自己肯定感が高ければオタクにはならない
自己肯定感が高いオタクはいない。
もちろん例外はあるので、言いきってしまえるものではないのだが、オタクと自己肯定感の関係性については、かなり前から気になっているものだった。
そもそもオタクとは何か。
依存症だ。
自己の内側で満たせないものを補完するように対象に夢中になる現象が、何なのかずっと考えてきたが、これは依存に他ならない。
健康被害を危惧した某県が条例で規制しようとしたが、正しく医療的基準を示した規制でなければ、反発されるのは当然だろう。だって依存症なんだから。
まず、依存には段階がある。
他者に不利益を被ったり、自己の財産や健康に被害を及ぼすレベルになると、どんな種類の依存でも要治療となるのは理解できるだろうか?
ストーカーとなったり、自己破産するまで課金してしまったり、自分では制御できない状態は、他者からのコントロールを受けないと、社会秩序が保てなくなってしまう。
それゆえの規制は必要だ。
だがそれ以前の段階の依存は、趣味と呼ばれる。
日常生活に潤いを与え、活力をもたらす。
じゃあ趣味は依存なのか?
という話だが、ここでの依存の定義は、繰り返し脳の快楽報酬を得たくなる状態を指す。
我々の脳みそは、快楽にとても弱い。
それは生存するための仕様だから。
食欲・睡眠欲・性欲
これに加えて安全欲求
そして承認欲求
これらを得たいと思えなければ、生命が簡単に脅かされる。
これらを得たいと思えない状態をうつ病
過剰に得たいと思う状態を依存症と定義する。
つまり害のない範囲の依存は、生存戦略というわけ。
ところが自己肯定感が低いと、これらの欲求を正しく満たせない状態が起こりやすくなる。
生存や種の存続のためではなく、代替え品で満たそうとするムーブが起きやすくなる。
例えば、自分を大切にし、思いやりに思いやりで返してくれるようなパートナーとの時間を重ねたいと思って行動することを、堅実的な依存と呼ぶなら、お金を払えば依存心が満たせるようなホストとの関係は非堅実的な依存と呼べる。
非堅実的依存が良い悪いかではなく、生物としての生存に関わっているかいないかの分類の話。
つまり、ホストも二次元彼氏も、ソシャゲのデータも、生物としての欲求を利用された、サービスだという話だ。
サービスをサービスだと思って対価を払って提供を受けている内はいいが、それそのものを自分の根源価値のように、「なくてはならないもの」までいってしまうと、やはり第三者による認知の矯正が必要となるだろう。
だが、本人が幸せならそれはそれで良いのだ。
資本が過剰になると、そういった余剰の行動が起こりやすくなる。
過度に食を求めたり、美を求めたり、性を求めたり。
または褒められたい、認められたい、活躍したいという欲求が止められなくなる。
日本にオタクが多いのは、とても平和で、過度な競争を行わなくとも安全に生きられて、そしてとても自己肯定感が低い民族性ゆえなのだろう。
主題に話を戻すと、逆説的に「自己肯定感が高ければオタクにはなりにくい」という状態になる。
どういうことかと言うと、正しく現実的にパートナーを得る努力や、自己の財産を増やす行動に専念しようとするから。
そこにブレーキがかかる状態は、やはり「自分には無理」という自己肯定感の低さに由来する。
それはほとんどが経験則から来るもので、「もう失敗したくない」というチャレンジ精神が失われた状態だ。
挑戦を行えない人に成長は訪れない。
だから「簡単に居心地が良くなる状態」というのは、存在悪なわけではないが、人類が次のステージに到達するためには邪魔なものになってくるわけだ。
元々、一つのこと極めるという性質はとても素晴らしいものだ。
ただ、それが依存に向いてしまうと、自己や他者にとって建設的な未来には向かない。
目的と目標を持って、自己や他者にとってその能力を活かす土壌作りが、これからの日本にはもっと必要なのではないかと思う。
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