今野 真二『うつりゆく日本語をよむ/ことばが壊れる前に』
☆mediopos2635 2022.2.2
ことばは時代とともに変わっていく
しかし「話しことば」と「書きことば」に加え
インターネット環境ととともに
メールやSNSなどによる
「打ちことば」が生まれてきたことによって
日本語がかつてとは異なってきているのではないか
そしてそのことによって
ことばが劣化してきているのではないか
というのが著者の今野真二氏の問いかけである
わたしたちがことばを使うとき
まず「思考」が一次的にあって
二次的にそれを「盛る器としての言語表現」があるわけだが
「思考」と「言語表現」とは
「自律神経と呼吸のように一体化している」
「思考」を深めていくときにも
「言語表現」を豊かにすることが不可欠であり
「言語表現」が劣化してくると
「思考」を深め育てていくこともできなくなる
「言語表現」を豊かにするというとき
重要なのはやはり「書きことば」である
「書きことばの混濁」は「思考の混濁」となる
「文=書きことば」と「言=話しことば」は
異なった言語形態であるにもかかわらず
とくに最近のように
「書きことばの話しことば化」の傾向があると
なおのこと違いがあまり意識されにくくなるが
「話しことば」と異なる「書きことば」の特徴は
「情報」を目的に合わせて
「圧縮」して「構造化」して提示することだという
話す順序にそって展開する「話しことば」に対し
「書きことば」は「ノイズ」を必要に応じ去りながら
伝えるための情報を配置し構造化できる
そして書くときにはそのことを踏まえて書く必要があるし
そうした「書きことば」を読むことで
「書きことば」もまたうまく使えるようになる
それはひいては「思考」を鍛え磨くことにもなる
しかし私たちの現在の日常的な言語生活は
多くの場合「書きことば」ではなく
「話しことば」「話しことば化した書きことば」
そして「打ちことば」が中心となっている
「話しことば」と「打ちことば」が中心となった言語表現は
多くの場合「書物」として膨大に蓄積されたものをもとに
「思考」を深めるには適しているとはいえない
語彙も概念も比較的単純で
複雑に「文章」化された表現がなされることも少ないからだ
現代はだれでもが読み書き(打ち)できるようになっているが
その反面その大多数のひとたちの言語表現の水準が
「ことば」をそれにあったかたちに変化させていくことになる
それでことばが劣化し「壊れ」ていかなければいいのだが
そうならないために「書きことば」の復権が
必要だというのが著者の提言となっている
あらためて本書の示唆から
じぶんの「ことば」のありかたを個人的に振り返ってみると
こうして「書いて」いることばは実際には「打ちことば」である
そしてとくにネット環境においては
「話しことば化」した表現を多く使っている
反面インターネットをふくむ環境によって
それがなかった時代にくらべ
飛躍的に質量ともにデータ化された「ことば」や
それにもとづく「情報」を使いこなす可能性も広がってきている
その意味では「打ちことば」も
「書きことば」が背景にある場合と
それが欠如した場合とを分けて考える必要もありそうだ
ネット環境によりツールを使いこなすか
ツールに使われてしまうかということだ
ともあれ「うつりゆく日本語」ということで
危惧しなければならないのは
「思考」の劣化・混濁であることは間違いない
■今野 真二『うつりゆく日本語をよむ/ことばが壊れる前に』
(岩波新書 岩波書店 2021/12)
「「うつりゆく」はおもに、この五年間、長くても十年間ぐらいを観察してのことだ。この五年間ぐらいの間に日常生活で見聞きする日本語が、どうもかつての日本語とは異なっているように感じることが多くなってきた。」
「「他者に伝えたい情報」を言語にするプロセスを「言語化」と呼ぶことにする。言語には「話しことば」と「書きことば」がある。「言語化された情報」に音声によってかたちを与えるプロセスが「音声化」、文字によってかたちを与えるプロセスが「文字化」だ。「話しことば」「書きことば」は「他者に伝えたい情報」を盛る「器」と考えるとにする。」
「情報の言語化は「話しことば」から始まる。文字によってことばを記したものが「書きことば」だから、文字がなければ「書きことば」は始まらず、成立もしない。」
「「話しことば」と「書きことば」とのもっとも違う点は、自然に習得できるか、できないかといってよいだろう。よく、言語は自然習得できる、というが、そういう場合の「言語」は「話しことば」のことだ。どんな言語にも「話しことば」と「書きことば」とがあるから、日本語使用者もそのことはわかっていると思うが、違いを意識する機会は案外少ないかもしれない。」
「「話しことば」と「書きことば」とは異なる言語形態であるという認識は大事だ。(・・・)現在においては、「文=書きことば」が「言=話しことば」寄りにある。そのために二つの言語形態という感覚が曖昧になりやすい。
一九九五年あたりからインターネット環境が整い始め、それに伴ってまずはメールが使われ始め、さらにはSNSが広く使われるようになり、最近では、いろいろなかたちで、インターネット上での「やりとり」が常態となりつつある年代が増えてきている。」
「本書では電子メールやSNSなどで使われていることばを新しい言語態と認め、「打ちことば」と表現することにする。」
「「話しことば」を整理して「書きことば」にする場合、無駄な「情報」や重複している「情報」を省くだろう。それは「情報」の取捨選択であり、整理である。「話しことば」にはそうした「ノイズ」が含まれている。「ノイズ」といってしまっていいかどうか、そのことについても考えておく必要があるが、今ここでは「ノイズ」ということにしておく。わかりやすく話すのには「話しことば」にありがちな「ノイズ」をなるべくいれないようにして、「書きことば」にちかい「構造」をもたせるということがまずは考えられることになる。
筆者は「書きことば」の特徴は「圧縮」と「構造」だと考えている。両者はふかく結びついている。「情報」を目的に合わせて「圧縮」して「構造化」して提示するのが「書きことば」だと思えばよいだろう。」
「書き手と読み手とが共有している情報については、言語化しなくてもよい。そのことからすると、読み手がある程度わかっている場合と、読み手が「不特定多数」である場合とでは、圧縮のしかたが自然に変わってくる。」
「単線的に展開せざるを得ない「話しことば」に対して、「書きことば」は情報の配置を十分に吟味して、構造をつくることができる。したがって、書き手になった場合には、そういうことをよく考えて「書きことば」をつくる必要があるし、読み手になった場合には、そういうことを前提に「書きことば」を読み解く必要がある。「書きことば」を読むことによって、「書きことば」をうまく使いこなすことができるようになり、「書きことば」をうまく使いこなせれば「よく」読むことができるようになる。」
「言語はそれを使う人の集団によって「共有」されている。「共有」の過程で「類推」は重要だ。母語について文法をことさらに学習しなくても使うことができるようになるのは「類推」をする力が備わっているからだと考えられる。自身が獲得した言語形式をもとにして、獲得していない未知の言語使用を類推していく。あらゆることを学習しなくても、言語を運用していくことができる。
類推は共有されている(と思われる)言語形式をまねる、ということであるから、毎日接しているマスメディアやSNSなどで使われていることばは、いわばまねされやすい。SNSが万を超えるフォロワーを背後にしていることからすれば、それが「共有」されている言語形式であることは確かだ。SNSで使われている「打ちことば」が現在の日本語のありかたにかかわっていることはむしろ当然といってよい。」
「言語を「静的」にとらえるならば、「話しことば」「書きことば」「打ちことば」というアウトプットされたものをとらえるということになる。それは一般的なとらえかたといってよい。一方、三言語態をつなぐ「回路」があると過程し、その「回路」が機能しているかどうか、というとらえかたは、言語の「動的」なとらえかたといえるかもしれない。言語は時間が経つとどんな言語でも必ず変化する。したがって、言語が変化することを嘆いてもしかたがない。本書が「日本語の現在」に疑問を投げかける説き、それはアウトプットされている「話しことば」「書きことば」そのものが変わったということよりも、「回路」が機能していないのではないか、という問いであるといってよい。」
「「書きことば」がゆっくりと繰り返し読むことを前提にしなくなっている、ということにみえる。そういう意味合いでの「書きことばの話しことばへの接近」「書きことばの話しことば化」ということにみえる。」
「まず、「思考」があって、それを「盛る器としての言語(表現)があるとみるのが順序ではある。その順序からすると、「思考」が一次的なもので、「言語(表現)」は二次的なものということになる。しかし、うまく言語化しようと思っていろいろ工夫しているうちに、考えがきれいにまとまってきたという経験はだれにでもあるのではないだろうか。(・・・)そう考えると、言語は「思考を盛る器」ではあるが、「思考」と完全に切り離されているのではなく、「思考」と深くかかわっているとみるのがよさそうだ。
ヒトがどうやって思考しているかといえば、言語を使って思考しているのだ、と考えると、「言語」と「思考」は一体のもにとしてある、とみることができる。」
「「思考」と「言語表現」とは、自律神経と呼吸のように一体化している。「思考」を鍛える、「思考」を磨くというが、「思考」に直接働きかけることはできない。(・・・)では、どうやって鍛え。、磨けばいいのか。アウトプット側、すなわち「言語表現」にはたらきかけるといいのだ(・・・)。(・・・)そうだとすると、「書きことばの混濁」はそのまま「思考の混濁」をあらわしていることになる。」
「問題は「混濁」だけではない。「器」は「型」でもある。潜在化している、あるいは顕在化されていく「多様性」を的確にあらわす語や言語表現をもたなければ、いつまでも「紋切型の表現」を使うことになる。そして「紋切型の表現」は、顕在化されていく実際の「多様性」を結局は表現できない。つまり「実際の多様性」を捕捉できない。「多様性」を理解しようというかけごえばかりが響いているということはないだろうか。」
「「書きことば」に関して、時として「劣化」と表現したくなるような変化が顕著にみえる。そのことに危機感をもつ。(・・・)「書きことば」の「劣化」はいずれ思考の劣化を引き起こすと推測するからだ。(・・・)
「器」がゆがんでくると、それに容れた説きに思考もゆがんできる。思考そのものはほんとうはゆがんでいなかったとしても、ゆがんだ「器」に入れられた思考は、第三者にはゆがんでみえてしまう。そのうちに思考そのものもゆがんでくるかもしれない。」
「「打ちことば」の発生によって、「書きことば」は「話しことば」側にひっぱられているようにみえる。少し前であれば、「ひっぱられることがある」と表現しただろうが、現在では確実にひっぱられているといってよい。特に「書きことば」の特徴であって「構造」という点においてそれが顕著にみえる。」
「「書きことば」が「打ちことば」の影響を受けて変化するということは、「根幹」が変化するということである。言語は変化するものであるから、(・・・)そのこと自体は「言語の宿命」として受け止めなければならない。だから、「打ちことば」によって「書きことば」が変化することも受け止めるつもりではいるが、そう思っていても気になる。安定的な「書きことば」は必要ではないか。」
「日常的な言語生活にある言語は「話しことば」「話しことば化した書きことば」「打ちことば」ということになり、いずれにしても、「話しことば」にちかい言語のみで日々の言語生活が展開していくことになる。それが現時点における筆者の見立てだ。
そうだとすると、標準的な「書きことば」をとりもどす、安定させる、ということが重要になるだろう。日常的な言語生活において標準的な「書きことば」が失われつつあったとしても、書物というかたちでそれは膨大に蓄積されてきている。」
「「古典を読む」というようなことは、標準的な「書きことば」の復権のためには有効な方法の一つといってよいだろう。」