9話までの要点整理と解釈の言語化
「チ。-地球の運動について-」、1巻発売おめでとう!!!
12月11日に1巻が発売されたばかりの「チ。-地球の運動について-」が、今絶賛に次ぐ絶賛らしい。7話にして巻中カラー2回目(5話、7話)なのは本当に人気なんだと思う。10話でまた巻頭カラーだし。嬉しい。
私は本誌で7話を読んで“この回を言語化しないと後々詰む”と感じた。それぐらい7話の論理展開は凄かった。8話を読んだら普通に黙ってられなくなったし、のんびりしてるうちに9話が公開されたので9話までの感想を書こうと思う。(のんびりしすぎてこのnote書き上げるまでに10話公開されたし1巻も出た)
今回のnoteはネタバレしかない上に未読の人に全く考慮してないので、本誌を読んでない人には何も伝わらないと思う。本誌を読もう!毎週月曜日発売の週刊ビッグコミックスピリッツで連載しているよ!
内容
1. C教信仰の論理
2. 異端者の定義
3. 『自己肯定』から見る「世界のため」と「自分のため」
4. オクジーにとっての希望
5. グラスにとっての希望
6. 肯定という救済
7. “オクジーと異端者”、“ラファウとフベルト”の共通点
8. ラファウが残した物
とりあえず本編に沿いながら色々感想を書いていこうと思う。まずは7話の扉絵。
https://twitter.com/uotouoto/status/1325765871952785408?s=19
この扉絵の見所は天を仰ぐノヴァクとアオリ文だ。空を見るのが怖いオクジーでもなく、火星を希望と捉えるグラスでもなく、地動説を叩き続けるノヴァクが天を仰いでいるため印象深い扉絵となっている。
そしてアオリ文が素晴らしい。
彼らはなんのために血を流したのだろう。
彼らはなんのために血を浴びたのだろう。
『血を流した』のは1話のカラー部分を見れば分かる通り“異端者”である。ならば『血を浴びた』のがノヴァクだと考えるのが妥当だ。
いやでもノヴァク血浴びてなくない?と思うが、3話の冒頭ではガッツリ浴びているので、きっとノヴァクだ。
『異端者と呼ばれる者たちはなぜ血を流したのか(7話)』が、『なら一体何を捧げれば、この世のすべてを知れる__?(1話)』と呼応する形になっているため、本編に触れながらも本筋とは別の角度で異端者の底力というものを読者に示している。語感も良く、なんとなく素敵で、その上本編の内容を想起させる。アオリ文として優れすぎていると思う。
これらから言えることは、異端者たちである“彼ら”が“すべてを知るために血を流している”、ということだ。
この“血を流す”行為については、拷問以外の流血表現が本編に無いため拷問を指していると考えて間違いない。ちなみに拷問を行うのは異端審問官であり、異端審問官を雇っているのは教会だ。
教会は異端者に改悛(従来の信仰や研究を捨てC教の教えだけを認めること)や焚書(C教に反する研究や思想の関連書物を焼くこと)などの要求を通すため拷問を行っている。痛め付けることが目的ではないので、教会の要求に大人しく従うなら拷問されることも血を流すこともない。
異端者は地動説を途絶えさせたくない一心で、血を流してまで拷問を耐え続けている。惨い拷問を受けようが生きたまま焼かれようが己の思想を守り続ける異端者たちのエネルギーはすごい。4話でラファウが言っていた通りだ。
手強すぎる。
しかしこれだけ執念深く描写される異端者側とは反対に、『彼らはなんのために血を浴びたのだろう』のアンサーらしき箇所は今のところ見当たらない。この“彼ら”にノヴァクが含まれることだけが明確になっている。
現時点では娘のために生きているということしか触れられていないノヴァクが、更に掘り下げられさえすればこの答えも分かると思う。とりあえず今後に期待。
アオリ文の話だけでだいぶ長々と書いてしまった。本編の話します。
第7話はグラスがマスクを取るところから始まる。
グラスとオクジーが所属する民間警備組合では組合規則に則りマスクの着用を義務付けられているため、彼らがマスクを取る時は決まって仕事が終わってからだ。このマスク着用義務が何のためにあるのかの説明は無いが、仕事中は外すなというルールを皆守っていた。
しかしグラスは同僚と異端者だけになると、「これから死ぬ異端者に見られても何も困らん」と言いながらマスクを外した。困らないからという理由で規則を破った。
この時点でグラスは組合という組織に完全な忠誠を誓っているわけではないことが読み取れる。
マスクを取るという行為により、グラスは“C教を信仰する組織の人間”ではなく、“火星に希望を見出した一個人”だと描かれたのが7話だ。
7話は組織に対する忠誠やC教に対する信仰が揺らぐことに焦点が当たっていた。誰が、どこで、いつ思想を揺らがせたのかがこの物語の肝になる。
それらを判断するために、まずはC教信仰的な思想と本作での異端者の定義を言語化していこうと思う。
1. C教信仰の論理
ラファウがC教教育をチョロいと笑ってから10年経ち、その10年で信者たちの考え方が大きく変わった。
10年前、つまりラファウが生きていた頃は「地球が一番低い位置にある」「現世は醜く穢れている」という言説もあったものの、主流の考え方は「地球は宇宙の中心に位置する」「神様が人の住む星を特別にした」というもので、あくまでも人間を肯定的・好意的に捉えるような思想だ。
しかし5話以降は「神様は位が低く穢れている地球を宇宙で一番低い場所に作った」「地球に住む人間は無力で罪深い」「夜空が綺麗なのは穢れた大地から見上げているから」という学説が主流となった。
人類賛歌的な教えが否定されて、地球は価値の低い星であり、地球に住む者たちは罪深いのだという考え方に変わり、それが染み付いた。
10年で解釈は変わったが、信仰そのものに大きな変化はない。天動説を軸にして、神様が地球を作ったという教えが受け継がれ続けている。故に、天動説を揺るがしかねない地動説の研究は禁止されており、異端と呼ばれている。
2. 異端者の定義
”異端者”は地動説を説く者に限らない。C教に背く可能性が少しでもあるとみなされれば異端認定され、遍く拷問にかけられる。(3話)
とは言っても教会側が一方的に異端認定しているだけに過ぎないため、異端者と呼ばれる人物たち=反C教思想を抱いている、と断言はできない。そもそも反C教思想を抱く描写自体が7話から出てきたぐらいで、全体として見ればそこまで多くない。
特に地動説を説いている人らはC教を否定したいのではなく、純粋に学問的な関心から地動説に惹かれている者ばかりであるように思う。現にフベルトは「神が世界を作った」と考えるC教信仰により説得力を持たせるために地動説を研究していた。ラファウに至っては信仰心そのものが無かったので反C教もクソもない。
1章では拷問以外で人を殺める描写が無かったこともC教信仰の考え方の変化に影響していると思う。
2章に入ってからは人を殺める仕事として代闘士が描かれるようになったり、貴族が無意味に人の命を奪ったりするようになり、世界のどうしようもなさが浮き彫りになった。その治安の悪化具合に比例するように信仰も強烈なものになる。その結果、オクジーのように自己肯定感が低く主体性が無いような人間がC教を信仰しようとする。2章の過激さの中で自己肯定が救済として働くのはこういった背景があるからだ。
3. 「世界のため」と「自分のため」から見る『自己肯定』
第2章では“地動説を肯定することは自分を肯定することである”、というロジックが用いられる。
「天国にしか希望がないと教えられるC教を信仰していてはこの世のことも自分のことも期待できない」という論なので、「自分に期待して自身を肯定するためにC教信仰を捨てる、そのために天動説を否定できる地動説を学ぶ」と続くのも道理がかなっている。
2章に入ってからはこの自己肯定を軸として展開しているが、実は1章の段階でもこれに繋がるような話は出ていた。
まず、1話でラファウが「皆の役に立つために神学を専攻する」と宣言したシーンだ。読み進めればわかるが、このラファウの言葉は1つも本心じゃない。建前として「皆のために」などと宣っているに過ぎない。
次。これも1話。
ラファウを脅すシーンのフベルト。「私のために」、天文を続けろと脅迫する。2話の彼の優しさを知っている読者的にはここのフベルトの言葉が本心なのかどうかは分からないが、若くして星の観測に長けているラファウの才能を潰すのは惜しいといった私情ももしかしたらあるのかもしれない。まぁ何にしろここの台詞だけ考えれば独善的な言葉だ。
そしてこのシーンと対になるように描かれたのが2話のここ。
2話で初めて「自分の為に」という言葉が出てくる。
皆の為でも他人の為でもなく、自分の為だけに天文を学んで地動説を証明する行為を良しとした最初のシーンだ。
そして、第2章に入ると地動説を学ぶ意義が純粋な好奇心ではなく自己肯定に繋がるようになる。その特徴的な回が7話だ。
異端者は「絶望こそが本当の希望を産み出してくれる」と力説し、「天国で絶望を誤魔化したところで希望は掴めない」とC教信仰を否定した。
元から“この世に期待しない”と誓いを立てていたオクジーは、異端者の言葉に抉られつつも表面上は異端の言葉を否定できていた。
しかしグラスは2年にも及ぶ火星観測により見出だせていた希望を失ったばかりであったので、異端者の言葉に聞き入っている。
異端者がグラスとオクジーに自分の考えを説くシーンだ。ここでようやく自己否定/自己肯定という言葉が出てくる。
第1章では地動説が自己の存在意義的な思考に繋がるように描写されていない。恐らく2章が始まるまでの10年間で財政等が著しく悪化し、それに比例するように治安が悪くなっていったため宗教や信仰の勢いが増してしまった反動で地動説の受け取り方も異なってきたのだと思う。
1章2話。合理性という観点から天文の美しさが語られる。
1章4話。天文の美しさから得た感動が語られる。
ラファウは合理的な魅力を地動説に感じていた。フベルトは信仰のために合理性を求めた結果地動説に出会った。どちらも自己肯定を目的として地動説を学んでいるわけではない。
しかし、先述の通り2章では「自分に期待して自身を肯定するためにC教信仰を捨てる、そのために天動説を否定できる地動説を学ぶ」を軸としている。1章と違い、世が荒みきった2章では自己肯定がテーマとしてあるのだと思う。
そして、1章時点で自己肯定は語られていないが、「自分の為に」という言葉は対比表現により推されていた。2章のテーマである自己肯定も突き詰めれば自分の為に行うことだ。
この「自分の為に」という言葉は本作を読む上でのキーワードだと思う。
ちなみに異端審問官のノヴァクは「家族、友人の“生活”を守る為」と3話で言っている。彼の仕事や生き方は「他人の為」だ。
“他人の為、人類救済の為に動くC教と、自分の為に自分の道を突き進もうとする異端者たち”がこの漫画の根本的な構造なのかもしれない。つまり、「自分の為に」が言えるようになった異端者は生が適切に活用されたということで、物語から退場するフラグが立つということだ。
4. オクジーにとっての希望
オクジーは5話で不安を抱きつつも、C教を疑わないように本心から目を背けている。
彼は熱心にC教を信仰する描写こそ多いが神学に詳しいわけではなく、「天国にしか救いがない」と断言する割にはC教への理解が浅い。「らしい」とか「偉い人が言っていた」といった言葉を多用するし、自分で物事を考える事を放棄しているように描かれている。主体性がなく、思考や選択を放棄しているのが彼の特徴だ。
はっきりしない態度ばかり見せているが、彼の希望については天国に行くことだけだと断言している。C教は自殺を罪にしているが、それと同時に死んで初めて天国に行けるともされているため、「天国に行きたい」は要するに「自殺以外で死にたい」と同義である。
しかし、オクジーにとっては天国が断言できるほどの希望ではあると同時に、不安だとも溢している。
ここでの不安の発露は天国の有無を疑うことをせず、あくまで「天国に行ける人は限られているから俺は救われないかもしれない」という発想に留まっているが、7話を契機にこの不安は増していく。が、異端に煽られ、不安を抱えながらもオクジーは信仰を曲げない。
この主張にも「歴史上の頭のいい人達が出した真実です」という言葉で主体性の無さを感じるが、それでもオクジーが自分自身で選択しており、顔つきが本気なので説得力はある。
だがこのコマと同じ9話でグラスに“託された”ことにより変化の兆しが見えてきた。
この次のページが9話で最も盛り上がるシーンのため載せないが、オクジーはグラスに「君の顔はまだ死を恐れている」と指摘された。心からC教を信仰しているなら天国に行くに過ぎない死は恐ろしくないはずだ、死を恐れるなら天国を信じきれてないんだという話になってる。
つまり、口では散々「天国にしか希望がない」と言っていたオクジーだが、心の奥底では死を恐れ天国を信じきってはいなかった。
幼少期から教え込まれていた天国なんか本当は無くて、星空を嫌いになる理由なんかなくて、お祈りさえすれば死後は幸せになれるなんてこともないということを知るのがオクジーにとっての幸福かどうかは分からない。まやかしの信仰が救ってくれるなら信仰の無い世界なんか知らない方が普通に幸せなんじゃないかと思う。
でもその信仰が信仰として機能しなくなってきたから、オクジーは不安を口にし始めたんだろう。彼が地動説によって救われるかどうかは知らないが、せめて星空を見るのが怖くなくなれば良いのになと思う。
5. グラスにとっての希望
グラスは主体性の無いオクジーと違って我が強い人物だ。
彼は火星観測を希望と呼んでいたが、火星そのものに希望を持っているわけではない。地球上から完璧な星の流れを観測できることにより、「我々人類は完璧を認識できる」という自己肯定を得たことで、そのきっかけであり観測対象である火星を希望としている。
また、グラスは悲惨な出来事がきっかけで自殺未遂を行うという前科も持っている。4話でノヴァクが「(自殺はC教の)教えに反している!」「どこまでC教をコケにするんだ!」と怒っていたことを考えると、自殺未遂の罪を犯した時点で異端予備軍と言っても差し支えないかもしれない。
グラスが天国以外の希望を見つけて、2年間心の拠り所にしていたと考えると6話の彼の絶望は計り知れないだろう。
ちなみに、グラスは自身の生き様を省みたときに「これが私の運命なのか」という言葉を使いがちだ。
5話
6話
9話
これらの台詞は9話で変化を示すこの仕掛けのためにあったのかなと思う。
グラスは自分の人生に起こった悲劇を運命という言葉で片付け続け、最後も運命に抗うことなく死を選んだ。この描かれ方を見ると恐らく本作は運命を否定することを是としていない。自らの運命を見定め、生を適切に使うことを肯定的に考えている。
グラスの希望は火星観測を通した『完璧を認識すること』だったが、これらを踏まえると『自分の運命に納得すること』が彼の希望となり、救済になったと思う。
6. 肯定という救済
C教は荒んだ世に諦念という形で救済をもたらしているが、7話では肯定こそが救済であると語られている。
救済論について書くと大きく脱線するので今回は省くが、本編から推察するに第2章は自分を肯定することで救われようとする物語になるだろう。
オクジーがあんなにも自己否定に走るようになったのはC教の諦念教育の賜物だ。地は穢れている、天国だけが希望である、だから地から見る天は美しいのだと教え込まれたら当たり前に自己肯定感が生まれることはない。
教会が異端を処刑し続けることでC教信仰が強固なものになる、というのも一理あるのだが、本編ではC教が正しく信仰として機能としている描写もある。
1話でもラファウが胡散臭そうに語っているが、神学を学び聖書を読み解き論理的に信仰を深めることで実質的に皆のためになっていたんだろう。
3話ではノヴァクがC教信仰蔓延る“この世”を平穏だと言っている。
処刑されるのは一部の異端者のみに過ぎず、C教を信仰する大多数の人に悪い影響はない。正しく信じられないオクジーや信じる気もないラファウにスポットライトが当たっているから、反対に位置するC教を敵対視してしまう解釈もあるだけで、C教そのものが倒すべき悪なわけではない。そのC教信仰により救われなかった異端達の希望として地動説が在ってしまうだけだ。
人の数だけ救済があると思うが一般論として、肯定というのは公約数が大きめの救済措置であると思う。
天動説から来るC教により自己否定を強いられているなら、それに相対する地動説により自己肯定を行える。自己を肯定し、『この世を好きになってもいい』と思えたら天国にすがらなくても良い。あるかどうかも分からない天国に不安を感じなくて良い。現状の不安から脱却できたならそれは救済だ。だから本作における自己肯定は救済に繋がっている。
7. “オクジーと異端者”、“ラファウとフベルト”の共通点
終始独特なスピード感で話が進んでいくのがこの漫画の特徴であることは言うまでもない。その中で特に大きな盛り上がりとして描かれるシーンの1つに異端への転向が挙げられる。
具体的に言うと神学を学ぶと笑顔で言えていたラファウが地動説に魅了されていく過程や、グラスが馬車内で異端者に与えられた機会を掴んだシーンだ。
序盤は全体的に強烈なため初見だと困惑状態が続くが、9話まで読むと『受け継ぐ』という行為に焦点が当たるので、それが強く印象に残るようになる。
誰かの異端への転向により地動説が受け継がれていくわけなので、必然的に転向はインパクトある描写となり記憶に残りやすい。恐らく、ラファウとフベルトの間に起こった感動の引き継ぎと同じようなものが形を変えて別のキャラクター達の間で発生する現象が何度か起こると思う。
つまりラファウとフベルトのやり取りを抽象化しておけば『託された』時により鮮明に物語に没入できる。はずだ。
まず、ラファウもオクジーも異端が自分を庇って死んだにも関わらずその死に対してだいぶ淡白な反応を見せている。
両者とも異端に深い思い入れがないので、他人が死んだ時の感情とさほど変わらないのだろう。ラファウは異端の火炙りから目を逸らすし、オクジーは仕事で人を殺めることが多い。死が生活に密接しているため、今さら他人の死でどうこう言うことはない。
だからこそ、その“完全な他人”の言動で人生を変えられるほど影響されていることに大きな意味があるんだと思う。その人への情が無いということは、ただただ真理への関心のみに絞られる。これが仲の良い友人や家族であれば弔いの感情もあっただろうがそれすらない。というかこの漫画で死者への回想が遺された“物”の想起でしか行われていない。
良くも悪くも、死んだ段階でその人の役割は終了だ。
8. ラファウが残した物
ラファウはフベルトの感動を絶やさないために死んだ。資料を燃やさない方が地動説のためになると思ったから自分が死んだ。ストーリー的な観点で言えばラファウは感動や知を引き継いだと言えるが、そういった曖昧なものではなく物理的に残したものもある。
まず、3話でノヴァクにネックレスを怪しまれたことで自分が警戒されている可能性を考え、ネックレスにメモを添えて誰かに託せるよう隠した。
そしてこのネックレスは5話で再登場し、8話でメモの内容が語られる。
10年前の日付が入ってることとポトツキという名前が出たことで、ラファウが書いたものであることは確定した。
「彼の協力は心強かった」とあるが、ポトツキがラファウの“地動説研究に”協力したことはない。計算書に修正を加えてしまったシーンがあるが「知らない」と言い張っているし、ラファウもたかだか一回修正された程度で「心強かった」とは言わないだろう。恐らく孤児だった自分を引き取り、教育を施したという“育ての親”という意味を含めて「彼の協力」と書いているのだと思う。
(ポトツキが生きているかどうかはまだ分からない。個人的にはノヴァクの揺さぶりで自己保身に走ったような男が2章軸で生きていたらどう立ち回るのか気になるので生きていてほしい。)
ラファウが残した地動説の情報、もっと言えばあの木箱が燃やされず受け継がれていくことがラファウの本意であり、この漫画の重要な見せ場の1つだ。9話になってようやくあの木箱が活用されそうな展開が見えてきた。
1巻の紹介文で主人公の神童と宣われたラファウの死が、11話にしてようやく主役になりそうなのだ。もう11話が楽しみでしかない。
まとめるのが下手くそなので今回もたかが感想の割にかなり長くなってしまったが、一通りは書きたいことを書けたと思う。「チ。-地球の運動について-」は引き込まれる演出も論理展開も非常に鮮やかで、本当に面白い漫画だ。もっともっと多くの人に読まれてほしい。
「チ。-地球の運動について-」、読もうな!