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『迷ったらやらない』という人生


高校生の時に高校を辞めようと思ったことがある。
学校が嫌だったとかじゃなくて
働いていたアルバイトが楽しすぎて
(校則ではアルバイト禁止)
働いていきたいと思ったのがきっかけ。


当時の時給550円は決して自慢できる収入じゃない。
人の役に立てることが楽しかったことだけは覚えている。

でも、さすがにそれは迷った。

両親にも相談できなかった。
親も何かを察したのか「高校だけは卒業してくれ」
と突然言われてさらに迷っていた。

アルバイトなのに人から頼られること
楽しくて仕方がなかった。

次男だったこともあって家族にも頼られていると
実感することがなかったのかもしれない。

何かと誰かが付き添っていたりして
自立したいという欲求が強くなっていたことは覚えていた。



その時に思ったこと。
親の言葉とはいえ、人の言葉で迷うくらいなら
やらない方が良いんだなってことを悟った。

本当にやりたいことなら人の言葉なんて耳に入らないし
自分で決めたことを自分じゃない人に決める権利なんてない
って高校生ながらに気づいたのが始まりだった。


校則違反であってもアルバイトをする。
16歳で原付免許を取って、原付バイクを購入。
(これも校則違反)
大学に進学せずに18歳で一人で上京して就職。
人生の大きな出会いがあって結婚。
50歳を機会に退職
(退職理由もそれ)
アルゼンチンに移住。→今に至る

十数年毎にやって来たことが全て独断。
親に相談したこともなかったし
全てが事後報告だった今までの人生。

そこには背中を押す仲間もいたけれど
同じ価値観があるというだけで
何かに影響されたということでもなかった。


最近、アルゼンチンに来たきっかけを
話す機会に必ずこう言われる。
「すごい決断ですね。」
その度に、こう言おうって決めている。

「迷うくらいなら来てないと思います。」
人生の転機には迷っている時間なんてないし
結局最後は自分で決めることでしかない。

覚悟もなにも、自分で決めたことなんだから
後悔しようと自分で何とかするしかない。

期待していることばかりじゃないだろうし
心が折れることだってある。

でも、自分で決めたことだし
そこは乗り切ることができると思っている。


人から人生の相談をされることもないけれど
もしそんな機会があるのなら
『迷うくらいなら止めた方が良い』
って言おうと決めている。

なぜなら相談している時点で
不安が勝っているなら
その不安が現実になった時に
受け止め切れるはずがないから。


不安を上回るほどの楽しみや
新しいステージに立つことに
期待がないと踏み出せないから。


アルゼンチンの夜明けの公園


特に海外移住のことは、身内を含めて
本気で聞いてくれる人は少なかった。

会社を辞めると申し出た時や
身内(両親)に相談した時もほとんどが
心配だからという理由で反対する人ばかりだった。
そんな人たちとは連絡もしなくなっている。

でも、少数派だけど賛成してくれる人もいた。
そして自分自身はそうでありたいって心から思った。

普通の感覚なら「無責任に賛成できない」って思うのが
日本人の一般常識なのかもしれない。
でも自分で決めたことなのに、賛成してくれた人に
何か責任を求めることなんてあるはずがない。


チャレンジするってことはリスクが伴うこと。
変化を避けながら人生100年を
「無難」に生きていくのも一つの選択。

自分で選択した道で
人の役に立てるのならそれも正しい選択。

好きなことをするってことが
全てが自由だという話ではなくて何歩か下がることがあっても
自分の足で歩いているという実感がある方が
『生きがい』に繋がるんじゃないかと思っている。


知らない道を歩いてみて、分かれ道で不安が過った時は
何かを予感していると思ってみる。
それでも直感的に思った方向に歩いてみると
何か新しいものに出会えるのかもしれない。


自身が極度の方向音痴だから
目的地と逆方向に進むことだってある。

でも、それは間違いでも遠回りでもなくて
自分が感じて導かれた道なんだと思いつつ
そのまま歩いてみるのも人生なのかもしれない。


もしあの時、高校を辞めていたら
また違った人生だったかもって思う。



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