大脇幸志郎 『「健康」から生活をまもる/最新医学と12の迷信』
☆mediopos-2474 2021.8.25
「健康」が信仰となっている
「病院化社会」の教義の中心にあるのが
「健康第一」ということであり
その教義を守るための
「正しい」とされる知識が教えられる
それにともなって
病気の名前も次々とつくられていく
(名前がつけられると実体化されてゆく)
それらの信仰をささえるのが
「エビデンス」である
その「エビデンス」なるものを根拠に
さまざまな医療が与えられることになる
医療が不要だというのではない
医療の基本はある意味で「信仰」ではあるが
(疑って医療を受けると治癒しにくくなる)
「正しい」とされる知識の根拠として
「科学的根拠」と訳されている「エビデンス」の
ほんとうの意味は「証拠」でしかないということを
知っておく必要があるということだ
「エビデンス」はもともと法廷用語で
同じ「証拠」でも
そこから導き出される「物語」は
導き出したい結論によって異なってくる
結論にとって不利な証拠は排される
(どんなに重要な「証拠」でも無視される)
「健康」が信仰となっているのは
「病気」や「死」への不安だろうが
肝心の「生活」が
「健康のために」ということで
スポイルされていることは思いのほか多い
しかも「正しい」とされている情報は
「病気」や「死」という旗印のもとで
その多くがさまざまな「迷信」となって
人を縛ってしまうことになる
医療を否定する必要はないが
「迷信」はいちど疑ってみたほうがいい
コロナ禍という現象も
「公」に流されている情報は
決してバランスのよい「エビデンス」ではない
かなりバイアスの強い「エビデンス」であり
出したい結論以外の物語を語ることは
メディアも含めかなりの程度規制されているから
多くの人は「正しい」とされている結論へと導かれる
「健康」でありたいと望むのはとても大事なことで
それを第一と考える人はそれはそれなのだが
そこで知らずに広がっている「迷信」に
とらわれていないかどうかを検証しておいたほうがいい
「健康」を望む人の極北にあるだろう「死」への不安も
「死」とはいったいなにかを
唯物論的な「迷信」にとらわれないで
さまざまな視点に目を向けてみることも必要だろう
「死」への不安が薄れることで
「健康」への信仰態度もかなり変わってくるはずだ
■大脇幸志郎
『「健康」から生活をまもる/最新医学と12の迷信』
( 生活の医療 2020/6)
「この騒ぎにうんざりしている人はどれくらいいるのだろう。学校が休みのあいだ子供の面倒を見ないといけなくなった人。自営業の店を開けられなくなって生計が危ない人。不安と不満を一手に引き受けて不眠不休で働いている医療従事者。
憂鬱なのは、大騒ぎになっているわりに、新型コロナウイルスは天然痘ウイルスやペスト菌のような「強い」病原体ではないということだ。」
「いったいなぜ、こんなことになってしまったのだろう。」
「最初の違和感を思い出してほしい。ウイルスは大したことがないはずなのに、不釣り合いに騒ぎが大きくなっている。だとすれば、釣り合う程度しか騒がなければいいのではないか。」
「この問題は見た目よりもはるかに複雑だと思う。パニックは特定の誰かのせいではなく、「みんな」のせいで起こる。ひとりひとりは十分に理性的であっても、大勢集まることで思ってもみない現象が起こる。誰のせいでもないから、誰にも解決できない。
小難しく言えば、いまの混乱の原因は現代社会の文化にある、というのが筆者の考えだ。日本に限らず、おそらく世界中の国々で、同じ問題が起こっている。
感染症と文化は一見関係ないことに思えるかもしれない。必要なのは薬、ワクチン、そして検査であって、買い占めとか不安の声は枝葉にすぎないのではないかと。」
「だが、身の回りをふり返ってほしい。私たちは、ウイルスそのものよりもはるかに強く、ウイルスが連れてきた社会の混乱にこそ苦しめられているのではないだろうか。
ウイルスと人体に働きかける医師の仕事はもちろん大切だ。だが、問題はそれだけではない。人体の問題ではなく、社会の問題もまた問題だ。社会の問題は誰が解決してくれるのだろう。政治家だろうか、社会学者だろうか。いずれにせよ、ウイルスの世界的な流行という巨大で複雑な出来事に対して、少数の専門家ができることは限られている。「偉い人ががんばってみんなを幸せにしてほしい」と願うのは自然なことだが、その願いが叶うことはない。では自分の身を自分で守る方法はあるのだろうか。
あると思う。
この本には、一見有為するとは関係ないが、ウイルスに連れられてやってくる真の問題に立ち向かう方法が書いてある。それは一言で言えば「パニックに免疫をつける」ということだ。私たちを襲っているものの正体を知れば、敵から遠ざかる方法がおのずと見えてくるはずだ。あるいは、運悪く出遭ってしまったとしても、被害を最小限に食い止めることができるはずだ。さらにそれは、敵をさらに増やしてほかの人に振り向けることをも防げるはずだ。ちょうど人体に備わった免疫のしくみがウイルスと戦うように、私たちはパニックと戦うことができる。
その方法はまず、敵の正体を知りぬくことだ。
病気を取り巻く現代の文化が、新型コロナウイルスを大騒ぎにした。その元凶はあまりに深く現代社会に染み付いているので、ふだんは「文化」と呼ばれることもなく、当たり前のことと思われている。いや、むしろ客観的事実から必然的に導かれる合理的結論だとさえ思われている。そういうものを、普通の日本語では迷信と呼ぶ。新型コロナウイルスが登場するよりも前に迷信がはびこっていたからこそ、いまの騒ぎがある。」
「迷信を見極めたら、次には迷信にどう向き合えばいいかを考える。」
「世の中には健康になるための情報があふれかえっている。」
「迷信も何も、そもそも何が常識なのかがわからないから、迷信が広まっているのか、ただ自分が常識に追いついていないだけなのか、区別のしようがない。」
「「正しい情報をみわけなければ」(・・・)こういう思考こそが迷信だ。
本物と偽物が目の前にあると思うと、本物を選びたくなる。実は「どっちも要らない」という選択肢もあるかもしれないのに。
「健康より大事なことを、本当は誰でもが持っている。」
「私たちがいつのまにか忘れてしまった当たり前のことを思い出すこと。それがこの本の目標だ。」
(「1 痛風、尿酸、プリン体」より)
「痛風をめぐる迷信は根が深い。ビールから始まって、食べものにも、薬にも話は広がる。」
(「2 タバコ、酒、次の標的」より)
「健康を気にしていると、生活のあらゆる範囲を監視することになってしまう。」
(「3 ゲーム障害、アスペルガー症候群、うつ病」より)
「病気の名前がどんどん作られていくのは、要するに、医学の押し売りにすぎない。」
(「6 がん検診」より)
「がん検診は確かにいくらかの利点があるが、当たり前にみんながやるべきとは言えない。利点というのが、ほかの欠点をすべて埋められるほど大きくないからだ。
がんは誰にでもいつか来る自然現象だから、大筋としては、座して待つしかない。がん検診を含む「予防」はどれも、座して待っているのと大した違いがない。」
(「7 プレシジョン・メディシン (高精度医療)」」より)
「高度な最先端の技術に支えられた新薬の魅力を強調すればするほど、誰にでも当然必要な緩和ケアが後ろ向きで敗北主義に見えるかもしれない。「すべてのがん治療は緩和ケアに含まれる」といった言い方が、奇妙に転倒したものに聞こえるかもしれない。
しかし事実として、医者がどんなに努力しても、人間は老いないようにも死なないようにもならない。病院から引き出せるものは最大限引き出して都合よく利用すればいい。それは必ずしも最先端の新薬でなくてもよく、モルヒネであってもいい。」
(「8 ガイドライン」より)
「ガイドラインは人が作る。人がすることは必然ではない。ガイドラインは、エビデンスを解釈し、エビデンスのないところを想像して補い、気に入らないエビデンスがあれば「それは問題ではない」と言い返す理論を考えた結果としてできる。
エビデンスという言葉はなぜか「科学的根拠」と訳されているが、もともと法廷に提出される「証拠」という意味でも使われてきた歴史がある。法廷は意見を戦わせる場であり、そこでは弁護士が頭を使った物語を考える。どんな弁護士でも証拠=エビデンスは参照するが、同じ証拠から引き出す物語は弁護士によって違うだろうし、訴訟に勝つか負けるかも弁護士によって違う。このたとえで言えば、ガイドラインは弁護士だ。間違わない弁護士はいないし、負けない弁護士もいない。ガイドラインを絶対だと思うのは迷信だ。」
(「9 EBM (科学的根拠に基づく医療)」より)
「エビデンスへの過大な期待がふくれあがったのは(名前のせいもあったかもしれないが)あとの時代の解釈による。
論文をたくさん参照して統計を使いこなし、印象的な数字でプレゼンしたからといって、間違いがないとは限らない。エビデンスを「科学的根拠」と訳するのは間違いで、歴史的には法廷に提出される「証拠」のことをエビデンスと言ってきた。
弁護士と証拠のたとえを思い出してほしい。医師は弁護士のように考える。弁護士はまず物語を考え、次に証拠が物語に沿うかどうかを考える。不利な証拠は自分から持ち出さないだろうし、指摘されてもケチをつけるかもしれない。とり正確に言えば、医師は陪審員のように考える。弁護士の話を信じるかどうか。陪審員は自分の市民感覚と良心に照らして選ぶことができる。患者本人もまた、陪審員のように考えることができる。弁護士が持ってきた証拠が確実かどうかをいつまでも争うことが判決をとくするとは限らない。大切なのは、陪審員の良心だ。」
(「10 WHO (世界保健機関)」より)
「健康の定義を持っているWHOは、良心を教えてはくれなかった。
それどころか、WHOは文字どおり箸の上げ下ろしにいちいち口出しする機関になってしまった。これには歴史的な事情がある。WHOをめぐる政治と思想の歴史は、現代の世界が積み残した大きな課題を教えてくれる。この本が結論に到達するためには、WHOが生みだした20世紀という課題を乗り越えなければならない。」
◎目次
序
1 痛風、尿酸、プリン体
2 タバコ、酒、次の標的
3 ゲーム障害、アスペルガー症候群、うつ病
4 血圧、コレステロール、メタボ
5 認知症
6 がん検診
7 プレシジョン・メディシン (高精度医療)
8 ガイドライン
9 EBM (科学的根拠に基づく医療)
10 WHO (世界保健機関)
11 ナチス、大日本帝国、そのほか
12 誰がファッションフードを笑えるか
あとがき