、まったくもって当たり前の大前提であった。せっかくなので該当箇所を引用する。

  ナウマンは、見かけ上の韻のために詩のすべてのアクセントを滅茶苦茶にしてしまった。ベートーヴェンは正しい位置にアクセントをつけたが、その結果、ドイツ語の合成語では全版にアクセントがあるため、アクセントの弱い語末を使って音楽的な韻を踏むことはできないということが判明したのである。作家がこのことに気づかなければ、韻は単なる視覚調の韻、文学の韻にとどまり、耳では聞き取れず、それゆえ聴衆の生き生きとした知性にはまったく届かないで終わってしまう。こうした質の悪い韻は、言語テクストを下敷きにしてつくられたあらゆる音楽に有害をもたらし、フレーズを歪め、ずらし、まったく不明瞭にし、ついにはその存在さえわからないようにしてしまう。」

○木石岳(きいし・がく)
音楽家。山口県下関市生まれ。
エレクトロニカ・ユニットmacaroomで作詞作曲および編曲、プログラミングなどを担当。作曲家の川島素晴とともにジョン・ケージ演奏のプロジェクト『cage out』をリリース。音楽家の知久寿焼と共同プロジェクトで『kodomono odoriko』をリリース、NHKドラマ『星とレモンの部屋』の主題歌提供と劇伴制作。スコットランドやイングランドなど海外アーティストとのコラボレーションも多数。NHKドラマ『生理のおじさんとその娘』劇伴など。他の著書に『はじめての〈脱〉音楽 やさしい現代音楽の作曲法』がある。

◎【空耳アワー】空耳総集編1


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