良かったことを書きづらい訳
何か嬉しいことがあった時や、楽しい時間を過ごした時、人の目に触れる場所に書き残したくなることって私にもよくある。
例えば、日本の友人知人がプレゼントや手紙を送ってくれたり、ずっと会いたかった人に会えたり、おいしいものを食べたり、4歳児がかわいいことを言ってくれたり、相方がごくごくたまーに料理してくれた時なんかに。
だけど、私はできるだけそういうことを書かないようにしてきた節がある。「これを読んで気を悪くしたり、落ち込んでしまう人がいるかも」とすぐ考えてしまうからだ。自分だけの日記に書けばいいことを人の目に触れる形で書き残す人間の(自分の)心理って何だろう、という疑問も持ち続けている。
私は人に恵まれているんです。
私は良い家族と友人に囲まれているんです。
私はこんな人と親しいんです。
私は経済的に豊かなんです。
私は仕事がとても充実しているんです。
私には好きな趣味があるんです。
私はこんなところに行ったんです。
エトセトラ…
日々目に入ってくるそういうアピールを見て「いいね、素敵ね」と思える時もあるけれど、コンディションが絶不調な時はあまり良い印象を持てないこともあって。だからきっと、私みたいな人もいるんじゃないかと思い、良かったことについては自分の胸にしまっておくことが増えていった。
でも、そうすると、たくさんあったはずの良いことを忘れているような気分になることがある。日記帳に書くこともあるけれど、それだけでは足りないというか。
やっぱり誰かと共有し、「良かったね」と言われたり、思ったりしてもらいたいのだろうか。その方が忘れにくく、幸せな気持ちが倍増するのだろうか。
こんなことを書きたくなったのは、身体が辛かった数週間を経た今、嬉しいなと感じることが大なり小なりたくさんあって、今のこの気持ちをかみしめたい、ちゃんと覚えていたいと思ったからかもしれない。
今日は土曜日なのに4歳児がいつもより早く起きてしまい、午前中にやたらと時間があったので、今まで後回しにしてきた生落花生に手を伸ばし、家族全員で皮をむき、フライパンでじっくり煎ってみた。
手間はかかるけれど、数年ぶりに自分で煎ったピーナッツはすごくおいしかった。これは本日の忘れたくない良き思い出。