貞慶『法相初心略要』現代語訳(二) 三性説について
凡例
底本としては『大日本仏教全書』第八〇巻(仏書刊行会、1915)を用い、訓点や文意の確認のため適宜京大所蔵本を参照した。
()は補足、[]は文意を補うための補足で、いずれも筆者の挿入である。
〈〉は原文中の注や割書を示す。
三性について
[三性説とは、以下の通りである]
一、 遍計所執性
二、 依他起性
三、 円成実性
(一)遍計所執性
[遍計所執性とは、]凡夫の心が覚知する、色や声などの一切有[為]無[為][1]のすべて(諸法)である。これらは全て心の迷乱であって真実ではなく、実体としては全く存在しない。
「遍計」とは凡夫の心[が実体として存在しないものを実体視し、あれこれ思い計らうこと]である。この心が[現出する諸法は実在すると]執着される(所執)から、「遍計所執」と名づける。
(二)依他起性
[依他起性とは、認識の面から言えば、]諸仏の智が覚知する有為の諸法である。色・声・香・味・触[といった粗い認識対象である五境]から[きわめて微細な]第八識、[識や智とともに働く]五十一の心所(心の具体的な働き)などのすべてを言う。皆な他の[法の]勝れた力に依って助けられ[て生起す]るから、「依他起」と名付けられる。また、[性質としての]依他起性には二種類がある。
(ア)染分依他
一には、染分依他である。煩悩・随煩悩(煩悩に付随して起こる、個別具体的な煩悩)を本として[引き発こされる]心所と同時に起こる心・心所を言う。〈以上、不善・有覆。〉また、[不善・有覆の心所によって]汚される前後の心所や、一切有漏の色法〈以上、善・無覆〉などを言う。
要するに、[染分依他とは、]有漏の諸法(煩悩の対象となる、心や心作用や事物や概念などすべて)のことである。
染汚性(汚されている性質)
[以下、有為法の性分別。はじめに不善(悪い結果をもたらす性質)と、有覆無記(善悪の結果は招かないが、悟りへの道を覆い隠すもの)]
問う。どの法が不善・有覆か。またどの法が善・無覆なのか。
答える。煩悩の中で瞋(苦と苦の原因への怒り)だけが唯だ不善であり、他の[善や有覆無記といった]性質には摂められない。また、瞋(怒り)を本体とする随煩悩(煩悩に付随して起こる、個別具体的な煩悩)もみな不善である。すなわち、
① 忿(現前に見たり聞いたりすることへの怒りによって武器を取って殴ったり、罵ったりする働き)
② 恨(忿のあとに起こり、内心恨んで忘れず、常に心を苦しめる働き)
③ 悩(忿・悩のあとに起こり、また現前の思い通りにならないことに対して他人を悪しざまに罵る働き)
④ 嫉(自分の名声や利益に腐心して、他人の成功を妬む働き)
などの心所法である。
次に、瞋を除くその他の[随]煩悩は、[貪・慢・疑・悪見といった]不善か、癡(無明、仏教の理に対する無知)を本体とする法であり、その本体とする煩悩に従って、不善か有覆となる。
いったい、[全部で]二十種類の随煩悩は、貪(執着)・瞋(怒り)・癡(無知)[という根本的な煩悩]の上にそれぞれの適切なあり方によって置かれるのであって、その他の煩悩の上には立てないのである。〈以上は本体として不善・有覆の法である。〉
また、これらの煩悩や随煩悩と相応する
心王(心)や、
遍行(あらゆる心と共に働く心作用)、
別境(個別の対象に集中して起こる心作用)、
不定(共に働く心所によって善か悪か決まる心作用)
といった心所法(心の働き)は、その煩悩や随煩悩の性質に従って皆な不善あるいは有覆の性質となる。
〈相応とは[ある心・心所法と]同時に起きているすべての心の働きをいう〉〈以上、相応によって有覆あるいは不善となる心である。〉
以上の不善・有覆を総じて「染汚性」(汚されている性質)と名づける。
不染汚性(汚されていない性質)
次に善の十一種類の心所についてである。善の心所はすべて善であり、その他の性質ではない。〈以上は自体として善の法である。〉
この[善の心所法と]相応する心王や遍行・別境・不定といった心所法もまた善の性質となる。〈以上、相応によって善となる法である。〉
次に[無覆無記とは、]煩悩・随煩悩や善の十一種類と相応せず、但だ心王、遍行や時には別境、不定などと同時に起こるのが無覆無記という性質である。
次に諸の色法(物質)は、性質としては皆な無覆無記である。時に善色・不善色、善声・不善声などと呼ばれることもあるが、本性としては無覆無記なのである。これらはただ心の善悪によって表されるから、[善・不善の色などと]名づけられるだけなのである。以上が善・無覆である。
これら善・無覆を総じて「不染汚性」(汚されていない性質)と名づける。
(イ)浄分依他
二には、浄分依他である。浄分依他とは、全ての無漏(煩悩の対象とならない)の心・心所法と一切無漏の色法であり、その性質はみな善である。
つまり、仏になって得られる果報としての四智[すなわち成所作智・妙観察智・平等性智・大円鏡智と相応する]心・心所法、感覚器官、[三十二相八十種好などの]身体的特徴、[智と相応する心によって]現出される色声香味触法など[の認識対象]である。
また、[初地・第八地以上の]菩薩の無漏の心・心所やそれによって現出される色など[の認識対象も含まれる。]また、[声聞・縁覚という]二乗の[聖者の]無漏の心・心所法やそれによって現出される色なども全て浄分依他である。
(三)円成実性
真如(すべての法の本体である、真実ありのままの姿)の言い表せない道理である。諸仏が証得し知ることのできる[対象]である。これが依他起性の諸法[つまり現象世界の]本体である。形態や様相が無く、同一平等で、現象世界に満ち満ちており(無相一味周遍法界)、現象世界に関わりなく(凝然)、円満で完成しており、真実という性質を持つから「円成実性」と名づけるのである。円成実性には二種類がある[2]。
(ア)常無常門円成
一には、常無常門円成である。常無常門円成とは、常[である無為法、すなわち円成実性]と無常[である有為法、すなわち依他起性]とに相対して言う。常であり[一であり、変化しない性質の]法を「円成」と名づける。無常である[変化し、生起する]法は依他起性に摂められる。
『論』(『成唯識論』)に、「[我と法の]二つが[実体として存在しない、すなわち]空であることによって顕現する、円満で完成している諸法の実体を円成実[性]と名づける」〈以上、引用。〉[とある通りである。]
(イ)漏無漏門円成
二には、漏無漏門円成である。漏無漏門円成とは、有漏(煩悩の対象となり、煩悩に汚されている性質)と無漏(煩悩の対象とならず、煩悩に汚されていない性質)とに相対して言う。有漏を「依他」と名づけ、無漏の有為法・無為法(現象世界と関わりのない法)を「円成」と名づける。
『論』(『成唯識論』)に「無漏の有為は道理に背く様(倒)を離れ、完成しており、勝れた働きは遍く満ちている」〈以上、引用。〉[とある通りである。]
いったい、全ての法は各々三性を備えている。たとえば色法一つとっても、遍計[所執]色、依他[起]色、円成[実]色が有る。
依他色
[以下、色に約して三性説を解説する。初めに依他色]
依他色とは、眼に見えるもので、その性質としては、生じては滅するものである。その様相は仮として有り、[実体のない]幻のように事物に似ているが、本体と作用は真実[に実在しているの]ではない。
幻事とは、天竺では幻術に長けている人が、呪術で果物や木に呪いを掛けて牛馬などを現し出す[ことを言う]。
幻師[が術をかける]前には、[幻の]牛馬は[存在せず、]呪術や薬や果物などの条件を待って初めて仮に現れる[が、]真実ではないようなものである。これを依他の喩えとする。[『成唯識論』に]「幻のように事物に似て現ずる」(仮事幻)とあるのはこのことである。
[幻術師の]傍でこれを見ていた人が、[幻を]真実の牛馬だと思うことを遍計所執性に喩える。「実際に事物が有るとか無いとか妄想する」(実事幻)というのはこのことである。
遍計色
次に遍計色とは、依他[の現象である]非真実の事物に対して、実在するものだと思い込む時に現前する事物である。[すなわち、真実に存在していると思い込む]青黄などの[いろや]形の差別を遍計所執色と言う。その本体と作用は本質としては存在せず、求めても得られない。
円成色
次に円成色とは、実有だと思い計らう事物が、本来空であり[本来それ自体で存在しているわけではないという]空によって顕される事物の本性である。その性質としては静寂で、形象を離れ、言葉を離れ、事物のあり方を離れ、事物の様相を離れている。これを円成色と言う。
遍計所執が依他起の上に妄相を取るということ
『成唯識論』(巻八)に次のようにある。
「無始[の過去]以来、心・心所法は自分自身[が変現した]主観と客観とを対象として認識しているのであるが、我(アートマン)と法(構成要素)が実在するという執着と共に活動しているから、実際はさまざまな条件によって、自らの心・心所が変化して仮に現象しているということを知らない。喩えるならば、幻術・陽炎・夢の中の認識対象・鏡に映る影像・光によって作られる影・やまびこ・水に映る月・[諸仏や菩薩の]変化身などのようなものである。[これらは]実在はしていないが、実在するかのように[現象として]存在する」〈以上、引用。〉
注釈
[1] 底本「一切有無諸法」。「有為」の誤りかとも思われるが、涅槃や真如や虚空などの無為法も、凡夫が有るとか無いとか妄想する対象になり得るからここでは有為法と無為法と訳した。
[2] 以下、円成実性の二門については『枢要』に基づく。
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