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東浩紀 「嘘つきにも詐欺師にもならずに――『一般意志2・0』について」

☆mediopos-2584  2021.12.13

知るということは
ひとを変える

環境(道具/ツール)も
ひとを変えるが

どのように変えるかは
それを得た者が
じぶんを変える仕方によって異なっている

知ることのまえに
そして環境(道具/ツール)を得ることのまえに
おそらくひとは多く
じぶんのその「後」の変化への
基本条件をすでにもっている

逆にいえば
知ることで
そして環境(道具/ツール)を得ることで
そのひとがどう変わるかをみれば
そのひとの基本条件
つまりは現在の魂の傾向性がおのずとわかる

民主主主義は善きものでも悪しきものでもなく
多くのひとがそれをどのように使うかによって
そのアウトプットが大きく変わるように
また刃物は便利な道具としても使えるが
殺傷することにも使えるように

コミュニケーションのありかたを劇的に変えた
インターネットという情報技術は
その意味で多くのひとが現在
どのような基本条件を持ちえているのか
ということを如実に示している

ある道具を得て
それに夢を託すこともできるが
その夢が実現するかどうかは
その道具をもったひとに依っているということだ

夢はそのひと以上でも以下でもない
ひとは夢への現実的な想像力を超えられない
「大衆」に夢を託すとしても
夢は「大衆」のありようを超えられないのだ

そして「大衆」は(もちろん個々のひともそうだが)
じぶんを変えるかもしれない「啓蒙」を望まない
すすんで変えるのは生活の快適性にかかわる部分だけだ

哲学的な思考などを身につけようとするときには
ある意味でじぶんを変えようとするのだろうが
それもまたそのひとの魂のありようを
どれほど変えることができるかはわからない

ひとを「マス」として変えようとするならば
ある種の宗教運動か
それに近い社会運動にするしかないだろうが
そこにはまた別の陥穽が待ち受けている

そんなひとの「愚かさ」に絶望しながらも
「嘘つきにも詐欺師にもならずに」
夢を語ることをやめないでいるためになにができるか

東浩紀という哲学者には
知を誇った青くささを感じていたこともあり
あまり好感をもってはいなかったところがあるが
この記事をみて少しだけ親近感を持つことができた

「不能性の受容こそが
夢を失わない唯一の道のように感じられる」
とあるように

人を信じることは
人を信じられなくなった後にこそ
ほんらいの意味をもち
夢を見ることは
夢を失った後にこそ
ほんらいの意味をもちえるだろうから

■東 浩紀
 「嘘つきにも詐欺師にもならずに――『一般意志2・0』について」
 (『新潮 2022年1月号』所収)
■東 浩紀『一般意志2・0 ルソー、フロイト、グーグル』
 (講談社文庫 2015/12)

「最近は『一般意志2・0』という本を読み返した。一〇年前の本である。
 (・・・)
 『一般意志2・0』は二五〇ページほどの小さな著作である。タイトルどおり一般意志という概念を扱っている。
 一般意志というのは、教科書にも載っている一八世紀フランスのあの有名な思想家、ジャン=ジャック・ルソーがつくりだした概念である。ルソーは、人間ひとりひとりには特殊意志しかないが、社会全体には一般意志なるものがあって、統治者はそれに従う必要があると述べた。ひらたくいえば、王だからといって好き勝手に振る舞っていいわけではないと主張したわけだ。近代民主主義はそこから始まった。
 ぼくは『一般意志2・0』で、ルソーのこの概念について、現代の情報環境に照らして「アップデート」するべきだと説いた。ルソーの時代、一般意志はあくまでも理念上の存在でしかなかった。けれどもいまや、社会全体の意志はSNSやビッグデータを利用してあるていど可視化可能になっている。だとすれば、その新たな環境を前提に政治や民主主義を再定義すべきではないか。
 この主張そのものはめずらしいものではない。情報技術はコミュニケーションのありかたを劇的に変えた。政治の本質はコミュニケーションだ。したがって新しい情報技術の誕生が新しい政治を求めるのは必然である。じっさい世界中で似たような内容の本が書かれている。
 だから『一般意志2・0』は、ぼくの著作のなかではめずらしく、大きく重要な社会問題をストレートに扱った本で、それゆえ広い読者に読まれることが期待されていた。ぼくも書き始めたときは新しい主著になると意気込んでいた。けれどもいま振り返れば、結果的に、そのストレートさこそが逆にこの一〇年間ぼくを口ごもらせる原因になってように思う。

 情報社会の話というと、本誌読者のなかには、二〇世紀からある古い議論だと関心を失うかたもいるかもしれない。たしかにネットが普及したのは一九九〇年代だし、それ以前からポストモダニストは好んで情報社会について語っている。
 けれども当時の「情報社会」は、二〇二一年のいまとはまったく異なるものだった。コンピュータは椅子に座ってキーボードを叩いて使うものだったし、通信速度は圧倒的に遅かった。音楽や映像も、基本的には物理メディアを購入し、専用機で再生するものだった。
 それががらりと変わったのは、ようやく二〇〇〇年代に入ってのことだ。いま「情報社会」について語るうえで欠かせないのはSNSとスマホだが、それらはじつは一五年ほどまえにバタバタと現れた新しい技術である。たとえばフェイスブックが誕生したのは二〇〇四年、ツイッターが誕生したのは二〇〇六年、初代iPhoneが発売されたのは二〇〇七年だ。
 にもかかわらず、それらは現れるやいなや世界中で爆発的に普及し、人間と人間の関係、そして人間とコンピュータの関係をがらりと変えてしまった。ぼくたちはいま、大半のひとが日常的にコンピュータ(スマホ)を持ち歩き、社会のあらゆる場所がネットワークにつながり、なにを読んでどこに行ってだれと会ったのか、生活の多くの情報が自動的にアップロードされる時代に生きている。SFでも誇張でもなくほんとうにそうなっていて、しかもその変化はわずか一〇年ほどで起きた。「情報技術革命」は一九九〇年代によく使われ、いまでは死語になりかけている言葉だが、未来の歴史家は、ほんとうの革命は二〇〇〇年代後半から二〇一〇年にかけての時期に起きたと記すかもしれない。
 『一般意志2・0』はまさにその革命の只中で書かれた本だった。だから同書の底には、これだけ社会が新しくなったんだから、政治も人間も新しくなるんだろうという素朴な楽観が流れている。」

「けれどもその青臭い「夢」は、刊行後一〇年で二重の意味で打ち砕かれることになった。ひとつには、そもそも件の革命なるものが政治をたいして改善しなかった、どころかむしろ問題ばかりを引き起こしたという現実がある。
 (・・・)人々がつねにスマホを持ち歩きSNSでたえずつながりあう情報環境の出現は、政治のコミュニケーションをたいへん厄介なものにした。その厄介さは学問的には、フェイクニュース、ポストトゥルース、エコーチェンバー、サイバーカスケード、デジタルゲリマンダリングなどさまざまな言葉で分析されているが、そこで言われているのは要は、常時ネットに接続するようになると、ひとは常時見たいものだけを見、聞きたいことだけを聞くようになるということである。(・・・)
 他方でもうひとつ、話をより複雑にしていたのは、そんな挫折にもかかわらず、なぜか論壇では情報技術の「未来」だけはインフレを起こし、どんどん派手に語られるようになっていったという逆説的な情況である。」

「この一〇年、『一般意志2・0』には二種類の好意的な読者がいた。ひとつは、そのとおり、SNSで政治を変えましょうという人々で、もうひとつは、そのとおり、情報技術で世界は変わりますよという人々だった。ともに決して誤解ではない。けれどもぼくは著者として、前者の読みは現実による否定されていると考えていたし、後者の読みは話を大きくしすぎだと感じていた。
 SNSで政治が変わると主張するのは嘘だし、シンギュラリティで世界が変わると主張するのは詐欺だ。ぼくは嘘つきにも詐欺師にもなりたくなかった。しかしそのどちらにもならず夢を語る方法も、またいっこうに見つけることができなかったのである。」

「ひとは若いころはだれでも夢を語ることができる。その状況は幸運であれば三〇代まで続く。ぼくはその点で、とても幸運だった。
 けれどもそれも四〇代までは続かない。ひとはいつか、夢がそうたやすく現実にはならないことを知る。そこで嘘つきになるとは、現実を否認することである。夢が実現していないにもかかわらず、実現したといいはることである。逆に詐欺師になるとは、現実から離れることである。夢はそもそも現実と関係ないのだから、実現したとかしないとか語るのは意味がないと定義を変えることである。
 だから、嘘つきにも詐欺師にもならず夢を語り続けるとは、つまりは現実を直視し続けるということである。夢の実篇が現実によって拒まれていることを認めつつも、不可能な夢を語ることを諦めないことである。SNSは政治を変えないし、シンギュラリティは世界を変えない。哲学の言葉葉だれにも届かないし、人類はいつまでも愚かなままだ。けれど、それでも新たな道具は新たな幸せを生み出すはずだし、新たな言葉葉新たな出会いを生み出すはずだと信じ、希望を失わずに目のまえの小さな現実から変えようと試み続けることである。
 そのようなふるまいは、おそらくはあるタイプの人々には単純に夢を失ったようにみえることだろう。じっさいそのような批判も受けている。
 けれども、もはや五〇歳になり、四〇代ですらなくなったいまのぼくには、むしろそのような不能性の受容こそが夢を失わない唯一の道のように感じられる。
 人間の愚かさは、これから一〇〇年経っても、否、一〇〇〇年経っても本質的になにひとつ変わることがないだろう。ぼくたち人間は、たとえシンギュラリティが到来し、たとえ地球以外の惑星に移住し、たとえ仮想空間で無限の富と寿命を手に入れ、たとえ働かずに永遠に生活できるようになったとしても、それでも人間であるかぎり、やはり同じように見知ったものたちだけで集まり、異質な他者を排除し、嫉妬しあう、憎みあい、傷つけ殺しあい、そしてその事実を都合よく忘れ続けるだろう。その愚かさから逃れるためいは、おそらくはぼくたちは人間であることをやめなければならないだろう。けれどもぼくには、哲学者の端くれとして、あくまでも人間が人間であり続け、人間として「夢」を持ち続ける可能性について考える責務は課されているように思われる。
 人間の絶対的な愚かさを前提にして、『一般意志2・0』の夢を再起動すること。最近はそんなことばかりを考えている。」

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