フロンティア・スピリット(the other side of “doll” - 2024/10/4 ukka コンセプトワンマンライブ)
(※以下の文中、敬称略で失礼します)
アンコール最後の曲『Glow-up-Days』が終わると、ukkaのメンバーたちは手に持ったマイクを口から離し、生声で「ありがとうございました」と感謝の声を振り絞った。
中学生メンバーもいる彼女たちには「20時までにステージを降りなければならない」という制約があり、少し慌ただしい様子だったが、それでも笑顔で手を振りながらステージを後にした。
観客がその姿を見送ったあと、ステージに残ったのはいつも通り芹澤もあ。
彼女の「ばいびろーん」という挨拶に、観客全員が声を合わせると、ukkaのワンマンライブは温かい余韻を残して幕を閉じた。
時計を見ると、時刻は19時55分だった。
「楽しかったなあ」とライブの余韻に浸りながら、特別な言葉も浮かばず、いつもの仲間と週末の盛り場へと歩き出した。
川崎駅周辺はどこもすでに賑やかで、1軒目を終えて上機嫌なサラリーマンたちや、通りで呼び込みをする若者たちの声が溢れていた。
そんな仲見世通商店街の喧騒を抜け、目に入った居酒屋へ入る。
「2階、4名様です~」という店員の案内に従って階段を上がると、すでに乾杯を済ませた別の仲間2人がテーブルで待っていた。
彼らの顔を見ると自然と笑顔がこぼれ、その場でひとり早口で今日の感想をまくしたててしまう。
向こうから「早く席について一杯目注文しろよ」と急かす視線を感じ、「すまんすまん」と謝りつつ、席に向かう。
ビールを流し込みながら、ライブの話題が飛び交う。
ふと手元のスマホに目をやると、X(旧Twitter)で流れてきた投稿が目に飛び込んできた。
「おー! RAYのみこち(紬実詩)も今日来てたのか!」
そしてまた新たな話題が尽きない夜が続く。
※Disclaimer的な前書き
この日のライブについては、明らかに長くなりすぎた感想文(?)を少し前に書かせていただきました。
このあとは、ライブ後あちこちに飛んでいった妄想や、それに関連したごくごく私的な体験の話のみに終止しますので、ワンマンライブの内容については、ほとんど触れない…かと存じます。
何卒ご容赦のほどをよろしくお願いします。
それでもきっと 生きること、それこそが愛
大晦日の渋谷で出会った『フロンティア』
2024年12月31日、大晦日。
渋谷のライブハウスWombで、tipToe.の出番を待っていた。
前日の12月30日に行われたukka川瀬あやめ卒業ライブの思い出が頭をよぎり、その日一日の喧騒がまだどこかぼんやりとした傷のように残っていた。
WOMBのフロアに降りると、RAYの音楽が鳴り響いていた。
彼女らの音楽を聞くのは初めてではない。何度かフェスや対バンなどでライブを見る機会もあった。
"シューゲイザー"をという「ジャンル」のアイドルという、知識がまずあって、そういう音楽がこれだと思いながら毎回どこか遠くのものとして、ぼんやりと見ていた。
感情が動かされる、身体が動かされるというより前に、どこか飛び込んでくる音をどう受け止めたらいいだろう、そう思いながら聞いていた気がする。
そんな音楽に包まれながら、「大晦日の夕方に、こんな音の洪水の中でぼんやりと過ごしていていいのか」と自問した瞬間、目前の光景に驚いた。
ある曲の2番に差し掛かったとき、それまで静かだった観客が一斉に両手を空に掲げ、会場全体が熱狂に包まれたのだ。
その曲が『フロンティア』だった。
それまでの轟音がいつの間にか歓声にかき消されていく様子に、心を奪われた。
音楽に込められた祈りと共鳴
年が明けてからも、その光景を思い出しながら、『フロンティア』を繰り返し聴いていた。いつしか、spotifyとYouTubeでの合計再生回数は100回を超えていた。
ある日、オタク友達から「去年の夏から言ってたじゃないですか、RAYの『フロンティア』いい曲だって」と軽くからかわれたが、それだけではない感覚があった。曲に内在する「熱さ」が他のものとは異なるようにと感じていた。
ある日、「もしかして、この曲は、ukkaの『キラキラ』と同じ構造なのかもしれない」と気づいた。
どちらの曲も、後半になるにつれて、音楽が持つ”生命力”が一気にステージから押し寄せてくる感覚があるのだ。
フェスや対バンで『フロンティア』が披露されるとき、ほぼ毎回、内山結愛が曲のイントロで感謝の言葉を込め、「◯◯でありますように」と祈りの言葉を発する。
その言葉は、たとえば、幸せでありますように、笑顔で明日も過ごせますように、というものもあれば、川井わかちゃんの今後の人生が光に照らされたものになりますように、という共演者へのメッセージのときもある。
いつもその瞬間、祈りの言葉が観客の心に届かんとしようとするのを実感するのだ。
その感覚は、ukkaの『キラキラ』を聴くときにも通じるものがあった。
茜空の見せ場のソロパート、息を吸い込んで声をあげようとする瞬間に見せる表情を見ていると、いつも、フロアからステージへと祈りの感情が一つの塊になってぶつかるような感覚に包まれるのだ。
そして、その瞬間こそがまさに、目の前の“doll”が命を吹き込まれ、魂を得ていく瞬間なのだ。
そんなことを思っていた別のある日。
ある時、RAYのファンからこの曲を提供した管梓が、発表当時にTwitterで語っていた言葉を教えてもらった。
このツイートを知ったとき、2023年大晦日の夜に『フロンティア』と出会ったのは、偶然ではなく、何かしらの必然だったのかもしれない。
そんなふうに感じた。
ステージに立ち続けること。
内山結愛はまる8年、茜空はまる9年、多くの仲間たちが去ったあとも、そこに祈りをこめ続けている。
ゴドーさんは来られないってよ
変わるものと変わらないもの
ごくごく個人的な話に移る。
この夏、10数年ぶりに観た、鴻上尚史作・演出の舞台『朝日のような夕日をつれて』。
(※オリジナル作品は第三舞台が上演<初演は1981年>。2012年の劇団解散後、制作陣・役者のカンパニーを変えながら何度か再演されている)
劇中で描かれる「ここではないどこか」へ行きたいとする渇望と、実際に口をあけてまっている入口となるツールは、どんどん時代とともに変化している。ルービックキューブからVR、そして生成AI。
でも、役者たちが流す汗と、それに反射する照明の美しさは変わらない。
変わるものと変わらないものが共存する世界観が、観客にとっても役者にとっても特別な時間を作り上げている。
『朝日のような夕日をつれて』は、サミュエル・ベケットの不条理演劇『ゴドーを待ちながら』を下敷きにしている。
「もし実際にゴドーが2人現れたら」という発想から始まり、ウラジミールとエストラゴンが、決して現れないゴドーを待ち続ける姿を描く。
彼らは、その待つ行為そのもによってが、どうにか存在意義を維持しているようにも感じられる。
待ち続けることの意味
「待ち続けること」ときにこの姿勢は、アイドルファンの姿と重なって見える。
半年ごとに、倍々で観客動員数が増えていくようなアイドルやアーティストが次々にあらわれる、そんな時代は、コロナ禍を経て過ぎ去ったように感じる。自分の夢を、dollたちに乗せて、もっと大きな夢を見るというのは、すごく難しい時代になった。
それでも、デビューから何年経っても、同じようなステージの熱量に対して声援を送り続けるファンたち。
その背後には、彼らの未来を信じる気持ちだけでなく、応援する過程そのものが生きがいとなり、意味を持つという姿勢があるように思うのだ。
それは、ウラジミールとエストラゴンが待つことで自らの存在を支えるように、アイドルファンもまた、応援する行為そのものが自分たちの存在意義を形作っているのだ。
ライブで見せるアイドルの笑顔や、新曲が発表されたときの高揚感。それら一つひとつの出来事が、ファンたちの「待ち続ける」行為に意味をあたえてくれる。たとえ「ゴドー=ブレイク」というわかりやすい状況が訪れなくても、その過程で得られる小さな喜びが大切なのだと感じる。
待ち続ける瞬間
『朝日のような夕日をつれて』で象徴的なのは、ゴドー1とゴドー2の登場シーン。そう、「実際にゴドーがやってきたら」「しかもふたり来たら」どうなるか?という発想からこの芝居は展開する。
それぞれが爆音のBGMにのせて、ステージ上でこれ以上ないほどに身体をのばし躍動する姿が印象的だ。
あるとき、RAYのovertureを聞きながら、ふと思った。
メンバーが登場することが観客側でわかっている瞬間に流れる音楽は、なんて素晴らしいのだろうと。
その幸福感は、何度も見てこのあと誰が登場するかを知っている演劇と同じ構造なのだろうか、と思ったりもした。
祈りと生命力
唐突に10月4日のukkaのワンマンライブに思いは戻る。
『キラキラ』が流れる中、茜空のロングトーン直前に、祈りをこめている自分を発見した瞬間があった。
たとえるなら、細田守の『サマーウォーズ』で、主人公が「おねがいします」とエンターキーを叩くときのように。
この日、ukkaの、そして茜空の生命力を一番感じたのは、やはりこの曲だった。
そして壁を壊すのはあなたたちであってほしい
RAYとukka、まるで接点のなさそうな2つのグループ。
2024年のここまでの9ヶ月間、私にとって特別な存在だった。
彼女たちの活動を通じて感じる「解放」は、その方向性こそ違え、観客とアーティストの垣根を越えて、まるでひとつの場を共有しているような感覚を生み出してくれる。
RAYが歌う『フロンティア』、ukkaが奏でる『キラキラ』、それぞれの楽曲に込められた思いが、時を超えて私の心に響く。
ステージ上で表現されるパフォーマンスは、観客を鼓舞し、壁を壊してくれるものだ。
それは、役者たちの演じる姿が、観る側に新たな視点や感情をもたらしてくれるように。
そして、それを受け取る側の私たちが、その感動を自らの生き方や思い出に刻み込むことで、音楽はさらに深く、特別な意味を持つようになるのだ。
だからこそ、次に進むのは私たちだと感じている。
彼女たちの音楽やパフォーマンスから得た勇気や希望を胸に、私たち自身が新たな道を切り開いていく。
その道がどれほど険しくても、そこに「ゴドー」が現れなくても、待ち続ける過程とその瞬間を愛し続けることで、未来は少しずつ変わっていくのかもしれない。
そんな思いを抱えながら、次のライブで彼女たちが見せてくれる新たな物語を、期待とともに待ち続けるのだ。
できることならば、私たちも、彼女たちとともに、この物語の続きを作っていきたいと思う。いや、ちがう、自分が期待しているのは、たぶん物語を壊すことなのだ。
その先に何があるのかはわからない。
でも、そこには確かに、共に歩んできた時間と、変わらぬ気持ちがあるのだと信じている。
「朝日のような夕日をつれて」の最終盤、観客と真正面に向き合って立つ役者5人は、客席に向かってはっきりと宣言する。