貞慶『法相初心略要』現代語訳(一) 三時教判について
はじめに
解脱房貞慶(1155〜1213)の作とされる『法相宗初心略要』(二巻、続一巻)は唯識初学者に向けた梗概書である。法相唯識のすぐれた概説書としては孫弟子にあたる良遍(1194〜1252)の『観心覚夢鈔』や『法相二巻抄』が知られ、解説を付した名著も出版されている[1]。しかし、『法相宗初心略要』は一般には知られていない。そこで本稿では、自らの唯識理解を深めるためにも試訳を成さんとするものであるが、自然誤った解釈も多々あると思われる。諸大徳の指南を仰ぐところである。
凡例
底本としては『大日本仏教全書』第八〇巻(仏書刊行会、1915)を用い、訓点や文意の確認のため適宜京大所蔵本を参照した[2]。
()は補足、[]は文意を補うための補足で、いずれも筆者の挿入である。
〈〉は原文中の注や割書を示す。
法相宗初心略要 上
笠置上人御草
三時教判について
[唯識の教判である]三時教には二つの考え方がある。年月の三時と義類の三時である。[さらに、三時については如来在世の三時と如来滅後の三時に分けられる。]
[如来在世の三時]
(一)初時 有教 阿含経等
(二)第二時 空教 般若経等
(三)第三時 中道教 解深密経等
(一)初時
初時は有教であり、『阿含経』などの経典に説かれている。
如来は成道ののち二十一日のうちに鹿野苑において、[苦集滅道の四諦]という法輪を輪じた。そのとき如来は、法[すなわち五蘊・十二処・十八界といった自己や自己の認識する世界の構成要素]は実在するが、自己の本質とされる我(アートマン)においては空であると説き、我有執(アートマンが実在するという執着)を除こうとされた。ここにおいて阿若倶隣(コンダンニャ)など[五人の比丘]は初めて声聞果を証したのである。
問う。我空(アートマンは実在しない)を説いているのだから、これも空教と言うべきであるのに、なぜ有教と言うのか。
答える。法有(アートマンは存在しないが、構成要素は実在する)を説く教えであるから有教と名付けるのだ。
(二)第二時
第二時は空教であり、『般若経』などの経典に説かれている。
初時に苦集滅道の四諦を聞き、我有執を除いたといっても、なお諸法(諸々の構成要素や概念)は実在すると誤る者の執着を除くために、如来は鷲峯山などの四処・十六会中で万法皆空(すべての存在はみな自性を持たない)ということをお説きになられた。この時、[釈迦十大弟子の一人であり、解空第一と呼ばれた]須菩提などの小乗の聖者は漸く大乗の空の理を信じ、理解するようになった。
(三)第三時
第三時は中道教であり、[法相唯識が拠り所とする]『解深密経』などの経典に説かれている。
初時に[法体の]有の教えを聞き、衆生は有に執着してしまった。第二時に[一切法の]空の教えを聞いて、また法空の教えに執着してしまった。これらの教えは偏った有、偏った空の教えであり、未だ中道にかなっていない。如来は法有と一切空との偏った執着を除くために、『解深密経』などの経典の中で唯識中道の旨を説いた。すなわち、心の外に実在する我・法は空であり、存在しないから[偏った]有に非ず、心の内の事理[すなわち依他起性である現象と円成実性としての真理]は有であるから[偏った]空に非ず、有を離れ、空を離れ、正に中道に止まっているのである。
問う。法相の考えでは[上記のような]三時の教えを立てるが、証拠となる法文は有るのか。
答える。『解深密経』にこのようにある。
「勝義生菩薩が仏に対して申し上げた。『世尊は最初に法輪を転ぜられた時、ベナレスの仙人堕所施鹿林中(鹿野苑)において、唯だ声聞乗に向けて発心し趣かんとする者の為に[苦集滅道の]四諦相によって正しい教えを説かれました。…(中略)…また、世尊は昔、第二時には唯だ大乗[である菩薩乗]に向けて発心し趣かんとする者の為に、一切法には皆な自性が無いという教えによって、真意を隠して正しい教えを説かれました。…(中略)…今、この第三時において、[世尊は]普く一切乗に向けて発心し趣かんとする者の為に、明らかな説き方で正しい教えを説かれました。[この第三時の教えは]第一にして甚だ深い教えであり、最も得難いものです。今、世尊が説かれた法こそは、無上無容にして真実完全なる教えなのです」
〈以上、引用〉
また、『瑜伽師地論』摂決択分の中に上記の経文を全て引く。[法相宗の拠り所とする]経と論とは共に[如来の]一代[の教えの浅深を]三時と判ずる。法相宗はこれに依って時教を立てるのである。[中国の]古師は或いは一時、二時、乃至五時を立てるが、これらは全て自らの心中から出たものであり、仏が説かれた経典にはない。淄州大師(慧沼)が「一・二・四・五時教等を説いても、それらは経文にはない。全て従うべきではない」〈以上、引用〉と解説されている通りである[3]。
頓・漸二教の事
(ア)頓教 華厳経
(イ)漸教
初時…阿含経
第二時…般若経
第三時…解深密経、法華経
(ア)頓教
頓教とは『華厳経』[の教え]である。
如来が菩提樹の下で悟りを開かれて十四日目に頓悟大乗[の機根の]菩薩に対して、「三界唯心」の趣旨を説き、[遍計所執性・依他起性・円成実性の]三性中道の理を教えた。
(イ)漸教
漸教には[前に述べたように]三時がある。初時は『阿含経』、第二時は『般若経』、第三時は『解深密経』、『法華経』などである。
如来の本意は唯識中道の意趣にある。だから[菩提樹の下で]悟りを開いた後、すぐに頓悟大乗の菩薩のためにまっさきに三性中道の教えを説いたのである。すなわち、『華厳経』(「十地品」に)「三界唯心」と説いているのがこれ(唯識中道の教え)である。たとえば、太陽が昇るときは真っ先に高山を照らすように[4]、仏が娑婆世界に出現されると、まずすみやかに悟ることのできる資質を持つ者(頓機)のために、至極中道の教えを説いた。
しかし、次第を追って悟る資質を持つ者たち(一類漸悟)は一度に唯識[という真理]を理解できないから、[仏は]初めに有の教えを説き、依[他起性]と円[成実性]の有を顕わし、第二時には空を説いて、遍計所執性の空を悟らせ、第三時には非空非有の教えを説いて我(アートマン)と法(構成要素)が実在しているわけではないが、依[他起性]と円[成実性]は全く無ではないということを悟らせたのである[5]。
けれども、第三時に説かれる唯識と[初時に説かれる]『華厳経』の教えの内容は同じである。いま、頓・漸の二教は[教えの内容の]多分に依ってこれを分けるが、実際は『華厳経』も漸教に通ずる。[『華厳経』が説かれた場には]五百人の声聞もいたからである[6]。また、『解深密経』は実は頓教にも通ずる。この教えによってただちに悟るからである。
問う。『華厳経』という頓教は、漸教の三時中に摂めるべきではないのではないか。
答える。三時中の第三時に摂められる。[『解深密経』と]同じ唯識中道を説いているから、意味(義類)としての理は同じである。だから、内容として[第三時]に相従うのである。しかし、『解深密経』の三時教判については、年月の三時なのか義類の三時なのか、古来より大いに論争となっている。
問う。[慈恩大師基の]『唯識本疏』(『成唯識論述記』)には次のようにある。
「[もし大が小によって起こるならば]即ち三時年月の前後次第がある」〈以上、引用〉この文が年月の三時について言っていることは明らかである。もしこの[文に]よって言うならば、[淄州大師慧沼は]『燈』(『成唯識論了義燈』)の中で「経の三時を弁別するに、前後次第に依拠して言うわけではない。ただ、説かれる意味(義類)に従う」〈以上、引用〉と言う[7]。両文の相違は明らかである。どのように解釈すべきか。
[答える。]解釈の一つとしては、義類と年月とを相兼ねる意味によれば、[両師の解釈に]相違しないだろう。
全ては唯だ識によって変現していること(一切諸法唯識所変事)
第三時の教えは、唯だ心だけ[があり]、認識対象[となる外界]は実在しない(唯識無境)という理を説くことである。つまり、一切諸法はすべて心のはたらき[によって現れ出されている]ということである。
[具体例を挙げれば、]大海や川、[仏教世界で説かれる]須弥山や鉄囲山、[欲界・色界・無色界の]三界や[生き物の生存領域である]六道、長い・短い・四角い・円い[といった形]、青・黄・赤・白[などのいろ]、眼耳鼻舌身[などの感覚器官]などはすべて心の働きである。また、浄土や菩提もすべて我が心の中にある。これらは心によって作り出されたものである。
このように観ることを「唯識」と名づける。
〈以上、在世の三時について終わる。〉
如来滅後の三時
(一)根本分裂と枝末分裂
如来が滅度されて百年間は、仏の教えも一つであった。[しかし、]百年を過ぎると、[マガダ国の]波吒釐子城(パータリプトラ)の鶏薗寺で大天(マハーデーヴァ)[という比丘が阿羅漢未断の]五事を説いたが、年老の聖者たちはこれを許さず、[僧伽は]大衆部と上座部に分かれた(根本分裂)。その後、[仏の滅後]百年から二百年のうちに大衆部は五部に分かれ、二百年から三百年のうちに上座部は十一部に分かれた。この二十部は小乗である。各々『阿含経』などの[小乗]経典に依拠している[8]。
〈以上、初時。〉
(二)龍樹・提婆による空の教え
滅後六百年以降、南天竺に龍猛(龍樹)・提婆の二菩薩が世に出て、般若経の「空」の教えを弘めた。龍猛は『大智度論』を造り『大品般若経』の注釈を行い、提婆菩薩は『百論』等を造って小乗・[仏教以外の教えである]外道の[構成要素やアートマンが実在するという]執着(有見)を除いた。この時、衆生の多くは[全てが無であるという、誤った空の理解に基づく]執着(空著)にとらわれてしまった。
〈以上、第二時。〉
(三)無着・世親による唯識中道の教え
滅後九百年、無著・天親(世親)等の菩薩が世に出て、[唯識という]中道大乗[の教え]を弘めた。
無著菩薩は[神]通[力]に乗じて兜率天に往き、弥勒菩薩に[大乗の教えについて]問い尋ねた。弥勒菩薩は彼の為に『金剛般若経』八十行の偈を説き、[無著は]この時大乗の空観を悟った。その後もしばしば兜率天へ往き、大乗経典の意味を尋ねて[南閻浮提に]還り下り、聞いたところの教えを他の人にも説き教えていた。
[しかし、]聞く人たちの多くは信じなかったため、願を発した。[「願わくは、弥勒慈尊自ら兜率天より降り下り、大乗の教えを説いてくださいますように。そして、衆生が大乗の教えを信じ、実践できますように」と。] 弥勒菩薩は[請に応えてその夜]中インドの阿瑜闍国に[下り、]大光明を放ち、有縁の衆を集めて四ヶ月のあいだ五部の論を説いた[9]。
[五部の論書とは、]
一、 瑜伽師地論
サンスクリット本は四万頌。漢訳して百巻とする。『釈論』
(『瑜伽師地論釈』)〈最勝子等の菩薩造〉が言うには、「[理として極めないものは無く、事として尽くさないものは無く、]文として解き明かさないものは無く、意味として解釈しないものは無く、疑いとして除かないことは無く、執着として破らないものは無く、因として修さないものは無く、果として証さないとのは無い」[という。以上、引用。]
二、 分別瑜伽論
三、 大乗荘厳経論
四、 弁中辺分別論
五、 金剛般若経論[の五つである。]
『燈』(『成唯識論了義燈』)にいわく、「その時無著師は更に[聴聞に集まった]人のために解説した。これによってはじめて人々は大乗の教えの意味を理解することができた」〈以上、引用〉。
その後、天親(世親)菩薩〈無著菩薩の同母弟〉は初め小乗部[に属して]五百論を造った。のち無著の所に詣で、無著菩薩が夜に『華厳経』「十地品」、『大乗阿毘達磨経』「摂大乗品」を読誦するのを聞いて大乗に心を廻らした[10]。
[天親は]先に小乗を学んで[大乗を毀謗したことを]悔い、刀で舌を截ろうとした。無著菩薩は遠く三由旬(三十三キロメートルほど)[離れたところ]にいたが、遥かに片方の手を差し伸べて言った。「どうして舌を截って[大乗を謗った]罪が除かれようか。早く大乗を褒め讃え、[大乗の経論を]説き明かすことによって先の罪を除きなさい」と。天親菩薩は敬って兄に従った。
この時、無著菩薩は『十地経』(『華厳経「十地品」』)と自ら作った『摂大乗論』〈『大乗阿毘達磨経』「摂大乗品」の注釈書〉を天親に渡し、天親菩薩は『十地経論』と『摂大乗論釈』を作った。
その後、[天親は]大乗の論書五百部を造った。『唯識三十頌』はその最後に作ったものである。[その内容はといえば、]「万象を一字に含め、千の教えを一言に備える。説くところの道は多くの典籍を超え、名声は諸々の聖人たちの間で輝いている」[11]。
〈以上三時について終わる。以上、滅後の三時終わる。〉
注釈
[1] 太田久紀『仏典講座 観心覚夢鈔』(大蔵出版、2001)、竹村牧男『唯識のこころ』(春秋社、2001)横山紘一『唯識とは何か』(春秋社、2005)などがある。
[2] 佐伯定胤旧蔵(本人の手による書写本か)。康正三年(1457)実英の書写奥書有り。(https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00019337)
[3] 『成唯識論了義燈』巻第一。
[4] 『華厳経』「如来性起品」、『華厳経探玄記』巻第一。
[5] 初時・第二時・第三時をそれぞれ依他起性と円成実性の有、遍計所執性の無、依他起性における我法二空によって円成実性が顕れるという三性説に則って説明するのは貞慶独自の考えか。通常初時は我空法有、第二時は一切皆空を密意をもって説いたとして、三無性説を配当する。
[6] 『華厳経』「入法界品」。ただし、舎利弗ら五百人の声聞は教えの意味を全く理解できなかったという。
[7] 『成唯識論了義燈』巻第七。
[8] 以下、釈迦滅後の部派の分立については『成唯識論了義燈』巻第一および『異部宗輪論』に基づく。大天の「五事」については『大毘婆沙論』巻九十九に詳しい。
[9] 『了義燈』巻第一や『婆薮槃豆法師伝』によれば『十七地論』(『瑜伽師地論』)のみを説いたことになっている。
[10] 以下、天親の事績については『枢要』に基づく。また、『婆薮槃豆法師伝』によれば天神が属したのは説一切有部という。
[11]『成唯識論掌中枢要』からの引用。