『ルックバック』が修正された
藤本タツキ作品『ルックバック』が修正された。
私はあの作品から犯人が統合失調症であると感じ取れなかった。
京アニ事件の容疑者も、精神鑑定の結果、刑事責任能力があるとされている。
つまり誰もあの描写を『統合失調症患者の妄言(幻聴)』によるものだと断定はしていないのに、当の統合失調症患者によって「私達はこのような言動をします」と、明言されてしまったわけだ。なんとも皮肉は話である。
それを取り下げることによって、集英社側も「そのように受け取られることに同意します」と明言してしまったわけで、果たして"偏見や差別の助長"とは一体何であるかを考えてしまう。
こちらの記事で書かせていただいたが、『ルックバック』は「自分の物語」だと感じていた。
それは、藤野や京本に感じていた共感もそうだが、「自らの作品が認められないことによる自己無価値感」を強烈に感じ続けた結果、気が狂ってしまった通り魔自身も「自分自身」であるのだ。
原因のシーンが修正を受けたことで更に強く感じた。
この作品は、全ての登場人物が自分であると感じた。
「オタクだと思ってキモがられちゃうよ」と助言してくる友人も、「内申点上がるから」と空手を勧めてくる姉も、全て自分自身に内包している声として認識していた。
だからこそ『ルックバック』は、漫画家としての藤本タツキと、アーティストとしての道を歩む藤本タツキと、世間に認められることのなかった藤本タツキと、様々な世界線の藤本タツキが交錯する話だとの解釈が一番好きだった。
「殺せるなら誰でも良かった」という、生殺与奪の意味すら奪ってしまったことによって、京本が死ななければならなかった理由が、一気にチープなものになってしまったと感じている。
「抗議に対して主張を折り曲げる姿勢」というのは、「消費者と提供者」という立場であれば適切であるかもしれない。
そういった意味では、『ルックバック』は"表現"ではなく、"商業"なのだ。
"商業"として成り立つ事が第一であるなら、この修正は正しいと思う。
しかし、"表現"であることが最も重要視するべき事柄なのであれば、曲げるべきではなかった。
「他者の解釈によって、表現は規制されて然るべき」という前例を作ってしまったからだ。
私は『ルックバック』を"表現"として捉えていた。
無償提供されたことも、投下された時期も、強いメッセージ性を感じる作品であることも、そう感じた一因だった。
だからあいちトリエンナーレ『表現の不自由展』が閉じられた時に感じた以来の「人間の傲慢さ」を感じた出来事だった。
人間には、「自分の表現だけは正しく人を傷付けない」という傲慢さがある。
その傲慢さが、見えない他者を傷付ける。
人は、傷付け合うものだ。
この記事も、きっと誰かを傷付ける。
そして誰かの輝きによって傷付く人間もいる。
誰かの脚光の影で、泣いている人間は必ず存在する。
だからこういった表現に向き合った時、表現そのものに原因を見出すのではなく、己自身の心の在り方を問うことが肝心であると私は考える。
それこそが"表現"であり、"藝術"と呼ばれるものだ。
もう一度言おう。
京本を殺した犯人は、他者の脚光に嫉妬する自分自身の狂気だ。
努力ができない、自分自身への罵倒だ。
幻聴が聴こえるのは統合失調症患者だけではない。
私にはずっと聴こえるが、みんなには聴こえないのか。
お前の作品など誰も望まない
お前の表現など見向きもされない
お前の人生に価値などない
ヘタクソ
怠惰
無能
どれだけ描いても、どれだけ注目を浴びても、この幻聴が消えることはない。
これは自身の内側から溢れる感情だから。
でもその幻聴が聞こえるからこそ、歯を食いしばって上昇を目指すのだ。
何故なら、表現している瞬間のエクスタシーが、他の何物にも代えがたいから。
全ての人にそれを分かってほしいとは言わない。
しかし、分かってもらえないことは悲しい。
その悲しみを「存在しないもの」として扱う時、第二の青葉真司がこの世に誕生してしまうように、私は感じている。
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