【日本を離れてから感じる違和感】 「何が悪かったのか」と「誰が悪いのか」との違い
アルゼンチンに移住して一年。
育成サッカーに触れつつ、日常で感じたことを綴っております。
思い通りにいかないのが海外の生活。
「なぜ?」「どうして?」
考える隙もない上に、それを説明する手段もない。
小さなトラブルを日本の感覚で話すと、「なんで?」と聞きたくなるのが海外での生活。
でも、それが当たり前だったりするので説明の手立てがない。
その感覚の違いがあまりにも大きくて、移住の当初は相当混乱する。
トラブルには必ず原因があって、どこが間違いだったのかを探ることは重要なこと。
「ちゃんとしている」のが日本の特徴なのであって、そうじゃないステージにいることを理解すること自体が本当に難儀なのである。
ちゃんとしている国では、何が起こるのか。
集団の中で責任が大きくなるほど、起こったことに対して原因のベクトルが「人の責任」に向いてしまうということ。
サラリーマン時代に何度も経験しているが、起こったトラブルに対して、そこに関わる人の中から戦犯捜しが始まってしまう。
勝負事でも負けには負けの原因があって、どちらかが勝つからどちらかが負ける。結果は結果であって負けの原因は視点を変えれば、すなわち勝ちの要因なのだということ。
負けた側のその瞬間に関わった人のせいで負けたという視点は、勝った側の視線からの「賞賛」には何の関わりもないのである。
一本のタイムリーヒットで考えると
あのタイムリーヒットで勝った事が称えられるはずなのに、あの投球がミスだったという片側だけの視点で原因追及してしまう。
「投手起用のせい」
「あの配球のせい」
そんなことを決めつけて、分析したと思い込んでいる人が日本の集合体ではあまりにも多かった。
負けは負けであって、そこに関わる全ての人が共有すればいいだけのこと。その負けがどんな経験として刻まれるかが重要である考え方が抜け落ちているのだ。
原因の追求は、まず責任ある人が追及するべきことである。
「責任の追求」を「誰のせいか」だけにフォーカスするから、そこには何も生まれなくなるのであって、転んでも何かを得ようという成長につながるべきことの弊害にしかならないのがこの考え方なのである。
「ちゃんとしていない」ということ
「ちゃんとしていない」環境にいるからこそ、思い通りにいかないことに向き合える。でも、そこには日本のちゃんとした環境を当たり前に感じていることの弊害でもある。
海外で時間の見込みが立たないことにはストレスを感じている。ちゃんとした国なら、そこにストレスを抱えて環境を支えるもいるのだということ。
どっちが良いか悪いかということではなく、そこに考える時間があるということが今回の自分への学び。
郵便はがきが数十円で日本からアルゼンチンの手元に届くこと。
ちゃんとしていなくても、成り立つネットワークがあることも事実であり、そこに関わる人がいるということも知っておくべきだと思う。
(ただし荷物は届くわけではないが。)
できることとできないこと
誰でも身の丈で「できること」と「できないこと」がある。
できなかったのに、いつの間にかできるようになることもある。
やってみなければわからないことだってある。
自分や周囲の成長に照らし合わせる機会こそが、原因の追究におけるゴールであるべき。「誰のせいなのか」ではなく、どこまで出来てどこから出来なかったのかを学ぶこと。
「転んでもタダでは起きない」そんな強さを身に着けるためにも、そんな習慣をつけていくことも必要な気がしている。
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