坂部 恵「『視霊者の夢』の周辺」/『カント「視霊者の夢」』
☆mediopos-2553 2021.11.12
理性は不安を伴う
理性は理性でないものを
不可知の領域へと遠ざけるからだ
その不可知の領域が理性を不安にさせる
たとえそれが敬して遠ざけるものであったとしても
「物自体は不可知だ」とするカントは
その『純粋理性批判』に至るまでの道程において
『視霊者の夢』を出版している
スウェーデンボルグに深い興味をいだき
八巻からなる『天界の秘儀』を読み
スウェーデンボルグの心霊能力や思想
そして霊的な存在一般に対して
アンビヴァレントな態度をとっているのだ
「大著は理性の一滴も含まない。それにもかかわらず、
その中には、同様の対象に関して
理性の最も精密な思弁がなしうる思考との、
驚くべき一致が見られる」
というのである
坂部恵はカントの『視霊者の夢』を
『純粋理性批判』以上にユニークであり
「理性の不安」を自己解剖した意識的な作品であるとしている
『視霊者』は
「形而上学の夢によって解明された視霊者の夢」
という副題をもっているが
それは「宗教的迷妄や神秘的錯乱を批判する立場」と
「神秘的体験の視点から、
科学主義、実証主義の限界を批判する立場」という
相反する二つの夢を二律背反的に付き合わせることで
「人間精神の有限性の自覚と実践にもとづく生の充実へ」
と向かおうとするものではあるが
坂部は『視霊者の夢』のユニークさは
そうした批判哲学的な立場を超えて
「精神のより深い次元にまで至ろうとする
哲学的洞察をもったもの」だというところにあるという
なぜカントはスウェーデンボルグという
神秘思想家に執着せざるをえなかったのか
坂部恵はその問題意識を
「通常の夢と現実の区別をこえて
いわば深く夢見る能力の次元」の発見だとしている
カント研究から哲学をはじめた坂部恵にとって
カントの『視霊者の夢』に関するその視点はやがて
「カロリング朝ルネサンス」を起点にした西洋哲学の書き換えと
「バロック哲学」の復権を唱えることに向かわせることになる
坂部がスウェーデンボルグ=カントに見た
「深く夢見る能力の次元」から展開される構想である
その「バロック哲学」の構想とは
「深く夢見る能力の次元」に共鳴したカントの延長上に
ブレイクやハーマン・イェイツ・ボードレールなどの
ロマン主義、象徴主義の思想家、文学者の系譜へ
さらにはその系譜を包み込むような
包括的思想史的水脈として構想されたのではないか
坂部恵の良き継承者の一人でもある
プラグマティズム研修者の伊藤邦武はそう述べている
ちなみに2005年には
スウェーデンボルグの著作や手稿類は
「ユネスコ世界記憶遺産」にも登録されたそうだ
かつて鈴木大拙もスウェーデンボルグの訳者でもあり
批判的な紹介者でもあったが
鈴木大拙はカントのような不可知論へではなく
大乗仏教のよる霊性の統合を図ろうとした
日本でのスウェーデンボルグの紹介者である高橋和夫は
スウェーデンボルグを他の神秘思想とは
一線を画さなくてはならないとしているが
スウェーデンボルグがさまざまな文脈で
深く広い影響を与えていることを踏まえながら
逆にいえばその霊界探訪的なありようではなく
むしろ認識の拡大としての霊性の獲得へと
向かう必要があるのではないかとも思われる
現代は「理性の不安」どころか「理性」さえ
失われようとしている時代となっているように見える
理性以前の者は理性ゆえの不安さえ持てないだろう
理性以前に戻るのではなく
理性は理性を超えてゆくためにある
そのためにこそ「不可知論」ではなく
夢と現実の区別をこえた
「深く夢見る能力の次元」が求められる
■高橋和夫『スウェーデンボルグのことばと思想/永生への扉をひらく』
(青土社 2021/8)
■坂部 恵「『視霊者の夢』の周辺」
(坂部 恵『坂部恵集〈1〉生成するカント像』岩波書店 2006/11 所収)
■伊藤邦武「『霊視者の夢』の周辺で」
(『別冊水声通信 坂部恵―精神史の水脈を汲む』水声社 2011/6 所収)
■『カント「視霊者の夢」』 (金森誠也訳/講談社学術文庫 2013/3)
(高橋和夫『スウェーデンボルグのことばと思想』より)
「スウェーデンボルグには「神秘」「霊界」「心霊」という言葉がつきまとい、本書で紹介した彼の深遠で高邁な思想はまだ人口に膾炙しているとは言いがたい。特に誤解や曲解にさらされているのが、彼の思想が神智学、R・シュタイナーの人智学、SPRを含む心霊科学、ヤコブ・ベーメやG・フォックスらの神秘主義−−−−これらと密接に関わるという誤解である。(・・・)これらとスウェーデンボルグの思想とは一線を画さなくてはならない、と私は考えている。何の関係もないとは言わないは、両者のあいだには相当な隔たりがあると思う。
スウェーデンボルグにいわゆる超能力ないし霊能力があったことは、事実である。しかし一般に、彼のこうした能力は、解釈者の偏向した意向で誇張されたり矮小化されたり、完全に無視されたりした。ここで大切なことは、スウェーデンボルグ自身がこうした非日常的で得意な能力を可能な限り秘匿したという事実である。彼は万事において人間が本来もっている理性や良識に基づいて語り行動したのである。」
「ヨーロッパ中に知れ渡ったこの出来事に深い関心をいだいた若きカントは、かなり大がかりな調査を始めた。」
「カントは八巻もの分厚い『天界の秘儀』をみずから買い込んで読み、一七六六年にスウェーデンボルグへの批判書『視霊者の夢』の出版に踏み切ったのである。」
「カントは、表面上はともかく、スウェーデンボルグの心霊能力や思想に対してのみならず、霊的な存在一般に対して終始、両面価値的(アンビヴァレント)な態度を見せている。すなわち、カント自身、超自然的なものをどう処理してよいか、まだ確信がもてなかったのである。だからこそカントは、スウェーデンボルグの「大著は理性の一滴も含まない。それにもかかわらず、その中には、同様の対象に関して理性の最も精密な思弁がなしうる思考との、驚くべき一致が見られる」と述べざるをえなかったのである。この批判書において彼はまた、スウェーデンボルグの千里眼に関して、「真実であるという完全な証明が容易に与えられるに違いない種類」の出来事である、と明言している。」
「カントは『視霊者の夢』出版の四年後、ケーニヒスベルク大学の教授になり、そののち一〇年以上の長い沈黙期間を経て『純粋理性批判』を出版し、不動の地位を確立した。この沈黙の期間の講義で彼が再びスウェーデンボルグに言及し、次のように評したことは注目に値しよう。
スウェーデンボルグの思想は崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない叡智界である、と彼は述べている。(K・ペーリツ編『カントの形而上学講義』)」
(伊藤邦武「『視霊者の夢』の周辺で」より)
「坂部の『理性の不安』所収「『視霊者の夢』の周辺」によれば、カントがスウェーデンボルグを論じたこの得意な著作は、「カントが一七五〇年代のいわゆる『独断のまどろみ』の時期を脱して、一七七〇年代以降の批判哲学の形成に向けて、いわば自己のあらたなアイデンティティの編成を求めて模索するクリティカル・モメントのまさにきわまった時点でのカントの内部宇宙の様相をさながらにあかしするものとして、思考のシステムの変換の歴史としてカントの思想形成をあとづけようとするわれわれの立場からして、とりわけ重要な意味をもつものにほかならないと考えられる」という(『坂部恵集』岩波書店、第一巻。二〇〇六年、八二頁)
坂部によれば、この作品はいわば、自我の解体・崩壊を前にしてのカントの自己救済のドキュメントであり、こうした「アイデンティティの編成を求めて模索するクリティカル・モメント」の精神の内部宇宙をあえて公衆の前に露出するような作品は、もちろん批判哲学への方向を導くという役割をもっているとしても、それだけにとどまらず、主著である『純粋理性批判』以上にユニークで先駆的な性格をもっており、現代のわれわれの自我の底に救っている分裂と不安を先取りするものとして、ルソーの『対話、ルソー、ジャン・ジャックを裁く』やディドロの『ラモーの甥』などに匹敵する、「理性の不安」を自己解剖したきわめて意識的な作品であるのである。
『視霊者の夢』は「形而上学の夢によって解明された霊視者の夢」という複雑な副題をもっているが、これはこの作品が二つの異なった夢を軸にして互いの立場を批判するという入り組んだ構造をもっていることを示している。それは形而上学という独断主義(たとえば心脳同一的唯物論などの科学主義)によって宗教的迷妄や神秘的錯乱を批判する立場と、視霊者が採用する一種のオカルト主義や神秘的体験の視点から、科学主義、実証主義の限界を批判する立場を、互いに付き合わせることによって、どこまでいっても決着のつかない哲学上の両義性をテコにして、最終的には、人間精神の有限性の自覚と実践にもとづく生の充実への呼びかけへと進もうという議論である。
カントのこの作品は二つの夢の相反的対立を白日のもとにさらし、それを直視することで実践的理性の優位へとわれわれの目を向け変えるという意味で、批判哲学の立場をはっきりと先取りしている。とくに、相反する立場がアンチノミーに至るという議論は、改めていうまでもなく『純粋理性批判』の理性の二律背反の先駆的表現であり、また、理性の自己撞着から実践への目の向け変えというヴォルテール流の発送も、啓蒙主義者としてのカントの面目をいきいきと伝えている。さらには、ヴォルテール流の「われわれ自身の庭を耕そう」というスローガンのうちに、「未来の希望」を基礎にして発揮される生産的構想力の重視ということを含む議論は、第一批判のなかに潜む構想力の積極的な役割へと注目を先取りしているという意味でも十分に注意が払われるべき、この作品がもつ独特のニュアンスである。
しかしながら、こうした『純粋理性批判』への道程に位置づけられるだけでは、坂部がこの作品に読みとったユニークさの半分しか理解していないことになるだろう。坂部がいう、ある意味では『純粋理性批判』以上に強烈だとされるこの作品の現代性は、この生産的構想力というものが孕む「分裂と不安」の側面をもう少しクローズアップしたものでなければならず、それはあくまで精神の二つの立場に中立的に対峙するという「理性批判」の立場をこえて、精神のより深い次元にまで至ろうとする哲学的洞察をもったものでなければならない。これは別の角度からいうと、両義的な態度に終始する『霊視者の夢』にあっても、カントをしてスウェーデンボルグという得意な神秘思想家へと特に執着させたものが何であったのか、という問題意識はやはり残り続けるということである。坂部はこのことを、スウェーデンボルグがカントに伝える、理論的にはもはや説明のできない、人間が生きるうえでの究極のよりどころとなる信念とか希望の次元、「通常の夢と現実の区別をこえていわば深く夢見る能力の次元」の発見として解釈している(『坂部恵集』第一巻。二〇〇六年、三六一頁)。
坂部は同じカ所で、この次元を、「実証主義とかテクノクラートの時代に対して、そういうものだけでは割り切れない人間の心の深い次元−−−−いわゆる夢と現実の双方をひっくるめてわれわれの生きる場面を根底において生み出すような、いわば深く夢見る能力の次元」と表現しているが、ここでの「実証主義」への批判からも明瞭なように、彼はスウェーデンボルグに共鳴するカントにおいて、明らかに批判哲学における純粋に中立的な姿勢を踏み越えて、「深く夢見る能力の次元」の根本性を指示する立場を見てとっており、そこに自分自身もまた共鳴するものを感得しているのである。
よく知られているように、坂部は『理性の不安』のカント論を含む多くの厳密で明澄な西洋近代哲学史の研究のあと、その哲学史的視野を大幅に拡大して、いわゆる「カロリング朝ルネサンス」を起点にした西洋哲学史の書き換えと、「バロックの哲学」の復権を唱えるようになった。それは、二〇世紀後半における西洋近代思想の自己批判というモーメントに並行して試みられた、哲学史の読み変えという作業の一つとして提起された試論であるが、私自身は彼におけるバロック哲学の注視というこの事態を、坂部がスウェーデンボルグ=カントに見た右のような「深く夢見る能力の次元」を重視する哲学の延長上に構想されたものであろうと考えている。つまり、二律背反を通して理性の自己批判を敢行する『純粋理性批判』のカントよりも、『視霊者の夢』においてスウェーデンボルグの深く夢見る能力への強い共鳴を露わにしたカントの延長上に、スウェーデンボルグ主義の影響を色濃くもったブレイクやハーマン、イェイツ、ボードレールなどのロマン主義、象徴主義の思想家、文学者の系譜を考え、さらにその系譜を包み込むようなより大きな包括的思想史的水脈として、バロックの哲学を構想したのではないか、というのが私の理解である。」
「坂部は『理性の不安』において、カントにとっての「視霊者の夢」と「形而上学者の夢」の相剋とは、いわゆる身心関係をめぐる二元論と一元論の存在論的相剋であることを詳細に解き明かした。その相剋は単に宇宙の時空構造をめぐる形式的アンチノミーである以上に、霊魂という独立存在の可否を賭けた、存在論上の闘いであった。パースの宇宙論とはこの相剋をスウェーデンボルグ主義に立脚して克服しようとした試みに他ならない。」