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セクストス・エンペイリコス『ピュロン主義哲学の概要』/J.アナス・ J.バーンズ『古代懐疑主義入門』

☆mediopos-2589  2021.12.18

ヘレニズム時代の重要な思想潮流では
エピクロス派・ストア派とともに重要なのが
「古代懐疑主義」

その中心的存在は
アレクサンドレイアのピュロンだが
ピュロンはアレクサンダー大王のインド・アジア遠征に参加
その影響から懐疑主義は生まれたと思われる

インドの懐疑主義といえば
釈迦の時代の六師外道のひとりサンジャヤ
釈迦の弟子である舎利弗もはじめその師のもとにいた

釈迦は死後の世界などについて言及を避け
「無記」という態度をとるが
その態度はいわば懐疑主義的な「テトラレンマ」でもある
おそらくサンジャヤから学んだところではないだろうか

「テトラレンマ」とは
《Aと非Aのどちらでもない》という
《A》でも《非A》でもなく《Aかつ非A》でもない
第四の思考であるが
ピュロンはその影響を受けていたようだ

そのピュロンの懐疑哲学を継承し
『ピュロン主義哲学の概要』という著作のある
セクストス・エンペイリコスは
ディオゲネスよりも一世代前
西暦二〇〇年頃の人だと考えられている

そのセクストスの著作はその後忘れられていたが
一五六二年になって『ピュロン主義哲学の概要』が
ラテン語訳され反響を呼び
その後モンテーニュ・デカルト・ヒューム・カントなどにも
大きな影響を与えることになった

しかし同じ懐疑主義といっても
古代の懐疑主義と近世以降の懐疑主義は異なり
近代的な懐疑主義が知識に対する懐疑だったのに対し
ピュロンからはじまる古代の懐疑主義は
考え(信念)そのものにかかわるもので
それゆえに私たちの生き方そのものに深く関わってくる

古代懐疑主義者はあらゆる事柄について
対立・矛盾する諸々の言論への判断を保留することで
ついで無動揺(平静)にいたることをめざしている

しかも探求する際の態度でいえば
真実を発見したとするのでもなく
真実は把握できないとするのでもなく
探求を続けるという態度をとるのが懐疑派であるともいう

無動揺(平静)といえば
仏教的にいえば涅槃ともいえる状態にも似ている
もちろん宗教的な悟りではなく
実際の生き方のなかで求めたわけだが
かつてピュロンがインドからもたらしたもののなかに
そうした要素も含まれていたのかもしれない

ピュロン主義的なものに重ねていえば
生き方のなかにおける正誤・真偽に関する
対立・矛盾という「苦」から自由になるために
その「中」なる態度としての
判断保留を行ったということでもあるのだろう

■セクストス・エンペイリコス(金山弥平・金山万里子訳)
 『ピュロン主義哲学の概要 (西洋古典叢書) 』
 (京都大学学術出版会  1998/2)
■J.アナス・ J.バーンズ(金山弥平訳)
 『古代懐疑主義入門――判断保留の十の方式』
 (岩波文庫 2015/6)

(セクストス・エンペイリコス『ピュロン主義哲学の概要』より)

「懐疑主義とは、いかなる仕方においてであれ、現れるものと思惟されるものとを対置しうる能力であり、これによってわれわれは、対立[矛盾]する諸々の言論の力の拮抗のゆえに、まずは判断保留にいたり、ついで無動揺[平静]にいたるのである」

「懐疑主義に向かう原因となる原理は、われわれの主張では、無動揺[平静]に到達したいという期待である。すなわち、素質の優れた人々は、諸々の物事における変則性のゆえに同様に、それらのうちのいずれをよりいっそう承認すべきなのか、行き詰まってしまい、物事のうちで何が真実であり、何が虚偽であるかを探求するようになったのであるが、これは、真偽の問題に判定を下すことによって、無動揺[平静]に到達することを目指してのことであった。
 また、懐疑主義の構成原理は、あらゆる原論にそれと同等の原論が対立[矛盾]する、ということである。なぜなら、ここから出発してわれわれは、ドグマをもたない状態に立ちいたると思われるからである。」

(セクストス・エンペイリコス『ピュロン主義哲学の概要』〜「解説」より)

「一五六二年、一冊の書物がヨーロッパで出版され、哲学史上、他に類を見ないほどの反響を呼ぶことになった。出版されたのはセクストス・エンペイリコス『ピュロン主義哲学の概要』のラテン語訳であった。以後、モンテーニュ、デカルト、ヒューム、カントなど近世哲学の主要な哲学者たちや、それほど著名ではない他の多くの思想家たちが「きみは何ごとを知りうるか?」という問いを突き付けられ、各自この問いに対する答えを模索するなかで、認識論を中心とする近世哲学の流れが形成されていく。哲学の歴史に及ぼした影響の大きさにおいて、セクストスはプラトン、アリストテレスと比肩しうる古代の哲学者であった。」
「『哲学者列伝』第九巻一一六で、ディオゲネスがセクストスとその弟子のサトルニノスに言及しているという事実は、セクストスがディオゲネスより一世代以上前の日とであったことを示す。(・・・)セクストスの活動時期の中心をほぼ二〇〇年頃に設定することができるように思われる。」

(J.アナス・ J.バーンズ『古代懐疑主義入門』より)

「  人々が何か物事を探求する場合に、結果としてありそうな事態は、探求しているものを発見するか、あるいは発見を否認して把握不可能であることに同意するか、あるいは探求を継続するかのいずれかである。たぶんこのゆえにまた、哲学において探求される事柄についても、真実を発見したと主張した人々もいれば、真実は把握できないと表明した人々もおり、またほかに、さらに探求を続ける人々もいるのであろう。そしてこのうち、真実を発見したと考えるのは、アリストテレス派、エピクロス派、ストア派、そのほかの人々のように、固有の意味でドグマティストと呼ばれている人たちであり、また、把握不可能であると表明したのは、クレイトマコスやカルネアデスの一派、およびその他のアカデメイ派であり、そして探求を続けるのは懐疑派である。

 これは、ギリシアの懐疑哲学者、セクストス・エンペイリコスによる懐疑哲学への入門書『ピュロン主義哲学の概要』の開巻の言葉である。ここで懐疑主義者は、万年学生ないし万年研究者、すなわち「どこまでも探求を続ける」人として描かれている。実際、ギリシア語の形容詞「スケプティコス(skeptikos)」は「探求する」あるいは「考察する」という意味の動詞から派生した語である。ところで、探求者が探求を続けるのは、追い求めている対象をすでに発見してしまったのでもなければ、どうしても発見できないという結論に達したのでもないからである。探求者は、問題となっていることについてまだ何の意見ももっていない。ここから「スケプティコス」あるいは、英語のscepticalという語は、われわれになじみ深い意味をもつようになる。スケプティコスとは疑う人である。彼は信じるのでもなく、信じないのでもない。肯定するのでもなく、否定するのでもない。
 何であれ与えられた問題に懐疑的であるとは、それに関して判断を保留すること、すなわち、肯定と否定のいずれにせよ、どんな断定的な意見にも承認を与えないことである。懐疑哲学は、人間が行なう諸々の探求行為のかなり広範な領域にわたって、たぶんその全領域にまでわたって、疑い、判断を保留するうように勧める。少なくとも一時的には、われわれが決定できず、判断を保留するこよになる問題はたくさんあるからである。この日常的態度を、懐疑哲学者は拡張し、一般化し、体系化する。」

「われわれは世界について何を知りうるか。われわれは、世界についていかにして考えたり、語ったりできるのか。
 これら二つの大問題が、哲学が扱う二つの主要分野を境界づける。認識論は認識の問題を論じる。知識とは何であるか。われわれはどれだけのことを知ることができるのか。何については確実でありうるか。われわれの考え(信念)はいかなる状況のもとで正しいと認められるか。
(…)
 論理学、あるいは言語哲学は、意味の問題をもっぱら取り扱う。われわれが、あるいはわれわれの発する音声が、何ごとかを意味するとは、どういうことか。いかにしてわれわれは、外界の事物を指示することができるのか。どのような推論過程をへて、われわれは一つの言明から次の言明へと正当に進んでいくことができるのか。
(…)
 論理学の時代の前には認識論の時代があって。デカルトやロック、ヒュームやカントといった思想家にとって、哲学の根本問題が関わっていたのは言語や思考ではなく、むしろ人間知性の本性とそれが及ぶ範囲であった。哲学者が最初に行うべき仕事は、われわれが世界に関する知識を得ることができるのはどのような仕方によって、またどの程度までであるかを確定することであった。論理学が収めた勝利は、現代の英米哲学に独特の色合いを与えている。その様式と問題の取り上げ方、方法と論法、いずれをとっても以前の時代の哲学とは著しく異なっている。それとちょうど同じように、認識論の支配は、三世紀にわたるヨーロッパの哲学思想の性格に影響を及ぼしたのであった。
(…)
 認識論が哲学の基本的部分とみなされるようになったとき、そこからどのような経緯で懐疑主義が最も大きな論点となるかということも、容易に理解できる。探求に乗り出しそれをさらに進めていく前に、認識論者たちは、どれだけのことを知ることが期待できるかと訊ねてみる。この疑問に対する懐疑主義者の応答は、妥協を許さぬものである--------ほとんど何も期待できない。知識の門の傍らで、懐疑主義者は見張りに立つ。彼の挑戦に答えずに城のなかに入ることはできない。」

「デカルトと彼に続く哲学者たちが詳述し批判した議論は、ほとんどすべて古代のテクストのうちに見出すことができる。しかしそれだけではない。セクストスの頁を繰ってみると、デカルトが指摘するよりもずっと多くのものがそこにはあり、哲学に関心をもつ読者がセクストスにまで立ち返る労力を惜しまないなら、ごくごく少なく見積もっても、近世以降の議論によって想像される以上に豊富な懐疑的論法を発見できるのである。
 しかし、古代懐疑主義と近世以降の懐疑主義のあいだにはもう一つ、さらに興味深い違いがある。古代ギリシア人は彼らの懐疑主義を本気で受けとめたが、現代人はそうはしない。
 近世以降の懐疑主義は、しばしば、知識に対する挑戦として現れる。懐疑主義者が論ずるところによると、われわれが「知っている」と自認する事柄の多くについて、否、実にすべてについて、彼の議論はわれわれにそうした自認を否応なく放棄させ、本当はほとんど何も知っていないと告白させることになる。この結論は、最初は才気と閃きに満ちているという印象を与えるかもしれないが、繰り返されると平板に見えてくるであろう。なぜなら、この懐疑論の挑戦は、われわれの考え(信念)をすべて手つかずのまま残すからである。すなわち、何か知っていると主張することさえなければ、われわれは、ふだん行なっている通りに、かくかくしかじかであると断言し、考え続けることができるのである。われわれは、自分の考え(信念)が知識にはなりえないことを認めはするが、しかしなお、考え(信念)を抱くことは正当であると主張するであろう。(…)このような懐疑主義は、確かに無益なものに見られて当然であろう。それは、われわれの行動、あるいは生活様式に影響を与えることがない。そしてまさにその分、真剣味を欠くのである。
 古代の懐疑主義者が攻撃したのは知識ではなかった。彼らは考え(信念)を攻撃した。彼らは、懐疑論の圧力のもとわれわれの考え(信念)は根拠のないものであることが判明し、われわれにはこれこれでないと考える理由がないのと同様にこれこれであると考えるりゆもなくなると論じた。結果として-------彼らの考えによれば--------われわれの考え(信念)そのものが消え失せることになるであろう。もちろん、知識と名のつくものすべてを失うことにもなるが、しかしそれは、考え(信念)を全体として失うことのささいな結果にすぎないであろう。古代の懐疑主義者は、やかんのなかの水がこれから沸騰するということを知っていると主張することはない--------それだけでなく、これから沸騰するという考え(信念)を抱くこともない。むしろ彼らは、水は沸騰すると考えることも、沸騰しないと考えることもしない。もしも「水はこれから沸騰するだろうか」と訊ねられれば、彼らは肩をすくめてみせるだろうし、また「水は凍るだろうか」と訊ねられても、彼らは同じ無頓着の身振りを示すだろう。
(…)
 古代懐疑主義者の関心は、哲学的懐疑にはまったくなかった。彼らが説き勧めようと期待した懐疑は、普通の、非哲学的な懐疑であった。この懐疑が排斥したのは考え(信念)であり、したがって、それは実践的な懐疑であった。実際、古代懐疑主義者が自分たちの哲学を推奨するのを常としていたのは、まさしくその懐疑が現実生活に及ぼすいろいろの結果のゆえであった。彼らの主張によると、懐疑主義は、われわれを日常の考え(信念)から解放してくれることにより、生活から気苦労を取り除き、幸福を保証してくれるのである。」

「実践的な問題の場合には、懐疑主義者は、行動しようとする自分自身の性行について判断を保留することになり、また従って、それについて超然とし、無頓着になるのである。(…)
 実際ここに、彼(セクストス)が懐疑主義を積極的に奨励する理由がある。なぜなら彼によると、幸福は、まさにこのような、超然とした無動揺(平静)のうちに存するからである。超然とした内的状態が、懐疑主義の目的であり到達点なのである。」

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