ケイレブ・エヴェレット 『数の発明/私たちは数をつくり、数につくられた』
☆mediopos-2370 2021.5.13
著者のケイレブ・エヴェレットの父親は
あの『ピダハン』の著者D.L.エヴェレットであり
ケイレブはその著書のなかにも登場している
言語人類学者となったのもその影響は大きいのだろう
人間には数覚というものがあるというが
生来もっているのは3までを識別する能力だという
あとはそこから数を学んでいかなければならない
地球上の言語のほとんどには
文法上において数を表す言葉があるというが
ピダハンの言語には数を表す言葉がない
数量を識別する際にも
「3よりも多い量を前にすると
精確に判別するのに苦労をする」という
子どもが数を覚えていくときにも
はじめから3までの量を識別する能力は持っているが
最初は言葉として覚える数と
数量との関係は明らかではない
数の言葉に接しながらその意味を了解するようになる
4以上の数を了解するのはおそらくは
1と2の関係や2と3との関係から
3と4などとの関係を類推していくプロセスを経るようだ
ピダハンには数を表す言葉がないということは
数を表す概念を持っていないということでもあり
その数を表す「概念が入るべき場所を示す目印の役割」を
言語が担い得ていないということだ
おそらく数の修得に必要な主要な感覚は
(シュタイナーの示唆している12感覚でいえば)
言語感覚と思考感覚だといえそうだ
数という言葉があり
その概念を了解していくことで
数を修得していくことができる
数に限らず
そこに言葉があり
それに概念を結びつけることで
私たちは学んでいくことができるようになる
その結びつきこそが
ある意味で私たちを
そして私たちの生きている世界を
意味深く形作っていくことができる
数を学んでいくために
ヒトは長い時間を必要としてきたが
新たなものをヒトが獲得していくためには
言葉とそれに容れる概念をつくり
それを育てていくことが必要だといえそうだ
たとえば「愛」という言葉がある
それを「渇愛」としてとらえることもできるが
イエスはそこに新たな概念の種を植えようとした
ヒトには数の3までにあたるような
愛の生来の感覚が存在しているからこそ
それを育てることを意図したのだろう
そして私たちはいまその渦中にある
「私」という自我のありようもまた同様である
それらの言葉の容れ物に新たな概念を容れながら
わたしたちはじぶんをそして世界を
つくっていこうとしているのだといえる
■ケイレブ・エヴェレット
『数の発明/私たちは数をつくり、数につくられた』
(みすず書房 2021.5)
「人間もほかの動物と変わらず、3を超える量は的確には把握できない----数がなければ。数を知らないとすると、3を超える対象を知覚した場合、その量はだいたいこのくらい、と推測することしかできない。この発見は昨今の実験で実証されつつある。実験は(わたしを含む)大勢の研究者が数をもたない言語民とともに行ってきた。また、幼児など、数を修得する前の子どもを対象とした研究でも裏付けられている。(…)わたしたちには生まれつき量を識別するのに限界があって、それは数という道具によってしか打ち破ることはできないのである。」
「驚くほど多様で環境に適応するように思える一方で、言語が量というものを扱う場合には、ある際だって顕著な傾向が存在する。(…)文法は数に囚われている。どう囚われているかと言うと、一部の小さな数は正確に、それより大きな数はあいまいにと区別することだ。このようにして、このような形で、文法上の数はわれわれの脳の内部の構造を映し出している。脳は小さな量だけを精確に識別するように、あらかじめ装備されているのだ。
だが文法上の数が世界共通であるとはいっても、それが存在しない言語もいくつかはある。」
「ピダハンにとっては、数はまったくの未知の領域だった。(…)数を的確に言い表しうる言葉の存在、ささらに致命的には、数の言葉が表す量の認識すらも未知の世界だったのである。」
「簡単に言ってしまえば、ピダハンの人々は実験場面において、3よりも多い量を前にすると精確に判別するのに苦労をする。」
「数の有用性、さらにはそれが世界各地の言語にほぼもれなく組み込まれている事実に鑑みると、数を持たずに生きる人々がいるのはある意味以外この上ない。だが当然ながら、地球全体の言語を棚卸ししてみれば、言語におけるある種の特性が人類共通であるに違いないというわたしたちの予測など、もろく打ち砕いてしまうような例外は見つかるものだ。文化も言語も、恐ろしく多様なのである。」
「わたしたちは、数を扱う手立てとなる生まれ持った素朴な数感覚を、どのような手順で膨らませ、人間特有の数的思考の殿堂を構築していくのだろうか。(…)まず、幼児は数を勘定するための言葉を獲得する。だがこの段階では、幼児は単に言葉の連なりとして記憶しているだけで、「2」という語と数量の2との関係を厳密に了解しているわけではない。言葉は本質的に、のちに登場する概念が入るべき場所を示す目印の役割を担う。時間をかけ、数の言葉に充分に接していれば、数える言葉にははっきりとした意味があり、それはやすやすと見分けのつくある概念に関連しているのだとわかるようになる。1個の組、2個の組、3個の組を見分ける力は生来持っているから、「1」「2」「3」の表すものが何かを察する基礎はもともとあるわけだ。加えて複数形と単数形というような言語学上の区別を吟味する基礎もある。子どもたちはやがて、1から3のどの言葉にも、それが表す特定の量のあることに気づき、この三つの数量に充分に浸ったなら、適切な量をそれぞれの言葉に当てはめていけるようになる。(…)彼らははじめ1を知る人になり、次に2を知る人に、ついで3を知る人になる。そうするうちに、3に続く数え言葉にも、同じように当てはまる量があるのではないかと推察するようになる。そうか、並んでいる言葉は、隣のよりもひとつだけ多い分量のことなんだ、だから「2」よりひとつ増えたら「3」になるように、「4」は「だ」よりひとつ増えた分量のことなんだ、という気づきを得る。数のさっくり感覚のおかげで、3より多い分量もそれぞれ識別可能であるという基礎的な認識はあるので、おそらくはこの感覚の助けを借りて、ほかの言葉も獲得されていくのだろう。」
「数を修得する道筋は概念に名前を付けるプロセスになり、すでにある「名前に概念を付与」していくものだ。」
「正確な数量を、言葉で、あるいは言葉を用いず身振りなどで表現する行為は、わたしたちの営みの、知覚可能な側面のほとんどすべてに変化をもたらしてきた。あなたの生きる世界で、あなたがここに綴られた言葉を咀嚼している今この時も、頭の中にある思いから外の環境に至るまで、そのようにして表現されたもの----すなわち数によって直接間接に影響を受けていないものなどほとんどない。わたしたちが今このページの上に見ている整った線や文字も、数がなければ存在しない。なんといっても計測を可能にしているのは数であり、書字の先駆となったのも数だ。数の発明によって変えられていないところを数え上げるのは、多分、変えられたところを数え上げるよりは少しばかり楽だろう。現代医学も宗教も工業化も、建築も運動競技さえ、数が発明され、高度化したことに影響を受けている----その影響は往々にしてはっきりと認識されてはいないのだが。
本書でわたしは、数量を象徴的に具象化した数というものが、実のところ発明品であることを明らかにしてきた。数量は自然界に存在する。規則的に生じている(…)。だが数自体は、自然界に規則的に生じた数量を具現化した表象であり、人間の想像力と切り離しては存在しない。しかもわたしたちは、生まれつきの機能に単純に従って数を造り上げたのではない。それを裏付けるのは、近年、乳幼児や数の言葉を持たない人々、そして人間に近い動物を対象とした実験で得られたデータだ。(…)わたしたちは数量のほとんどを正確に弁別できるように生まれついてはいないけれども、おおまかに把握する能力は備わっており、小さな量であれば、きっちりと見分けることができる。ただし、そういう生来の能力があるからといって、たとえ自然界に存在するものであっても、複数の物や出来事の組み合わせのほとんどは、数として精確には弁別できない。特定の数量を表現するための数詞が発明されて初めて、人々は終始一貫して一定の数量を一定のものとして厳密に認識することができるようになった。数の体系が考案されるまでは、自然界にいろいろな数が規則的に出現していることは、ホモ・サピエンスの視界には----それを言うならほかのどんな生きものの視界にも----入ってこなかった。数が発明されたことは認知の領域に巨大な地殻変動を起こし、その余波はまだ続いている。
わたしはもう一点、発明された数の体系はさまざまあるが、そのほとんどは言語と文化のみからいつの間にか生じた副産物ではなく、人間の手の対称性から生まれたものであろうと提起した。人間は手を、いつでも難なく見つめることができるし、移動のために必要とすることもない。注目し、操るうちに、やがて片手の指がもう一方の手の指と対応すること、あるいは指以外の物とも量的に対応することに気づくようになっていった。この素朴な気づきは、ごく単純ではあるけれども、本能的に備わっているものではなかった。これがやがて言語化されて存在感を持ち始める。数が、生まれたのだ。一定の数量というものが、時々思い出したように現れるのではなく、わたしたちの思考のうちに常時居場所を占めるようになる。(…)
ただ、これもまたひとつの事実だが、数の革命が熱を帯びてきたのは、わずかこの2千〜3千年のことだ。この時代に、数は農耕と手を携えて進化した。(…)歴史における数学の重要性はずっと前から認識されてきているが、わたしとしては、数の言葉と話し言葉としての数詞の考案こそが、数学よりも先に、確固たる役割を果たしてきたことを強く述べてきた。この点に関してはごく最近行われている多分野研究も引きながら、そうして開発された数の言葉が認知の道具であったこと、そして現在も道具であり続けていることに触れた。高度な数学が使われるようになるよりずっと以前から、わたしたちの生活を変容させてきた道具だ。」
「数はわたしたちの周りにある数量を見分け、新しい概念の海をかき分けていくのを助けてくれる。(…)概念の世界を進むためのこの道具は、わたしたちが造らなければこの世に存在しなかった。南アフリカの海岸にぽつんと落ちているのを見つけたわけではない。長い歴史の、広い世界のいくつもの時点で、ヒトは数量を何かと対照できることに気づき、一群の新たな言葉を生み出して気づいたことを具体化したのだった。(…)その時対照されたのは、多くの場合、自然界にある数量と、わたしたちの指という数量であっただろう。
とすればことの本質は、わたしたちが混沌とした数量の海に手を入れて、数を捏ね上げたということだろう。わたしたちは比喩的な意味でも、そして実質的な意味でも、わたしたちを取り巻く森羅万象の数量を、この手でがっちりと摑んだのだ。抽象的な数量の対応というものを形にした----実在はするけれども実体ではない不可思議な存在に。わたしたちは、数を作った。数は人間の歴史を変えうる影響力をもっている。だから、数がわたしたちを作ったといっても過言ではない。」
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