ヌッチョ・オルディネ『無用の効用』
☆mediopos-3023 2023.2.26
「無用の効用」を解いている本書について
あえて説明などいらないだろう
「〈役立たず〉が〈役に立つ〉」
ということについての熱きプロテストである
こうしたプロテストは
「荘子」の時代からなされてきてはいるけれど
現代ほどそれが必要な時代はないのかもしれない
現代ほどお金にならない知が
排斥される時代はないからだ
お金でなければ
お金に代わる「承認」への欲求が
野蛮なまでに全世界を覆ってしまおうとしている
こうした状況は日本がとくにそうだというわけではない
「文化、芸術、歴史を大切にしている国」という
イメージの残っているイタリアでさえ
「利潤の論理」が教育・研究のための機関をはじめ
さまざまな学問分野で
目先の収入や具体的な利益をもたらす「稼ぐ力」を
身につけることが主要目的とされてしまうようになっている
一〇〇年近くまえにすでにケインズは
それに「否定しようのない「悪」の性質が
宿っていることを認めている。」という
そして「わたしたちは「少なくともあと百年」のあいだ、
「〈きれはきたない、きたないはきれい
(良いは悪い、悪いは良い〉)の
繰り返しをしなければ」ならない。
「なぜなら〈悪い〉は役に立つのにたいし、
「〈良い〉は役に立たないから」である。」
そうしたプロセスを経てはじめて
「ついに、「良い(善)」ことが「役に立つ」ことよりも
優れていることに気づくだろう。」というのである
ある意味で現代は
「役に立つ」ことだけをすることが
いかに魂をスポイルしてしまうかを
いちばん難しい状況で学んでいるのだともいえる
多くのひとははじめから
荘子のような知恵を身につけることはできないからだ
そしてかつての時代よりも厳しい状況において
「お金」や「承認」について学ばなければならない
どんな状況におかれようと
生き抜く知恵と同時に
「無用の効用」とともに生きることができることを
学ぶ必要があるということだ
「知る」というときにも
その「量(クアンティタース)」ではなく
「質〔クワリタース〕」が重要であることを
真の意味で理解しなければならない
「お金」や「承認」においても同様で
重要なのはまさに「質」であって
その「量」の多寡が問題ではないにもかかわらず
計ることのできる「量」だけを求めようとすることが
こうした現代の深刻なまでの病をつくりだしているのだから
■ヌッチョ・オルディネ(栗原俊秀訳)
『無用の効用』(河出書房新社 2023/2)
(「はじめに」より)
「「無用の効用」、言い方を換えるなら、「〈役立たず〉が〈役に立つ〉」。(・・・)いまの社会は、人文学(世間では「文系」と呼ばれる分野)の知識、もっと広く言えば、利潤を産みださない知識全般を、「役立たず」と捉えている。この本では、「役に立つ(立たない)」という言葉の意味を、まったく別の観点から考えてみたい。この世には、実用的な目的にとらわれない、「知ること」そのものが目的であるような知識がある。そうした知識がどう「役に立つ」のかを明らかにすることが、この本のテーマである。私欲のために用いられるのではない、無償の知。実地での応用など考えない、金もうけとは無縁の知。それは、わたしたちの社会を発展させ、文化を育てていくうえで。なくてはならない役割を果たす「知」でもある。」
「いまや利潤の論理は、教育・研究のための機関(学校、大学、研究所、博物館、図書館、文書館など)や、さまざまな学問分野(文系と理系とを問わず)を、根っこからおびやかしている。学問や学校の価値は、そこで扱われる知識それ自体によって決まるのであって、目先の収入や具体的な利益をもたらす「稼ぐ力」とは関係がないはずなのに。」
「こんな野蛮な時代にあって、「役に立たない知の有用さ」は、現代社会では支配的な「有用さ」と鋭く対立する。経済的な利益の名のもとに、過去の記憶、人文科学、古典語(ギリシア語やラテン語)、教育、自由な研究、想像力、芸術、批判的思考など、人間のあらゆる活動を後押ししてきた文明の息吹が、徐々に根絶やしにされようとしている。」
「詩人をアルバトロス〔アホウドリ〕になぞらえた、シャルル・ボードレールの有名な詩句を思いおこせばじゅうぶんだろう。大空を統べる巨大な支配者も、ひとたび人間のあいだに降り立てば、俗世間の利益しか目に入らない見物人から嘲笑を浴びる羽目になる(「空を飛ぶ旅人の、なんと無様で無力なことか! かくも美しき鳥は、なんと滑稽に、なんと醜悪に見えることか! ある者はパイプでくちばしをつつき、またある者は、不格好な鳥をまねようと足をひきずる」)」
「アリストテレスの思想や、エウクレイデス〔ユークリッド〕やアルキメデスといった偉大な科学者にまつわる逸話が伝えているとおり、利得とは関係なく純粋に「知ること」だけを目指す科学と、もっぱら実用を目的とする応用科学とは別物であるという認識は、古代人のあいだで広く共有されてた。
とはいえ、ふたつの科学(応用科学と「知ること」だけを目的とする科学)はどう違うのかという魅惑的な問いには、わたしたちをはるか遠くまで導く力がある。ここでわたしが強調したのは、「質〔クワリタース〕」ではなく「量(クアンティタース)」を測るための器具では、計量することも測量することもできない価値にこそ、根本的な重要さが備わっているという事実である。いつになれば手にできるのか定かでない見返り、そしてとりわけ、換金可能ではない見返りをもたらし「投資」の本質的な性格を、いまこそ思い出す必要がある。」
「フランスの劇作家ユージェーヌ・イヨネスコは、次のように指摘している。「役に立たないものが役に立ち、役に立つものが役に立たないということがわからない者には、芸術を理解することもできない」。イヨネスコよりもはるかに早く、岡倉覚三(天心)が「役に立たないものの有用さ」について書いているのも、偶然の一致とは思えない。」
「食事や呼吸を必要とするのと同じように、わたしたちは「無駄(役に立たないこと)」を必要としている。」
「「マクロ経済の父」と呼ばれるジョン・メイナード・ケインズでさえ、一九二八年に行われたある講演のなかで、経済的な生活の根拠となる「神々」に、否定しようのない「悪」の性質が宿っていることを認めている。それは「必要悪」の一種であって、わたしたちは「少なくともあと百年」のあいだ、「〈きれはきたない、きたないはきれい(良いは悪い、悪いは良い〉)の繰り返しをしなければ」ならない。「なぜなら〈悪い〉は役に立つのにたいし、「〈良い〉は役に立たないから」である。要するに、人間はもうしばらくのあいだ(一九二八年百年後だから、二〇二八年まで!)、「吝嗇、高利貸し、強欲」を、「経済的な必要性というトンネルを抜け、その先に光を見出す」ために不可欠な悪徳として、容認しなければならないというのである。そうして、広く繁栄が行き渡ってはじめて、孫たち————この講演には。「孫の世界の経済的可能性」という、じつに含意の深いタイトルがついている————はついに、「良い(善)」ことが「役に立つ」ことよりも優れていることに気づくだろう。」
(「第1部 文学は〈役立たず〉だが〈役に立つ〉」〜「23章「役に立たないこと」と生の本質————荘子と岡倉天心」より)
「「役に立たないこと」が「役に立つ」という発想は、紀元前四世紀を生きた荘子の思想のなかで、早くも中心的な位置を占めていた。自然や、人生訓や、絶えざる変転について語られた著作のなかで、この中国の思想家はたびたび、「役に立たないこと」というテーマに向き合っている。たとえば、ある樹木が生きてきた気の遠くなるような歳月を語るなかで(「これはやはり、世間並みの使い道のない木なのだ。だからこそ、切り倒されることもなく、こんなに巨大になったのだ。ああ、神に近しい人間は、これと同じように並みの使い道がないので、あのように偉大であるというわけか」)、荘子はまさしく、「役に立つことが禍を引き起こす」と主張している。また別の箇所では、名家の思想家である恵子との短いやりとりにおいて、「役に立たないこと」の大切さを理解せずに「役に立つこと」を深く知るのは困難であると語られている。
(・・・)
日本の岡倉覚三(天心)は「役に立たないこと」の発見こそが、「獣性」から「人間性」へ移行する跳躍であったと指摘している。」
(「第2部 企業としての大学と、顧客としての学生」〜「2章 学生は「お客さま」」より)
「ベルギーの作家シモン・レイスが、大学界の堕落を憂えた講義のなかで指摘しているところによれば、いまやカナダの一部の大学では、学生は「お客さま」と見なされるようになっているという。世界でもっとも重要な私立大学のひとつでも、まったく同じ状況が進行しつつある。」
「残念ながら、いまの大学は、学位や卒業証書を金で売っているのだと言われても仕方がない状況に陥っている。自社の商品(=講義)を多くの顧客(=学生)に売るために、大学は「職業訓練校」としての性格を強調し、卒業すればすぐに仕事が見つかるとか、高収入が得られるとかいった謳い文句で若者を誘い込む。」
(「第2部 企業としての大学と、顧客としての学生」〜「10章 古典の計画的消滅」より)
「このような背景のもと、哲学や文学の古典は学校でも大学でも、年を経るごとに居場所を失いつつある。学生たちは、西洋文明の基礎を打ち立てた偉大な文章の全体像に触れることなく、高校や大学で何年もの歳月を過ごしている。現代の学生の脳を養っているのは、もっぱら概説、アンソロジー、入門書、手引き、要約など、「教育的」という名のもとに解釈を押しつけてくるテキスト全般である。」
(「第2部 企業としての大学と、顧客としての学生」〜「11章 古典との出会いが人生を変える」より)
「それでも、どのような形であれ、古典を抜きにして教育などというものは考えようがない。」
(「第3部 所有することは殺すこと————人間の尊厳、愛、真理」〜「2章 人間の尊厳————富の幻想と知の身売り」より)
「人間の尊厳はほんとうに、所有している財産をもとに計ることができるのだろうか? それとも、利潤や金もうけとは関係のない価値にもとづいて決まるのか?」
(「第3部 所有することは殺すこと————人間の尊厳、愛、真理」〜「3章 所有するために愛することがが、愛を殺す」より)
「人は誰かを愛するとき、いっさいの見返りを求めることなく。「与えること」に純粋な喜びを見いだすものである。つまり愛とは、たがいに自由に歩み寄るふたつの存在の出会いとして表現できる。」
「だが、所有したいという欲求や、他者を支配したいという思いが解き放たれると、愛は嫉妬に変貌する。この場合、「愛すること」はもはや「与えること」ではなく、あなたに「属す」誰かから「愛されること」になってしまう。」
(「第3部 所有することは殺すこと————人間の尊厳、愛、真理」〜「4章 真理を所有することは、真理を殺すこと」より)
「「愛」というテーマについて考察を進めていけば、ごく自然に「真理」というテーマにたどりつく。」
「レッシングの美しい言葉を紹介して幕引きとしたい。真理を追求することの大切さを、詩人はあらためて強調している。
人間の価値は、その人物が所有している真理、あるいは、所有していると思いこんでいる真理によって決まるのではない。そうではなく、真理に到達するためになされる誠実な努力こそが。人間の価値を決めるのである。人間を道徳的に向上させる力は、所有することではまく。真理を追い求めることで増大するからである。所有は人を怠惰で、傲慢で、不安定にする。もし神が、右手にあらゆる真理を握りしめ、左手には真理への飽くなき欲求だけを握りしめて、こう言ってきたとしよう。「どちらかを選べ!」つねに、永遠に間違い続ける危険を冒そうとも、わたしは左手のほうへうやうやしく腰をかがめ、そして言うだろう。主と、この手の中身を与えたまえ! 絶対的な真理とは、ただあなたのためにだけあるのだから。」
(「訳者あとがき」より)
「本書は一種のアンソロジー、引用句集のような性格をもった作品である。古典的名作から引用した一節に、著者が短いコメントを付す形で議論が進行していく。イタリア・ルネサンス文学の専門家ということもあり、とりあげられている作品はやはり西洋の古典が中心だが、「無用の用」の典拠である『荘子』や岡倉覚三(天心)『茶の本』からも、印象的なくだりが引かれている。
一般に、イタリアというと「文化、芸術、歴史を大切にしている国」というイメージがあるかもしれないが。本書の「はじめに」を読むと、イメージと実態に相当な落差があることがうかがい知れる。文化・教育機関まではグローバル経済の波にのみこまれつつある状況に、イタリアはもう何年の前から苦しみつづけている。著者を本書の執筆へ駆り立てた主たる動機のひとつに、大学(および高校)の教育が「利潤の論理」に脅かされている現状への危機感がある。
◎ヌッチョ・オルディネ(著者)プロフィール
1958年、イタリア生まれ。カラブリア大学文学部教授。専門はイタリア文学、文学理論、ルネサンスのジョルダーノ・ブルーノ研究の世界的権威。『ロバのカバラ:ジョルダーノ・ブルーノにおける文学と哲学』など。
◎栗原 俊秀(くりはら・としひで)(訳者)プロフィール
1983年生まれ。翻訳家。訳書に、ロヴェッリ『すごい物理学講義』、スクラーティ『小説ムッソリーニ:世紀の落とし子』など。須賀敦子翻訳賞、イタリア文化財文化活動省翻訳賞を受賞。
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