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牧野智和「「教養としての」とは何なのか」(群像 )/田坂広志『教養を磨く』/水谷千秋『教養の人類史』

☆mediopos3290  2023.11.20

いまや「教養」は
「役に立つ」「ためになる」ためのスキルや
コミュニケーションづくりの手段となり果てている

牧野智和の随筆
「「教養としての」とは何なのか」(「群像」)によれば
「教養としての○○」というタイトルの本は
二〇二〇年代にはいってからが最も多く出ていて
その多くは「なんでもあり」的であり
四分の三くらいは本文中に「教養」という言葉さえ
まったく出てこないのだそうだ
また「教養」とは何かということにふれるものにしても
多くはビジネス関連のそれである

ほんらい「教養」という言葉には
「人格を耕し、養っていくという原義」があるのだが
それとは無縁のものとなってきている

上記のような傾向へのアンチテーゼとしてだろうが
「役に立つ」「ためになる」ための「教養」ではなく
ほんらいの意味での「教養」を身につける必要性を
啓蒙しようするものも少なからずある

ちょうどここ数ヶ月のうちに刊行されたばかりの
田坂広志『教養を磨く』では
宇宙論までを含む「読書と知識を通じて、
「人間としての生き方」を学び、実践する」ことが説かれ
水谷千秋『教養の人類史』では
実社会で生きていくために必要な「教養」よりも
人生をより心豊かに充実したものにするために
「知の巨人たち」から学ぼうというように
どちらも深い知恵を学び育てることを求めている

しかし「教養」のほんらいはそれとして
mediopos3285(2023.11.15)の
丸山俊一『連載 ハザマの思考3 情報と教養のハザマで』も
少しばかりふれたように
あくまでも個人的にいえばだが
そもそも「教養」という言葉は好きになれないでいる
たとえそれが「原義」に近しいものであったとしても
それらが教えられるようなものであるとすれば
そうしたあり方にはどこか違和感を覚える

田坂広志の説く「教養」は
総合的なビジョンにあふれていて重要だが
たとえばジャック・アタリが
『田坂広志 人類の未来を語る』を
推薦していることからもわかるように
その描く人類の未来ビジョンは
特定の未来へと人類を導こうとするある種の意図に満ちている

ちなみにジャック・アタリは
人類の人口削減を提唱しさえしている論客でもある
それは人類の未来を開こうとするものであるとともに
人類を統一政府のもと
一元的管理のもとに置こうとすることが
その思想的背景としてあるようだ

また水谷千秋の描く「教養」は
「知の巨人」から学ぼうとするものであるように
その「知の巨人」という表現そのものに
ある種の「権威」への依存があるのではないか
いうまでもなくさまざまな知恵から学ぶことは必要だが
「権威」への依存は学校的知性と通じている

人類が生み出してきた「知の全体像」を
俯瞰しようとはしているのだが
重要なのはその知恵そのものであり
「知の巨人」がどうかという発想では逆行してしまう

昨今「人類学」が静かなブームともなっているように
学ぶことは「知の巨人」からだけではない
「権威」という発想から自由になり
何からでもどこからでも学ぶことが必要なのではないか

そうした意味において「教養」という言葉は
一方では「役に立つ」「ためになる」ものへと堕ち
一方では権威的な「知」への盲信へとつながってしまう

その意味でいえば
いまもっとも重要なのは
あえて意図的に「愚者」ともなり
「役に立つ」「ためになる」ものからも
権威的な「知」からもはなれることではないだろうか

両者を否定するのではなく
それらにとらわれずにいること
たとえそれが多く一般の「承認」とは反対に
「愚か」なことだと見なされたとしても

■牧野智和「教養としての」とは何なのか」
 (群像 2023年12月号)
■田坂広志『教養を磨く/宇宙論、歴史観から、話術、人間力まで』
 (光文社新書 2023/7)
■水谷千秋『教養の人類史 ヒトは何を考えてきたか?』
 (文春新書 2023/10)

(牧野智和「教養としての」とは何なのか」より)

「最近書店に行くと「教養としての○○」というようなタイトルの本をしばしば見かける。調べてみると実際にかなりあるようで、二〇〇〇年以降のものだけをみても二五〇点近く(それ以前のものは七〇点ほどしかない)、そういうタイトルの本が出ている。もう少し詳しく見ると、二〇二〇年代に入ってからが最も盛んで毎年三〇点以上刊行されており、刊行点数が最も多かったのは去年(調べた限りでは三九点)であるようだ。今年も、九月末の時点で三〇点を超している。

 この「○○」には一体何が入るのだろう。「教養としての」というくらいだから、と身構えると肩透かしをくらうことになる。歴史、文学、クラシックといった堅いものももちろんあるが、ワイン、ウイスキー、コーヒー、ラーメン、アニメ・マンガ、お笑い、ロック、ラップ、占い、デニム、スーツ、腕時計などなど、実に多種多様なものが「○○」のなかに入れられて、さまざまな本が刊行されている。およそ学べることはすべて「教養」になっているかのようだ。

 このような「教養」の節操のない広がりはどのようにして起こったのだろうか。「教養としての○○」本の年間刊行点数がはじめて一〇点を超えたのは二〇一四年だが、このあたりに特段話題を呼んだベストセラーがあるようにはみえなかった。一見「教養」と無関係なことがらを「教養として」仕立て上げた本の画期は、二〇〇〇年の石原千秋『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)、翌二〇〇一年の大塚英志とササキバラ・ゴウによる『教養としての〈まんが・アニメ〉』(講談社現代新書)あたりになるのではないかと思われる。

 ところで、今日の「なんでもあり」のような広がりのなかで、一体「教養」とは何を意味しているのだろうか。そこで東京都立図書館に出かけて、二〇二〇年以降に刊行された本に絞り、見られる限りのものに目を通してみた。すると、驚くべきことにほとんどの本、目を通した本のうち四分の三くらいは本文中に「教養」という言葉がまったく登場しない。入門書や解説書、教科書や論文集のタイトルとしてただ「教養としての」という言葉が掲げられているだけ、というケースが圧倒的に多いのだ。海外の書籍で、もとはまったく違うタイトルなのに「教養としての」という邦題が与えられるケースもいくつかあった。つまりは、二匹目(三匹目、四匹目かもしれないが)のドジョウを狙おうとする出版業界のトレンドの帰結として「教養」は際限なく拡大している、というのが大きな傾向としてはまずあるようだ。

 ただ、近年の「教養」本のなかで、「教養」とは何かということに触れるものもいくつかあった。まとまった傾向が指摘できそうなのは「お酒」である(・・・)これからの時代、グローバルに活躍しようとするとき、会食などの場面で自国のそうした酒文化について説明することができれば、自らの「教養」を示すことができ、会話もふくらみ、ひいてはビジネスチャンスにつながっていく、だからお酒についてよく学ぼう、というような「教養」の説明である。「ビジネス」に紐づけて「教養」を語ろうとするものは他にもいくつかみられた。(・・・)「教養」は無際限に角田市してはいるものの、今日において「教養」の中身を説明しているのはほぼこのあたりに集中しているので(限られた資料からの話だが)今日における「教養」イメージはこうしたビジネスに関連するところに一つの力点があるのかもしれない。

 色々な人が散々論じてきたことだが、「教養(cultivation)」という言葉には人格を耕し、養っていくという原義があり、竹内洋が『教養主義の没落』(二〇〇三、中公新書)で描いたとおり、人文科学的な素養を通した人格形成が学生にとっての規範文化となったときもあった。だがその「没落」から時が経って、今や「教養」はビジネス上の話題づくりや、「本質」をつかみだすために役立つフレームワークの一種として専ら語られるようになっている。先に触れた石原や大塚らの本では、「教養」に含まれるものとは一見考えられていないことがらに「教養としての」という表現を与えることについて、自らが立っている社会的文脈を踏まえたうえで「あえて」押し出すという手つきがはっきりとみられた。しかし今日の「教養」本ではこうしたこうした手つきがすっぽりと抜け落ち、即物的な有用性に「教養」が直結されているように見える。自分自身を思い返しても、たとえばドストエフスキーやら島崎藤村やらを読んでいるときに、それが「役に立つ」「ためになる」かどうかなんてことはおよそ考えもしなかった。だが時代は巻き戻りようもなく、今や「教養」というのはそのようなものなのだ。だが、これは「教養」という言葉のみに留まることだろうか。とにかくコミュニケーションをつなげよう、目に見えて役に立つスキルを身につけようといった欲望は、「教養」という言葉だけでなく、もっと別の言葉の意味も塗り替えているように思えてならない。」

(田坂広志『教養を磨く/宇宙論、歴史観から、話術、人間力まで』より)

「現代の「教養」の「三つの変化」「三つの深化」とは何か。
 これまでの「教養論」は、しばしば、「歴史学を学べ」「宗教学を学べ」「政治学を学べ」「経済学を学べ」「心理学を学べ」「人間学を学べ」といった形で、幅広いジャンルでの読書を勧め、様々な専門知識を学ぶことを勧めてきた。しかし、真の「教養」とは、本来、多くの本を読み、様々な知識を学ぶことではなく、そうした読書と知識を通じて、「人間としての生き方」を学び、実践することである。だが、残念ながら、現代の「教養論」においては、しばしば、そうした「生き方」という大切な視点が、見失われてしまっている。」

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