貞慶『法相初心略要』現代語訳(三) 四分説について

凡例

  • 底本としては『大日本仏教全書』第八〇巻(仏書刊行会、1915)を用い、訓点や文意の確認のため適宜京大所蔵本を参照した[2]。

  • ()は補足、[]は文意を補うための補足で、いずれも筆者の挿入である。

  • 〈〉は原文中の注や割書を示す。


四分について

[四分説とは、識が]
① 相分(知覚される客体。識が対象として現れること)
② 見分(知覚する主体。識が相分である対象を知覚すること)
③ 自証分(識の自体分。これが変化して見分・相分となり見分を認識する。認識したことを一連の行為・経験として統合・知覚する。証自証分によって認識される)
④ 証自証分(自証分を認識する。自証分によって認識されるため、第五、第六といった認識の無限遡及にはならない)
[として現れること]である。

(一)相分

  相分とは、心の自体が変化(転変)して、対象となる働きを起こすことを言う。事物(色)を対象とする時も、[かたちのない]心を対象とする時も、存在するもの(有)を対象とするときも、存在しないもの(無)を対象とするときも、対象として、自法を離れている法は一切皆なそのよう[に知覚対象に変化して現れる]のである。
 認識する主体[となる]心の自体は、必ず変化して対象となる働きを起こしてから、[相分を]知覚するのである。この[自体が変化して]知覚対象となる働きを「相分」と名づける。この部分は、仲算の注釈に依れば[以下の通りである][1]。

「『相』とは、『相状』(すがたかたち)である。対象となるという意味である。すがたかたちが[八識それぞれの]形をとって現れる(差別)ことを心の対象とする[2]。だから『相』と名づけるのである。『相』とは『状』(かたち)である」〈以上、引用。〉

 心が対象に向かう時、声などの具体的なすがたが全て[知覚対象として]現れるのを相分と言う。だから「相」の字は「相状」の意味なのである。

(二)見分

 次に見分とは、心の自体が変化して、知覚する働きを起こすことである。つまり、相分を知覚する作用である。「見」の字は「[対象を]照らし明らかに知覚する」(見照)という意味である。これによって仲算の注釈には、

「『見』とは『見照』の意味である。対象を知覚するという意味である。心の性質が明らかに現前の対象を照らすから『見』と名づけるのである」〈以上、引用。〉[とある。]

 対象に向かってそのすがたを明らかに照らす[心の]個別の働きを「見分」と名づけるのである。

(三)自証分

 次に自証分とは、すなわち心の自体である。これ(自証分)が[見分・相分に変現して]見分を認識する。心の自体は明らかで澄み切っているから、還って自体の認識する働き(見分)を認識するのである。「証」とは「証知」(明らかに知る)という意味である。仲[算]の[注]釈には、

「自証分とは、見分の自[体]を名づける。この第三分が見分を明らかに知るから、証分とする」[とある。]〈以上、引用〉。

 見分が外[として現れた認識対象(相分)]を明らかに照らす働きを[自証分が]知るのである。また、第四分[である証自証分]も知覚するのである。

(四)証自証分

 次に証自証分とは、心の自体が変化して、自体(自証分)を認知する働きを起こす。この働きを証自証分と名づけるのである。前の自証分がこの証自証分を認識するのである。[これもまた、]心の自体は明らかで澄み切っているから、還って自らの本体(自証分)を知覚する。仲[算]の[注]釈によれば次のようである。

「第三分を自証[分]と名づける。この第四分[証自証分]が自証分を認識する。[証自証分とは]第三分[すなわち、自証分]を証知する働きである」〈以上、引用。〉

問答(一)無見の色法、心・心所法の相分について

 問う。相分がもしすがたかたち(相状)の意味ならば、「状」とはかたちと外観(形貌)という意味である。[それなのに、形として見えない]声(音)や香(香り)などと[なって]認識される。[声や香に]どうしてかたちと外観があろうか。ましてや、[五感で捉えられない]心法はどうして知覚できようか。もしそうならば、相分は唯だ青・黄などのいろやかたちを認識する時だけ有るだろう。どうして全ての[対象を知覚する]時にそのように[相分が有ると]言うのか。

 答える。法(存在の構成要素)の具体的なすがたやあり方には幅広い意義がある。どうして唯だ長い・短いなどのいろ・かたちだけが[相分であると]執着してその他の意味を認めないのか。声や香も、心・心所なども心の認識対象として変現しているのである。「相」とはすがたかたちの意味である。いろ[同様、]香りなどにも気に入る(可意)・気に入らない(不可意)、よい香り(香)・嫌な匂い(臭)といった相状が有り、心・心所は縁慮分別[すなわち、第六意識の認識対象]としての相状が有る。

問答(二)無法の認識について

 問う。[確かに、]有体法(ある程度存在性を有するもの、具体的には色法や心・心所法)を知覚するときには相状(すがたかたち)は有るだろう。[しかし、]無法[すなわち、亀毛・兎角や(眼病のひとが見るという)空華、過去・未来などの全く存在性がないものなど]を知覚するときはどうして相状があろうか。また、無法はすでに無である。どうして対象のない認識が生ずることがあろうか。

 答える。煩悩に汚されている、集中状態でない[凡夫の通常の]心(有漏散心)で無法を認識するのは、必ず強い分別心(第六意識)である。分別が強いから、自[体分]が存在しないものに似て変化する。その相を相分と名づける。だから、無に似て現れる相状は有るのである。無に似ているとしても、その存在性(体)は無ではなく、[識を離れていないから]仮に存在する。ゆえに、対象のない認識が生じるわけではない[3]。

問答(三)無分別智や自証分・証自証分に相分は有るのか

 問う。[初地以上の菩薩と仏の]正智[すなわち無分別智]が[真]如(すべての法の拠り所となる実体)を認識するときは、どうして相分が有ろうか。もし有ると言えば、どうして「理智冥合」(対象である真理と認識主体である智慧とが不二であること)と言えようか。[無分別智所縁の真如にも]相分が有るならば、真如では無くなって[矛盾して]しまうからである[4]。
 また、後の二分[である自証分と証自証分]がお互いに認識し合う時に相分は変現されるのか。もし変現するというならば、後の二分にどうしてまた相分を浮かべるだろうか。

 答える。正智が真如を対象とするときや、後の二分が相互に認識する時は、皆な相分は無いのである。

 問う。もしそうならば、どうしてすべての時に相分が変現する[と言う]のか。

 答える。誰がすべての時に相分が変現すると言ったのか。[先に]「対象として、自法を離れている法は一切皆なそのよう[に認識対象に変化して現れる]」[と述べたが、]自法を離れていない法を対象とする時には、全く相分を変現しないのである[5]。
[なぜならば、]真如は心の[本]性であり、四分は一つの心[・心所]の働きである。皆な自体を離れていないから、相分は変現しないのである。ゆえに、自証分が見分を対象とするときにも相分は変現しない。[もともと認識は見分と相分に分かれて発生するのだから、]相分の上に更に相分を変現しないのである。

問答(四)自証分を立てる理由

 問う。心が対象を知覚する説明としては、相分と見分で足りるだろう。何のために更に第三分を立てるのか。

 答える。正しく対象に向かってよく理解するのが心の働きである。心[の働きは]唯だこの[知覚という]分限に限るから、どうして唯だ作用だけあって本体が無いであろうか。
 若し正しく対象に向かってよく理解する働きだけ[が心の機能では]では無いと言うならば、[それは]第三分[つまり自証分の働きである]と知るべきである。どうして働きだけあって本体が無いだろうか[作用には必ず本体がある]。
 若し自証分が無ければ、誰が作用を起こして対象を知覚するのだろうか。相分は量られるもの(知覚されるもの、所量)であり、見分は量るもの(知覚するもの、能量)であり、自体分は量った結果(知覚したことを認識するもの、量果)である。能量・所量には必ず結果が有るので、必ず第三分(自証分)が有るべきなのである。

 問う。量るものと量られるものには必ずその結果があるとはどう言う意味か。

 答える。譬えば、ある人がものさしで絹などを量るようなものである。これは長さを知るためである。若しこの結果を知るものが無ければ、ものさしで量ったとしても、その[量った]結果も、意味がなくなり、無くなってしまうだろう。[もし結果が無ければ]何の為[に量るの]だろうか。
 ゆえに、絹など[長さ]を量られるもの(所量)、ものさしを量るもの(能量)とした時に、[量った]結果(量果)を知る人が必要なのである。  
 つまり、人がものを測る時には、ものさしを使ってその物を知るのだが、ちょうどそのように、心の自体[である自証分]が知覚する作用を起こし、色(物質的なもの)などの対象(相分)を知覚する(見分)ときに、[その結果としての]対象物を認知する[のも心の自体=自証分な]のである。
 [また、]若しその[一連の]認知する働きが無ければ、知覚する作用が起きて対象を知覚しても、[それを認知するものがないので]空しく結果も無くなってしまうだろう。[もし結果が無ければ]何の為[に知覚するの]だろうか(認識には必ず結果を伴う)。
 ゆえに、相分を量られるものとし、見分を量るものとし、自証分を以って量った結果とするのである。つまり、心の自体[である自証分]が対象を知覚する働きを起こすときに、この[結果としての]対象物を認知する[のも心の自体=自証分な]のである。だから、自証分は見分を以って相分を認識するのである。この道理は必然であるから、第三分が立てられなければならない。

問答(五)―(一)証自証分を立てる理由

 問う。もしそうならば、三分だけで足りるだろう。どうしてまた第四分を立てるのか。

 答える。心の本性は明るく澄んでいるから、他を知覚し、また自分のことも認識するのである[6]。譬えば、[宝]珠には内も外も明るく浄らか[にする効能が]あるようなものである。若し第四分が無ければ、[心の]自[体]を知る働きが欠けてしまうから、必ず第四分が有って、そ[の働きが]還って自体[分]を認識するのである。

 問う。もしそうであるならば、第四分[の働きは]第五分を立てて知るべきである。どうしてそのように[第五分を分立]しないのか。

 [答える。]もしそのように[第五分を]許せば、また[第五分を認識する第六分、第六分を認識する第七分というように]無限遡及[の誤謬]になってしまう[からである]。

 [問う。]次に、心の自[体]を認識するならば、自証分が見分を認識すれば事足りるであろう。なぜ心が自[体]を認識する説明として第四分を立てるのか。

 答える。[先に述べたように、まず第五分を立てない理由としては]第三分もまた第四分を認識することができるから、ことさらに第五分を立てないのである。[そのように、自証分と証自証分とがお互いに相互認識すれば]無限遡及という過りが無いのである。ゆえに、第三分(自証分)は第二分(見分)と第四分(証自証分)の二つの分限を認識するのである。
 また、[自証分が]見分を認識するのは、心の作用を認識することであるが、若し第四分が無ければどうして心の自体[である自証分]を認識できようか。唯だ三分だけ[有って証自証分が無い]ならば、心が自[体である自証分]を認識する理由が欠けてしまうだろう。

問答(五)―(二)証自証分を立てる理由(認識における三量)

 問う。若し第三分が第四分を認識するから、第五分を立てないというのであれば、また第二分[である見分]が還って第三分[である自証分]を認識すれば、第四分を立てる必要は無いであろう。

 答える。対象を知る手段(量)には三つが有る。[すなわち、]

①    現量(直接知覚)
②    比量(推論)
③    非量(誤った認識)
[の三つである。]

 現量とは、現に対象に向かって対象を[五感などで]直接知覚する心である。
 比量とは、推しはかって知る心である。
 非量とは、対象そのままではなく、誤った見解を起こす[心である]。
 四分において、相分は知覚する側(縁慮)ではないから(知覚される側であるから)、三量には含まれない。見分は三量[全てに]通じ、後二分(自証分と証自証分)は唯だ現量だけである。
 しかるに、内[である自証分と証自証分]を認識する心は必ず現量でなければならない。同じ瞬間(一刹那心)に[証自証分が]還って自[証分]を認知する時、対象として必ず現じ、誤りがないからである。
 それに対して、見分は既に三量に通じる[と述べた通り、推論や誤った認識をも含む]。[見分は外を知る働きであるのに]どうして内[である自証分・証自証分]を認識することができようか。
 それに加えて、見分には[証自証分ではないので]自証[分]の自[体]を知る働きが無い。もともと、これ(見分)は自[体]ではないもの(相分)を知る働きであるからである。どうして還って自体[である自証分]を証知することができようか。だから、必ず証自証分を立てなければならないのである。

問答(六)心の自性と諸法の自性である真如について

 問う。[前]五識と第八識[すなわち阿頼耶識]の見分は恒に現量である。どうして内[である自証分・証自証分]を対象とする[ことができない]のか。諸々の集中状態の心(定心)や無漏の心の見分もまた同様[に自証分・証自証分を対象とするはず]である。次に、見分は自分の働きを知るものではないのならば、根本智(無分別智)の見分はどうして真如を証知するのか。真如は心の自性なのでは無かったか。

 答える。[前]五[識]と第八[識]の見分とは[恒に]現量ではあるが、そもそも、見分の作用は[現量・比量・非量の]三量全てに通じるから、内を対象にはできないのである。

 次に、真如は確かに心の自性ではあるが、心としての作用はない。そもそも、作用というのは現象(有為法)であるから[無為法である真如が作用を起こすならば矛盾してしまう]。今ここで「[心が]自[分自身を認]知する」と言ったのは、認識としての面を言っているのであるから、正智(根本無分別智)の見分が[真]如を証[知]することと全く相違しないのである。

 重ねて述べる。あらゆる存在(法)はすがたかたち無く、限定を離れた道理(無相理)を以って究極とする。これは即ち真如のことである。然るに、さまざまな条件が合わさる(衆縁和合)時、この究極の理に依拠して、仮に物質や心などの相が[現象として]有る。今はこの真実では無いが、[真如に依拠して]仮に起こる心(虚仮心)の様相を四分に摂めて、心が自分を対象として認識する意味を論じているから、[この]仮に現象しているの心自体が認識する働きを名づけて「自を知る」と言っている。だから、[そもそも]正智の見分[の自体]が真[如]であるというのは、今論じている、心が自分を対象として認識すること(心自縁門)とは[意味が]違うのである。

[すなわち、確かに円成実性は諸法の拠り所としての自性ではあるけれど、今は依他起性としての心が自分を対象として認識を起こすことを四つの働き(四分)に摂めて論じているのだから、議論の前提が違う]

問答(七)どの識にも四分はあるのか

 問う。今、この四分は八識[それぞれ]についてはどのように分別するのか。

 答える。八識はそれぞれに四分を具えている。眼識を例に取れば、眼識が青・黄などの色を変じて相分として、その青などの色を知る働きを見分とする。この見分の働きを知るのが自証分である。この[自証分の]作用が眼識の[本]体である。この自証分の働きを知るのが証自証分である[7]。自証分が還ってまたこの証自証分を知るのである。
 このようにして、耳識は声(音)を変じて相分として、鼻識・舌識[・身識]も次のように、香・味・触[といった認識対象]を変現させて相分とするのである。意識はその時々に随ってあらゆるもの(一切法)を変現させて相分とするのである。
 末那識は阿頼耶識の見分を相分として[我法が実在するという執着を起こしながら]変現させ、阿頼耶識は[現象の原因となる]種子・[五種類の感官となる]五根・[その衆生の界趣に応じた自然環境である]器[世]界という三種類の認識対象を変現させて相分とするのである。
 後の三分[すなわち、見分・自証分・証自証分]は眼識[で説明したの]と同じである。[また]八識と相応(結びついて作用)する心所[にも四分があるが、その働き]もすべてそれぞれの心王(八識)と同じである。


問答(八)仏果の四分とその対象について

 問う。仏果の四分についてはどうか。
 
 答える。仏果の八識は皆な無漏(煩悩の対象とならず、煩悩を増大させない)清浄である。識と相応する心所もまたそのよう[に無漏清浄]である。 
 [仏となる前と同じように]この心王・[心]所にもそれぞれ四分を具えるが、四分も皆な無漏清浄である。後三分は唯だ現量だけであり、明浄である。見分にも全く比[量]・非[量]がないのである。相[分]・見[分]といった名称は[仏果を得るための]因位の場合と変わらないが、その働きについては[因位とは全く違う。][法相]宗家に二つの解釈がある。

 一説には「三通縁三」、つまり後三分がおのおの[自分の働き以外の]他の二つ[と相分を含む計三つ]をも対象とするのである。他の三分とは、そのうち一つを知覚する作用(能縁)とした時に、三つが残るが、その三つを対象とするのである。見分を例に取れば、見分は相分と自証[分]と証自証[分]との三つを対象とするのである。このように、自証分は相分・見分・証自証分の三つを通じて対象とし、証自証[分]は、相分・見分・自証[分]との三つを通じて対象とするのである。
 もう一つの説は「三通縁四」、つまり後三分がおのおの四分全てを通じて対象とするのである。知覚する作用(能縁)が還って自らを対象とすることである。前の解釈ではこれを許さないが、この解釈ではこれを許すから、[後三分のうち一つが自分を含む]皆な四分を対象とするのである。

 問う。心が自分を対象とするのは[四分説において]本来承認されるところである。の知覚する作用が還って自らを対象とすることを、前の[第一の]解釈ではなぜ許さないのか。

 答える。いま上[の質問]で承認される「心が自分を対象とする」とは、[自分の心の自体である]自証分が[その作用である]見分を対象とし、後二分[すなわち自証分と証自証分と]がお互いに認識対象とし合う(相縁)ことである。この意味としては[仏になる前の]有漏位でも有ることだから、まして仏果に於いてどうして[無いことがあろうか]。
 今論じているところの「[心が]自分を対象とする」というのは、[仏果にのみありえる、]見分が還って自証分を対象としたり、証自証分が還って証自証分を対象としたりする解釈のことである。この解釈は思議し難い。だから、初めの解釈ではこれを承認せず、後の解釈では、仏果は遍くすべてを対象とする優れた働き(徳)が他と異なる[と考える]から、この解釈が承認されるのである。
 問う。「刀は自らを割かず、指端は自分を触れられない」[8][と言うように]、見分が見分自らを対象とするということは、思議し難いところである。その理は恐らく知ることができないであろう。後の解釈を承認した場合、還ってどのような疑いが有るのか。

 答える。他[の三分]が変現したもの(他所変)を自らの相分とし、[更にそれを]本質(=疎所縁縁。認識の拠り所となる、間接的な認識対象)として、自[分]に似た相分を変現させ、それを[直接の]対象(親所縁縁)とするのである。
[すなわち、仏果の見分に約して言うならば、見分が自証分を対象とする際には、自証分を直接対象とするのではなく、必ず自証分に似た相分を変現させて、それを直接の対象とするのである。]
この意味は微細である。深く思慮してこれを知るように[9]。

一心に四分が有ること

 [善珠の]『分量決』(『唯識分量決』)には、「心の働きの分限には四種類の別がある。だから四分と名づけるのである」〈以上、引用。〉


注釈


[1] 仲算『四分義極略私記』からの引用。
仲算(?~?)は平安初期の法相宗の学僧。応安の論議で天台宗の良源と論争したことで知られる。

[2] 『四分義極略私記』によれば、六識の対象である色声香味触法などといった六境のほかに、第七識が第八識の見分を縁ずるときに我・法のすがたを帯びて現れたり、第八識が種子・五根(認識器官)・(自分が所属する)三界六道のすがたになって現れることも「相状」に含まれる。

[3] 『了義燈』に基づく問答。

[4] 底本「相分猶有為非(二)真如(一)故也」とあるのを改めた。

[5] 無分別智における真如、自証分と証自証分がお互いに認識するときに加えて、慧を本体とする我見や、瞋を本体とする忿・恨・悩・嫉などの心所法には相分が無い。

[6] 『成唯識論』巻六、「信」の心所の説明に「これ(信)は性質として澄んでいて清らかで、能く心等を浄らかにする…。水清の珠が濁水を清めるようなものである」とあり、自らの浄らかさによって他も浄らかにする作用があるとされていた。

[7] 底本「知(二)此自証分之用(一)、為(二)識自識分(一)」とあるのを改めた。

[8] 『了義燈』巻第三。自証分が見分と証自証分を認識することを批判する、「刀不自割。指端不能触自指端」からの引用。

[9] このうち第一説、すなわち「三通三縁」説を正義とする。『了義燈』は、「なぜ後三分は相互いに認識するというのに、例えば見分が自証分を認識対象とする場合、直接認識せず相分を浮かべてそれを縁ずるのか」という論難に対して「鏡が対象を写して、その写った本体を見るようなものである。ちょうどそのように、心を対象として還って自心を見るとき、どうして相分を変現させないことがあろうか」と答えている。

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