『太平記』巻二十七「雲景未来記の事」現代語訳
凡例
現代語訳の底本には兵藤裕己校注、岩波文庫本『太平記』(四)「雲景未来記の事」を使用した。
本文中の [] 内は、内容を分かりやすくするため訳者が補った部分である。
[1] などの数字は、他本との本文異同について校合した部分である。なお、使用した本文については文末「『太平記』参照本文」を看られたい。
【1】 などの数字は、本文に対する注釈である。
現代語訳 雲景未来記の事
またこの頃、天下に比べるものがないほど不思議な出来事があった。出羽国羽黒山というところに、雲景という一人の山伏がいた。[その雲景が]世にも珍しいできごとに出逢い[そのできごとが偽りでない証として]、熊野の牛王宝印の裏に起請文を書き添えて世に出した未来記があった。
この雲景は修行をしながら諸国を見て廻ろうという志があり、春の頃から思い立って都に上り新熊野に移住して花の都の名所・旧跡を巡礼していたところ、貞和五年(1349)六月二十六日[1] のことであったが、まずは天龍寺を一度見たいと思い、京都の西の郊外、嵯峨野のあたりへと向かった。太政官庁の跡地付近で六十歳ほどの山伏一人と行き連れになった。この山伏が雲景に「貴殿はどこへ行かれるのか」と問いかけたので、[雲景は]「わたしは[諸国一見の者ですが [2]、]近ごろ朝廷・幕府の崇敬によって建立された大伽藍だということですので、一目見たいと思い天龍寺へ参詣しようとしているのです」と答えた。この行き連れの山伏が言うには、「天龍寺もよいが、そこは夢窓疎石の住んでいるところで大した見どころはない。わたしが住んでいる山こそ日本の中で並ぶものがないほどの霊地です。修行の思い出に、さあ、お見せ致しましょう」ということで、天龍寺から誘われて行くほどに、愛宕という高峰に到着した。
[山伏の言うとおり]仏閣は誠に麗しく華やかで、床には美しい玉を敷き、金がちりばめられている[ような]立派さだった。[雲景は]信心肝に銘じ、身の毛がよだつほど貴く思い、このままここで修行したいとさえ思っていたところ、この山伏が雲景の袖を取って「ここまでいらっしゃった思い出に、秘所をお見せ致しましょう。さあ」というので本堂の後ろの辺り、座主の僧坊とおぼしき所へ行ってみると、これまた大変すぐれた住処であった。そこへ行って見てみると、[高位の]人が多く座っていらっしゃる。衣冠束帯して金の笏を持っている人も居れば、貴僧高僧の姿をして香染めの僧衣を着ている人もいた [3] 。
雲景が恐縮しながら広縁に蹲踞していたところ [4]、別の座に山伏が八人おり、一緒に来た山伏もその中に座っていた。その座の[最上座の]山伏が [5]雲景を見て「どこからいらっしゃった旅の方か」と問いかけたので、雲景は [6]「しかじか」と事情を答えた。[上座の山伏は [7]]「ならばこの間の京都の出来事を見聞きされたでしょう。どのようなことがありましたか。また、口さがない京童はどのようなことを噂していますか」と質問した。
[そこで雲景は]「特別なことはございません。この頃はただ、四条河原の桟敷が倒れて、大勢の人が打ち殺されたことをこそ、昔も今もこのようなことは無かった。天狗のしわざに違いないと言い合っておりますが【1】、そのほかのことは何もございません。ただ、将軍(足利尊氏)と三条殿(足利直義)とが執事(高師直)の事によって不仲であると申しております。このことで天下の大事にもなるのではないかとも、とりとめのない噂を申しておりますが、私などではわからないことでございますから詳しくは存じません」と言ったところ、
[上座の山伏は]「そのようなこともあるでしょう。四条の桟敷[の倒壊]は天狗などにできるようなことではないのです。というのは、現職の関白殿(二条良基)はかたじけなくも天津児屋根尊の御末裔に当たり、天皇補佐の大臣として大変高貴な方でいらっしゃる。また梶井宮(尊胤法親王)も、正しく今上天皇(崇光天皇)・東宮(直仁親王)に連なる貴い家系で【2】、三塔のトップ、天台座主として国家護持の棟梁、顕教・密教[を包摂する一乗]円宗の主でいらっしゃる。将軍というのも、武家の首長・天下を守護する征夷大将軍である。ところがこの桟敷といえば、橋の勧進のために遁世頭陀の世捨て人が興行したもので、見物の者というのも、京中の商人、雑役法師、下部ども、よくて普通の侍に過ぎない。そうしたところに日本一州を統治すべき貴人が打ち交じり、[身分の低い者と]雑居なさったため、正八幡大菩薩、春日大明神、山王権現がお嘆きになった。これによって地面をお支えになっている堅牢地神が驚かれたため、その勢いに応じて[桟敷が]崩れたのです。私もその頃京に出ていたのですが、村雲の僧に申すことがあって赴いたところ、斎などで大層もてなされ、時刻が過ぎたため見ておりません [8]」と言うので、
雲景、「さて、この頃村雲の僧(妙吉)【3】といって行徳も権勢も世間に知られているのは、どのような方なのでしょうか。京童部がもっぱら天狗でいらっしゃるなどと言っておりますのは、どのようなわけでしょうか」と質問したところ、この老僧(山伏)が言うには、
「それはもっともなことです。かの僧はこの頃才知に優れた人ですから、天狗の中から選び出して乱世の仲介者として遣わしたのです。[役目どおり]世の中が乱れたので、本の住所に帰るに違いない。そういうわけで、[住むべき]場所も多いのに村雲という処に住んでいるのでしょう。雲は天狗の乗り物であるから、かの[村雲の]地に住んでいるのです。このような事は決して人に知らせてはなりません。[雲景が]このような所まで尋ねてこられたので詳しくお話するのです」と語った [9]。
雲景は不思議なことと思い、天下の大事、未来の安否について質問しようと思って詳しく尋ねたところ、[上座の山伏]「三条殿と執事との不仲は、一、二ヶ月を過ぎず、一大事になるだろう」と答えた。雲景が重ねてその[両者の]理非について尋ねると、[上座の山伏]「どちらの道理とも言い難い。なぜならば、この人々が世の中の政治を行うようになった始めには [10]『[我々がたとえ一日であっても天下[の政]を執るならば、良い政治を行うものを』と思っていたのに、[富貴が身に満ちて後は [10]]上が道理に暗ければ下も媚び諂い、万事公平でないため、神明・三宝のご照覧に背き、人望を失ったことによって、自分の非を[省みず]棚に上げて[お互いに]誹り合う心があるのは、獅子身中の虫が獅子を喰らうようなものである。ときたま[彼らが]仁政と思うことがあったとしても仁政ではなく、ただ人の嘆きとなるだけである。
いったい仁というのは、恵みを天下に遍く施し、深く民を憐れむことを仁というのである。政とは道である。筋道を立てて国を治め、[治国のために才能ある]人を登用して[その人物の]深浅を知り、その一方で、善悪において公私を混同せず、公平に民を養育することを政というのである。にもかかわらず、[近日の [12]]政はまったくこれ(仁政の定義)に適っていない。内心は欲深く勝手気ままで、君臣・父子の礼儀すらわきまえていない。ましてやその他の徳のある政治や[民を]憐れみ、施すことについてはなおさらである [10]。政道を執り行うといっても、みな世を奪い、人の財を我が物にしようと思うばかりで、[仁政といっても]すべてうわべだけに過ぎない。仏神はよくご存知であるから、もくろんでいることも叶わず、前世の行いによる果報の浅深によってわずかに世[の政道]を執り行い、国を保つ者がいたとしても、[かりそめであって]真実のことではない。そうであるから、世の中を正しく治め、運を長く保つ者は一人もいない。[徳の高い]先代の君 [14]を軽んじ、仏神をさえ恐れない末の世であるから、ましてその他の政道はどんなことがあろうか[と思い知られる]。というわけで、悪逆のさまに違いはあっても、ねたみ非難しあう輩はいずれも区別なく滅びることは疑いない。たとえば、山賊と海賊とが寄り集まって、お互いに犯罪の軽重を非難しあうようなものである。
ところで、近年武家が世の政を行うことは、頼朝卿以来、高時に至るまですでに十一代に及ぶ【4】。蛮夷の卑しい身分として世の中の主となることは本来必ずしもあるべきことではないものの、徳の薄れた末世の表れであるからどうにもならない。時勢と事象とはただ一世の道理ではない[前世からの因縁がある]【5】。臣下が君主を殺し、子が父を殺し、力をもって争う時が来たために、下剋上【6】の一端として、摂関も大臣も天皇もすべて力を得ず、身分が低く卑しい武士が天下を併呑し、こうして天下は武家のものとなった。こうした事態は誰のしわざでもなく、[下るにつれて悪くなる]時代と人の資質とによって胚胎し、[過去世の]原因[による]結果と[善悪の]行為による報いの時が至ったため[そうなったの]である。君(後鳥羽院)を遠島へ配流し奉り、悪を天下に行った北条義時はあきれるほど嘆かわしいけれども、過去世からの因縁がある程は子孫まで極まりなく栄え輝いた。[その子孫も]また、身の及ぶかぎり力を尽くして政道を行い、己を責めて徳を施したので、国も豊かとなり民も苦しまなかった。しかし、前世からの果報がもはや尽きようとする時、天の意志に背き、仏神がお見捨てになった時を得て先朝(後醍醐天皇)が高時を追伐なさったが、これは必ずしも後醍醐院の天子としての徳が極まったわけではなく、自滅の時が到来したのである【7】。古き良き上代、仁徳も今の君主より優れていらした後鳥羽院の御代には、上の威勢も強く、下の勢力は弱かったけれども、下(義時)が勝ち、上(後鳥羽院)は負けた。今は末世の乱れた時代であるけれども、下が勝つことはできず、上も負けることはないのは、身分の高下によらず、運の興廃ひとつによるのであろう。ここをもって[今後の世の中の道理を]心得なさるのがよいでしょう」と答えたので、
雲景が重ねて言うには、「先代(北条氏)の運が尽きて滅んだのならば、どうして先朝(後醍醐天皇)の御代は長く続かなかったのでしょうか」と質問したところ、[上座の山伏]「それもまた理由のあることです。先朝もずいぶん賢王の行いに倣われたけれども 、真実の仁徳や民を憐れむ叡慮はすべて無かった。断絶・廃絶した[朝儀を]再興し【8】、神明仏陀への御帰依があるように見えるけれども [15]、うわべだけであって、真心からではいらっしゃらなかった【9】。とはいえ、そのような[真実の仁徳を備え、民を思い遣る]賢王は末代に居るはずもないので、何事につけても立派な[賢王の]振る舞いをまねるのであろう。こうして、しばらくの間ではあったけれども、[後醍醐天皇は]このような[賢王の振る舞いをまねる]ことによって、天子として[幕府を滅ぼすだけの]ご器量に当たり、運が傾く高時に対して、消えかけた灯に対する扇におなりになって、滅ぼされたのである。その道理に応じて代々繁栄し、天下に威を振るった先代を滅ぼされたけれども、真実には尭舜のような治績も無く、天子の明徳も備わっていらっしゃらなかったため、高時にも劣る足利に治世を奪われてしまわれた。
今、持明院殿は、かえって政権を執り、運を開く武家に順われて、ひたすらに幼児が乳母を憑むように、奴僕に等しくなられて、政道の善悪の判断も無く [16]、運によって形ばかりは無事でいらっしゃる。これも[持明院殿の]ご本意ではないでしょうが、道理も欲心も共に打ち捨てていらっしゃるので、末代の悪世にあってはかえって御運をお開きになるだろう。ともあれ王の履むべき正しい道(王法)は我が国においては平家の末から尽き果てて、武家の運に依らなければ立ち行かないのに、[後鳥羽院は]そのことをお悟りにならず、[民を慈しむ]仁徳や天皇としての徳も昔[の賢王聖主]に及ばないのに、天下の政を行おうという御欲心だけを先として[武家を排除し]世の中を本来あるべき公家の世に戻そうとして、末世の機運が武家に掌握されることをお悟りにならなかったため、後鳥羽院の御謀叛はむなしく終わり、朝廷の威勢もその時(承久の乱の敗北)から地に落ち、泥や灰にまみれた。それゆえ、その[後鳥羽院の]お心を安んじようと先朝(後醍醐天皇)が高時を滅ぼされたにもかかわらず【10】、朝廷が天下の政をお執りになることはやはりなかったのである。
ところで、三種の神器はわが国の宝として神代から伝わる[天子としての]しるしであり、国を治めるお守りもこの神器である。これは伝来をもってその証とする。ところが、今の王者(崇光天皇)がこの神器を伝受せずして践祚なさったことは【11】、[天子としてのしるしを備えなかったために]真実の王位とも言い難い。それでもさすがに三つの重事(即位式・御禊・大嘗会)を執り行われたため【12】、天照太神もお守りになるだろうと憑もしい所もある。この神器が、我が国の宝として神代の始めから人皇の今に至るまで伝来されていることは、[日本国は]実に小国であるといっても[天竺・震旦・日本の]三国に超越する我が朝神国の不思議なことである。それゆえ、この神器がない時代はまるで月が没した後の明け方のよう[な暗さ]である。末代の証として、神祇が王法を見捨てなさったことを[神器の喪失をもって]知るべきである。
この重器は平家滅亡の時、安徳天皇が西海に送り奉り[安徳天皇と共に入水して]海底に沈められた時、神璽と神鏡は取り返し奉ったけれども、宝剣はついに沈み失せてしまった。そこで、王法は悪王である安徳天皇の御代までに失せ果ててしまった。その証拠がこの[神剣の喪失のこと]である。なぜならば、後鳥羽院は初めて三種の神器を備えずして[院宣によって]元暦(正しくは寿永二年)に践祚されたが、その末裔の方々が皇統の継承者として今に至るまで受け継がれていることはすぐれた模範であると言えるけれども、今思えばかの元暦の頃に正しく我が朝に武家が初めて設置され、[武家が]天下に号令を発して、君王をないがしろにするような事が出来し始めた。それゆえ、王道に武運が欠けたしるしとして、宝剣はその時までに失われてしまった。そのため、武家の勢威が盛んになって、国家を奪ったのである【13】。しかしながら、[王道に武運が欠けて]武家が自分自身の考え通りに天下の政を司ったといっても、王位も学問の道も残ったがために、鎌倉幕府は慣習通り政道を掌り、君王をも崇め奉る様子で諸国に惣追捕使を設置したが、役所の要銭や公の租税、仏神が領地する[寺社の]土地や[公家の]相伝の所領には手を付けず、望ましいさまであったけれども、時期が熟して過去世の[善悪の]果報が発現するものであるから、後醍醐院が[慣習通り政治を行い、君王を崇め奉るようにして、寺社や公家の所領も横領しなかった]武家(鎌倉幕府)を亡ぼされたことによって[かえって]ますます王道が衰えて、朝廷は悉く廃れてしまった。
この時を契機として、三種の神器はむなしくつたない機運の[南朝の天皇に]随って、むなしく京都の外[吉野の]片田舎にまぎれてしまわれた。これこそ神明がわが国をお捨てになり【14】、王権の勢威が残る処なく尽きた表われである。これは元暦の安徳天皇の御代[に西海に神器を移し奉り、安徳天皇と共に神剣が海に沈んだこと]と同じである。国を譲られた主(北朝の帝)に[神器が]随行されないのは、[神が]国を守らない予兆である。[神器を随行している南朝が、天下を北朝の]主に奪われなさったことは [17]、[神器を]随行されたといっても、神明がその主をお守りにならない現証である [18]。であるから、今の代は王法が尽きて、神の御心にも叶うことも[自然の加護も]無いのだ」というので、
雲景が重ねていうには「それにしても、その[雲景がいうような、王威が尽き神も守らない]ような世の中であるならば、致し方のないことですが、今、この[世間の [19]]人がうわさしている武家主従(直義と師直)の対立は結局どちらが勝利するのでしょうか。また、仏神のお計らいもないのでしょうか」と言えば、
[上座の山伏]「さあ。そればかりは、仏神でなくしてはどうして未来を知ることができるだろうか。しかし、村雲の僧(妙吉)が事態が差し迫っていると言ってきているのできっと目を驚かすほどの珍事は出来するだろう。さきほど申した通り、いずれかに道理があり非があるかについては、結局末世の[人の]風俗は上下ともに道理にはずれたよこしまな振る舞いをするので、どちらに理があるとも言い難い。なぜならば、[事実]武家が天皇を軽んじ奉るから[武家の]執事や家人たちも将軍を侮るのは、末世においては同じことであってあり得ないことではない。というわけで、この度は大地が天を呑み込むというような事があるだろう。[今は]まさしく下剋上の時分であって、下[である師直]が勝つであろう」と言うので、
雲景は重ねて「そうであるならば、下が勝つ道理で、道理に外れた事が上に起きて、[下が]天下を思う通りに治めるのでしょうか」と聞いた。上座の山伏は、「いや、そうでもないであろう。末世乱悪ということでまず下が勝って上[の権威]を犯すだろう。しかし、上を犯す罪科も逃れ難いので、更に下はその罪科に伏することになるだろう。その後、今の世の中の公家・武家の立場はたちまちに異変があって、大きな逆乱があるに違いない [20]」と言うので、
[雲景]「それならば、武家の時代が尽きて[南朝の]君が天下をお治めになるのでしょうか」と質問したところ、[上座の山伏]「さあ、それはわからない。今日明日に武運が尽きるべき時分でもないから、南朝【15】が世をお治めになることはどうであろうか。[ともかく]天下の変事は近いうちに起こるだろう [21]」と言うので、[雲景が]重ねて未来の事を訪ねようとしたところ、「客人が来た [22] 」ということでにわかに慌ただしくなったので、雲景も暇乞いして[僧房を]立ち出でたが、雲景を[愛宕山に]誘った僧に向かって「今しがた、このように世間の事を鏡に映して見るようにおっしゃった方は、どなたでしょうか」と尋ねたところ、
[山伏]「今は何を隠しましょう。それは天下に名高い愛宕山の太郎房【16】でいらっしゃる。上座の上綱は、諸宗の人が集まって、徳行も名望も世に聞こえた、玄昉【17】・真済【18】・寛朝【19】・慈恵【20】・頼豪【21】・仁海【22】・尊雲【23】などの高僧たちだ。その上の座席に、玉座を敷き並べて[座って]いらっしゃるのは、代々の帝王、[すなわち]淡路の廃帝(淳仁天皇)【24】、後鳥羽院【25】、後醍醐院【26】だ。[彼らはみな]順序を追って昇進を遂げて悪魔王の棟梁になられた、やんごとなき賢帝たちである」と説明した。雲景は聞くやいなや身の毛がよだち、恐れながら暇乞いをして [23]、いま寺の門をふと出たかと思えば、夢が覚めたような心地がして、大内裏の跡地【27】、[神祇官の]大庭の椋木の下に立っていたのだった【28】。
茫然自失の状態で[新熊野の]宿坊にたどり着き、心を落ち着かせてあの不思議な出来事を思うに、「私は間違いなく天狗道に行ったのだ。末代にはわたくし如き愚かで物事の道理に暗い者が[天狗道に行くことは]めったに無いことである」と考えて、あの天狗が言ったことの、肝に銘じたあちこちを、思い出すに任せて書き留めた。一方では末代までの語り草に、もう一方では今の世の用心にもなればよいと考え、一筆に記し、起請文を添えて、その末尾に「貞和五年閏六月三日」と書き記したのであった [24]。
さて、誠に天狗の言うように、神が慈悲の御眦を廻らされたのだろうか、先に四條大橋[の勧進田楽]で桟敷が崩れて多くの人が打ち殺されたのは、六月十一日のことであったが、その次の日、夜になって激しい大雨が降り、洪水は大海のようになり、昨日の河原[で死んだ]死人どもの穢れや不浄を洗い流して、十四日の祇園御霊会の巡行の路を清めたことは不思議であった【29】。天龍八部[護法の眷属]が悉く霊神(祇園社)の威力に感服して清浄の雨を降らせたことを、どうして末世と言えようか(末世ではない)と思わない人はいなかった [25]【30】。
他本との本文異同
[1] 神田本、梵舜本、天正本、流布本などすべて「六月廿日」
[2] 流布本「是ハ諸国一見ノ者ニテ候カ、公家武家ノ崇敬アリテ。建立アル大伽藍ニテ候ナレハ…」とあるのに従って補った。鷲尾順敬校訂の西源院本は「是時公家武家ノ崇敬アリテ…」とあるのを神田本によって「是(ハ當脱カ)時」と注を入れており、岩波文庫本はこの注に従って本文化したようである。文脈的には流布本のほうが自然。
[3] 梵舜本、天正本、流布本「御座ヲ二怗布タルニ、大ナル金ノ鵄、羽ヲ刷ヒテ着座シタリ。右ノ傍ニハ、長八尺許ナル男ノ大弓大矢ヲ横ヘタルカ畏テソ候ケル。左ノ一座ニハ、袞龍ノ御衣ニ日月星辰ヲ鮮カニ織タルヲ着給ヘル人、金ノ笏ヲ持テ並居タリ」
[4] 梵舜本、天正本、流布本、ここで貴人・高僧の正体が明かされる。神田本・西源院本では後段にまとめて紹介があるが、源為朝・崇徳院・井上皇后は登場しない。
座敷ノ躰餘リニ怖シク不思議ニテ、引導ノ山伏ニ如何ナル御座敷候ソト問ヘハ、山伏答ヘケルハ、上座ナル金ノ鵄コソ崇徳院ニテ渡セ給ヘ。其傍ナル大男コソ、為義入道ノ八男、八郎冠者為朝ヨ。左ノ御座コソ、代々ノ帝王、淡路ノ廃帝、井上皇后、後鳥羽院、後醍醐院、次第ノ登位ヲ遂テ悪魔王ノ棟梁ト成給フ、无止事賢帝達ヨ。…(中略)…高僧達同大魔王ト成テ今爰ニ集リ、天下ヲ乱スヘキ評定ニテ有トソ語ケル。
[5] 底本「一座に候ける山伏」。梵舜本、天正本、流布本「一座ノ宿老山伏」
[6] 梵舜本、天正本、流布本「引導ノ山伏、シカ〳〵ト申ケル」
[7] 梵舜本、流布本「其時此老僧會尺シテ」
[8] 底本「この僧も、その比京に罷り出でしかども、村雲の僧に申すべき事あつて罷りしに…」天正本「我等モ見物ノ為ニ罷出シカ、村雲ノ僧ニ申ヘキ事有テ立寄シニ、トカク時剋遷テ見侍ストソ申ケル」とあり、天正本では話し手も四条河原の勧進田楽を見に京都に行ったことになっている。
[9] 天正本「其モ一往ハ謂タリ。其僧チトサカシキ人ナレハ、我慢之心モ有ラム。然レハ又天狗ニ値遇セム事モ何疑カ可有。村雲ト云所ニ住所ヲ構タルモ様有ト思ヘシトソ答ケル」とあり、妙吉=乱世の媒として遣わされた天狗とする他本とは距離がある。天正本は巻二十六「大塔宮の亡霊胎内に宿る事」を承けてこのように述べるか。
[10] 天正本「此人々不肖也シ時ハ…」流布本「此ノ人々身ノ難ニ逢不肖ナル時ハ…」
[11] 流布本「富貴充満ノ後ハ、古ノ有増一事モ通ラス…」に従って補った。梵舜本、天正本もほぼ同じ。
[12] 神田本「而ニ近日政徳聊も不如此…」。これによって補った。
[13] 天正本「欲心放逸ニシテ君臣父子之道ヲモ不弁、只人之財ヲ我ニセント計之心ナレハ、矯餝ナラスト云事ナシ」。流布本もほぼ同文で、西源院本の「況んや~政道を沙汰すと雖も」という文が存在しない。
[14] 流布本「君ヲ」。天正本では「抑先代ハ蛮夷之卑身也シカ共、天下ヲ我ママニ持事、涯分ノ政道ヲ瑩、己ヲ責テ徳ヲ施シカハ、国豊ニ民モ不苦ニ、高時先蹤ヲ忘テ義ニ背シカハ、聖徳モ権威モ後鳥羽院ニハ劣給ヘル先朝ニ家ヲ亡レヌ。」とあり、後鳥羽院が義時に敗れ、後醍醐が鎌倉幕府を滅ぼしたものの、足利尊氏によって吉野に追われた理由を語る段に直接繋がる。他本では鎌倉幕府は滅ぶべき時が来て滅んだというのに対して、高時は義に背いたために滅ぼされたのだという徳治思想が伺え、本文を省略した都合上、後醍醐は後鳥羽院にも劣るとするなど内容も異なる。
[15] 神田本「先朝ハ随分賢王ノ行ヲセントシ給ヒシカトモ…」梵舜本、流布本も同じ。
[16] 梵舜本「仁道ノ善悪ニ依テ還テ如形安全ニ御坐者也」流布本も同じ。文脈を考えると西源院本・神田本の本文がよい。
[17] 西源院本「主に奪われ給しかば、随い給へども、神明その主を守り給わざる現証なり」神田本も同文。おそらく欠文があり、このままでは意味が通らないが、文脈から案ずるに「南朝方は天下を北朝に奪われたため、たとえ神器を所有していてもその主を守護するわけではない」などとあるべきであろう。
[18] 梵舜本「国ヲ受ケ給フ主ニ随給ハヌハ、國ヲ不守ヲ(ヲ衍字カ)験也。サレハ、神道王法共ニ无キ代ナレハ、上廃レ下驕ヲ是非ヲ弁ル事ナシ。然レハ師直師泰カ安否、将軍ノ通塞モ弁難シトソ語リケル」流布本ほぼ同文。天正本も梵舜本と同じような本文を持つ。西源院本・神田本にある注12の文が無く、雲景の質問が削除されている。また、武家が天皇を敬わないので、その配下も将軍を敬わないという老僧の発言は後段に移動している。
[19] 神田本「今比人ノ…」に従って補った。
[20] 梵舜本「其故ハ、将軍兄弟モ可奉敬一人君主ヲ軽シ給ヘハ、執事其外ノ家人等モ、又武将ヲ軽ンス因果ノ道理也。サレハ地口天心ヲ呑ト云変アレハ、何カモ下剋上ノ謂ニテ、師直先可勝。自是天下大ニ乱テ父子兄弟怨讎ヲ結ヒ、政道聊カモ有マシケレハ、世上モ无左右静リ難シトソ申ケル」。流布本ほぼ同文。天正本もほぼ同文だが、続けて南朝についても「南方ノ君コソ正ク日本國之主」と高く評価し、正平の一統を予言するなど独自の本文が見える。
[21] 天正本
雲景希代之事哉ト思ケレハ、サ候ハンニハ天下加様ニ乱テ君臣之儀モ無ク、政道カリニモ行ナハレスハ、南朝之君御出有テ、天下ヲ治サセ給ヘキカト問エハ、サノミ如何カ佛神之智恵ニテモ有ハコソ、其マテヲハ知ヘキ。凡ハ南方ノ君コソ正ク日本國之主ニテ、天子之御譲ヲ重器ニテ受サセ給タレハ、摂家・凡人・名家之人何モ家督・惣領ト云人ハ、今モ彼君ニコソ付順テ御座。其道理ヲ云ヘクハ、御治世何ノ疑カ有ヘキ。サレ共、其ハ時剋未タ至。何様天下ノ大変目ヲ驚ス程ノ珎事ハ百日カ中ヲ不可過トソ申ケル。
[22] 天正本「俄ニ大人高客ノ来トテ…」
[23] 梵舜本、流布本では山伏が太郎房の正体を明かした後「尚モ天下ノ安危国ノ治乱ヲ問ントスル処ニ、俄ニ猛火燃来テ、座中ノ客七顚八倒スル程ニ、門外ヘ走出ルト思ヒタレハ」と続き、大内裏の跡地に立っていたという文につながる。
[24] 天正本「傳奏ニ付テ進覧ス」と、伝奏に渡して朝廷に提出したことになっている。
[25] 天正本では祇園社巡行の記事の後、未来記を奏上した後日譚として独自の本文を載せる。
サル程ニ、此天狗未来記ハ事誠シカラスト謂ナカラ、百日之中ノ大変ヲ指上ハ、実否是ニ過タル證拠有カタシ。暫是ヲ待是(衍字カ)テコソ其披露モ有ヘケレ。就中憚ノ事共多ケレハ、多聞ニ及カタシトテ、傳奏、洞院相國公賢公ニソ被返下ケル。末代乱慢之折節ハ有難不思議カナト謂ヌ人コソ無リケレ。
注釈
【1】 慶政と九条家の女房に取り憑いた比良山の大天狗との問答を記す『比良山古人霊託』に「いかにしてか世を久しく持ちて、災難に遇はざる事有るべきや」という質問に対して、天狗が「答ふ。見物を好まずだにおはしまさば、非順の災難は来るべからざるなり。白拍子の様に、我等が興ずる事は無きなり。さやうの処には、引集する天狗どもが、非順の事を引き出すなり」と答えていることは重要である。天狗が芸能を好むこと、芸能興行の場所では天狗によって「非順の災難」が起こされる。ゆえに貴人が見物の場に近づくべきではないと観念されているのである。「雲景未来記」において太郎房は桟敷倒壊の理由を、関白、天台座主、征夷大将軍が見物のため雑人と同居したことによって神の怒りを招いたためとしている。
【2】「今上」を光明天皇、「太子」を興仁親王とする岩波文庫本の注釈は誤り。崇光天皇は貞和四年十月二十七日に践祚している。崇光天皇の践祚および直仁親王の立太子は『太平記』でも巻二十六「持明院殿御即位の事」に見える。
【3】妙吉についての史料は極めて少ない。『園大暦』貞和五年閏六月三日条は三条坊門の足利直義亭付近の騒動は直義と高師直との対立によると記し、その対立は「武家仰信禅僧妙吉」の申沙汰によるという「閭巷浮説」を記しているが、記主はまったく信用していない。同四日条では前大外記中原師治からの伝聞として妙吉が三日の朝に京都から逐電したことを記す。行先については、参籠のため石清水八幡宮に赴いた、美作国に下向したなど諸説あるが、実は直義の使者として備後の直冬の許に向かったのだという。これ以降、史料上に妙吉の動向は確認できない。「雲景未来記の事」において、雲景が起請文に自身が体験したできごとを記した日付にも「貞和五年閏六月三日」とあり、妙吉の逐電と関係があると思われる。
ところで、『太平記』巻二十七「妙吉侍者の事」によれば、妙吉は仁和寺の志一房に荼枳尼天法を習い、その法力によって夢窓疎石や足利直義に取り入ったと記されている。これに関して、尊円入道親王編の『門葉記』巻第七には貞和六年十一月十八日に開始された、足利義詮の所労に伴う冥道供の次第について記されている。義詮は修法の甲斐なく同年十二月七日に逝去するが、それは義詮が「生阿」という「吉侍者門弟として外法の器定」であった医僧を信任し、他の医者に治療をさせなかったからである、と心有る輩は傷嗟反肩したと記している。妙吉が外法を行じていたかはともかく、当時そういった噂があったことは確かである。禅僧が密教修法を行うことは奇異に思えるが、大休寺が建立される以前、覚盛の弟子・浄海上人によって建立された「一条雲寺」という律宗寺院がすでに存在しており、妙吉も禅僧となる以前はその寺に所属する唐招提寺派の律僧だった可能性があるという(細川2002)。
この推測に従うならば、妙吉が密教修法を行っていても不自然ではない。『太平記』における妙吉-天狗、妙吉-外法という描写は、史料に伺える当時の反応や評判を膨らませたものであると考えられる。
【4】 頼朝・頼家・実朝・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時の十一代。北条氏嫡流の代数については時政から数える場合と、承久の乱を画期として義時から数える場合があり、更に家督を相続せず急死した時氏を代数に含めるのは、北条氏を九代で滅んだ平家に重ねる『太平記』の作為であるという(田辺2020)。
【5】 底本「時代機根に相萌して、因果業報の時至るゆゑなり」「機根」は仏教語で、人々の資質や能力を指す。ここは時代と人々の資質が条件や間接的な原因(縁)となって善悪の業(因)の報い(果、業報)が発現すると解釈すべきである。
【6】 「下剋上」という語はもともと中国の五行思想に基づく語であり、出典は隋の蕭吉『五行大義』巻二である。『五行大義』は『続日本紀』天平宝宇元年十一月に「陰陽生者、『周易』、『新撰陰陽書』、『黄帝金匱』、『五行大義』」と陰陽生のテキストとして指定され、陰陽家たちの間で流通していた。「下剋上」という語はもともとは「下、上に剋つ」とあるように成語化されていなかったが、鎌倉時代後期~南北朝時代にかけて熟語としての用例が定着してゆく。例えば『源平盛衰記』巻六「入道院参企事」や巻二十六「馬尾鼠巣例」、前田家本『水鏡』の「四十八代大炊天皇、恵美大臣被打被渡首於京都事」に熟語としての用例が伺える。また日蓮『善無畏抄』(文永三年、1266年)にも法然の念仏為本、諸宗方便を批判する文脈で「世間の法には下剋上・背上向下は国土亡乱の因縁也」とあり、これが早い例であろう。「下剋上」は『二条河原落書』にも見えるように、南北朝時代における身分制度の超克を象徴する語として説明されることもあったが、用例としては荘官が百姓の行動を指弾するために使用するケースもあり、「悪党」という語と同じように、特定の時代に限定される用語ではなく、社会的上位者がその社会の下位者の行動に付与する一方的なレッテルに近いものである(福尾1976)。
【7】 鎌倉幕府は滅ぶべき時が来たために滅んだのだという言説については和田(2015)を参照。ただし、「雲景未来記の事」においては、前世の善悪業である因が、縁(間接的原因、条件)としての時節を得て結果を生じるという論理展開になっているため、時節論も結局は仏教的因果論の中に包摂されると考えられる。時節による滅亡については『太平記』の中では巻五「弁財天影向の事」にも高時が田楽や闘犬などに熱中する理由について、北条時政が江ノ島の弁財天から子孫七代までは繁栄するだろうと予言されたことを受けて「滅ぶべき時分到来して不思議の振る舞いをの振る舞ひをもせられけるかと覚えたり」と述べている。『太平記』では高時は得宗家九代目とされる。なお、この時政が江ノ島弁財天に参籠し、七代まで子孫の繫栄を予言されたという説話については無住『雑談集』にも同様の記述がある。
『門葉記』巻七十には、明王院別当・前権僧正良斅を阿闍梨として、正慶二年(1333)閏二月十五日に北条高時亭で行われた冥道供の記録が載っている。この修法は幕府軍による千早・金剛山・吉野攻めの最中に「大塔宮・柿(楠カ)木事」によって天下太平を祈願して行われたが、その甲斐なく鎌倉幕府は滅亡してしまった。尊円は「凡そ今度の御祈、関東止住の僧侶大小法数を尽くすと雖も験無きが如し。一天下大乱の上は、無力の次第なり。関東滅亡の時節、時至る者かな」とコメントしている。仏教的因果論の範疇とはいえ、鎌倉幕府は滅ぶべき時節が到来したため滅んだという説明は、突然の幕府滅亡をなんとか理解しようとするものであっただろう。
【8】 後醍醐天皇の朝儀再興については『太平記』巻一「後醍醐天皇武臣を亡ぼすべき御企ての事」に見える。また、『建武年中行事』は建武の新政に際して朝儀再興のために著されたという。(和田1930年)。後醍醐天皇の徳政についても「後醍醐天皇武臣を亡ぼすべき御企ての事」に見えるが、事実、元亨元年(1321)に親政を開始した後醍醐天皇は記録所を設置し、さまざまな徳政を行っている。元亨二年(四月には神人公事停止令と洛中酒鑢役賦課令を出している。前者は寺社に隷属する洛中の神人が本所に納める公事を免除するもので、後者は洛中の酒屋に賦課を課し、財政基盤とする意図があった。また、元徳二年(1330)五月には基金による洛中の米価高騰を抑えるために宣旨升一斗=百文という公定価格を定め、翌月六日には酒の公定価格も定めている。同月十五日には東大寺別当に宛てて同寺領の関所を停止する旨の綸旨を出している。このように後醍醐天皇は精力的に政治を行っていた(森2000)。なお、二条良基は終生後醍醐天皇を思慕し続けたが、応安年間に提出されたと思われる「二条良基内奏状」には元亨二年の神人公事停止令に倣った提言であるという(小川2020)。
【9】 後醍醐の信仰については密教と、聖徳太子信仰と弘法大師信仰が重要である。清浄光寺蔵・後醍醐天皇像と聖徳太子像密教については父・後宇多院の影響が大きいが、後醍醐の態度は「密教を好んだが、直接的な効用を求めた、さらに言ってしまえば密教は自分のための道具だったようである」といったものであった(内田2010)。清浄光寺蔵・後醍醐天皇肖像は聖徳太子講経像を擬しているが龍樹から相承されてきた三国伝来・空海ゆかりの袈裟を纏い「仲哀天皇御宸服、神武天皇御冠」を着用するというスタイルは、後醍醐の理想である仏法と王法の一致を体現するものであった(武田1993)。
【10】 水無瀬御影堂の嘉禎三年(1237)八月二十五日付「後鳥羽院置文案」によれば、後鳥羽院は生前怨霊や魔縁となることを自ら予測している。いわく、自らの子孫が世を取ることがあれば、それは善根をすべて悪道に廻向した自分の功績であるから、他事を差し置いて自らの菩提を弔うよう遺言し、他事を行って菩提を弔わないならば祟りをなすという。
これについて、暦応二年(1338)七月十日に水無瀬三位家の官女によって語られたという後鳥羽院の託宣を記した『後鳥羽院御霊託記』によれば、鎌倉幕府の滅亡は後醍醐天皇が東宮時代に祈願が深く、また大原法華堂に『法華経』を頓写して送ったことに後鳥羽院の怨心が加わって成就したと述べ、その証拠として、後醍醐の即位と後鳥羽院の崩御は同じ二月二十二日、関東の滅亡も二十二日だったと述べる。また、宝治元年(1247)に北条時頼に示して宝殿を造営させ、代々法楽を進め、所領も寄進していたが、高時の代になって過怠があったため幕府が滅んだともいう。しかし、後醍醐即位後は崇敬がないため隠岐に迎え入れたところ、先非を悔いて祈請したため京都に帰ることができた。しかし、還京の際に御影堂に向かって礼を成さなかったため、吉野に奔ることとなった。今はもはや謝罪しても叶わず、来る八月には崩御があるだろうと予言している。また、足利氏が天下の権を握っているのは、義氏の代に水無瀬庄の地頭を辞退した功績によるという。更に、自身の菩提を弔うために永仁の託宣で叶わなかった大興禅寺を建立するよう、洞院公賢に託して光厳院に奏上せよと述べている。
【11】 三種の神器は建武三年/延元元年(1336)十一月二日、尊氏との和睦に応じて比叡山を下りた後醍醐の花山院御所から東寺の頓宮に渡御が行われたが、十二月二十一日には後醍醐が花山院を脱出して吉野に遷ると北朝の神器は偽器であるとして自らの正統性を主張した。後醍醐との抗争中に即位した光明天皇は神器無しで即位した。また、後醍醐の主張が正しいとすれば、貞和四年(1348)十月二十七日に即位した崇光天皇も正統な神器を備えずに即位したこととなる。のち観応二年/正平六年(1351)正平の一統によって北朝の上皇や崇光天皇が連れ去られ、北朝側の三種の神器も摂取された後に即位した後光厳天皇は、神器も院宣も無く、広義門院の命として、遠く継体天皇を先例として践祚した。
なお、天正本『太平記』巻二十五には「持明院殿御即位の事」に代わり「皇太子興仁王践祚事」という独自記事が見え、崇光天皇の践祚に伴って光明上皇のもとから三種の神器が渡されたことを記す。天正本「大稲妻天狗未来記事」(西源院本「雲景未来記の事」)では南朝宣揚のため省略されている、三種の神器をめぐる言説が伺えて興味深い。
抑此霊寶ト申ハ、神代ヨリ傳レル重器ニ非ス、只其納物ヲ是ニ被擬テ天子ノ守ニ用ラル。此内寶劔ハ安徳天皇西海之波ニ没シ給シ時沈失ケル後、御座ノ御劔ヲ是ニ準用セラレ、賢所・寶璽ニ於テハ、後醍醐院元弘逆乱ノ始ヨリ玉躰ニ随ヘテ、今マテ隠シ置御座シカハ、真實ノ霊物ハ徒ナニ邊鄙ノ宝トソ成ニケル。此故ニ践祚ノ後ハ、元應ノ佳躅ニ任テ譲國ノ礼ヲ可被行トソ聞エシ。
【12】 史実では観応の擾乱のため崇光天皇の御禊並びに大嘗会は延引を重ね、観応元年(1350)十月二十二日の予定が足利直冬の追討のため延期されたのを最後に遂に行われず正平の一統を迎えた。
【13】 宝剣の喪失と武士が世の政治を執り行うことを結びつける言説としては、『愚管抄』巻五に次のようにある。
抑コノ寶劔ウセハテヌル事コソ王法ニハ心ウキコトニテ侍ベレ。是ヲモ心得ベキ道理定メテアルラント案ヲメグラスニ、是ハヒトヘニ今ハ色ニアラハレテ、武士ノ君ヲ御マモリトナリタル世ニナレバ、ソレニカヘテウセタルニヤト覺ユル也。文武ノ二道ニテ國主ハ世ヲオサムルニ、文ハ繼體守文トテ國王ノヲホン身ニツキテ、東宮ニハ學士主上ニハ侍讀トテ儒家トテヲカレタリ。武ノ方ヲバ此ヲホン守リニ宗廟ノ神モノリテ守リマイラセラルヽ也。ソレニ今ハ武士大将軍世ヲヒシト取テ、國主武士大将軍ガ心ヲタガヘテハ、エヲハシマスマジキ時運ノ色ニアラハレテ出キヌル世ゾト、大神宮八幡大菩薩モユルサレヌレバ、今ハ寶劔モムヤクニナリヌル也
【14】 『金光明経』巻三「正論品第十一」に、国王が悪事を見過ごし眷属をひいきするなど正法を以って国を治めないのであれば、諸天が怒り、天変や疫病が発生し、戦乱が起こるなどの災いをなすとある。中世においては、こうした『金光明経』の思想に基づいて日本の神仏や霊験仏が日本を去るという言説が度々登場し、王権への危機感を煽った。
【15】 「南朝」という語は西源院本『太平記』では巻二十七「雲景未来記の事」のこの箇所だけに確認できる。『太平記』以前の史料としては『孤峯和尚行実』の跋文に「南朝正平十七年 北朝康安二年」(1362)とあり、本文でも「正平初、再蒙詔於南朝…」とあるのが早い例であるという(鈴木1997年)。
【16】 愛宕山については、天狗ではないが『今昔物語集』巻二十「愛宕護山聖人被謀野猪語」は愛宕山の僧が猪に騙される話である。『台記』久寿二年(1155)八月二十七日条には頼長が「愛宕護山天公像」の目に釘を打って近衛天皇を呪詛したため崩御したのだという噂が流布している事を記す。『古事談』にも同じ説話を載せる。また、『明月記』寛喜三年(1231)七月二十七日条にも「愛宕護山脚天狗之所集歟」とあり、『比良山古人霊託』でも慈円が死後天狗道に堕ちて「愛太護山」に住んでいるという。以上のことから院政期〜鎌倉時代には愛宕山には天狗が住むという認識があったことが確認できる。『今昔物語集』巻二十「震旦天狗智羅永寿渡此朝語」を基にした『是害房絵詞』では、中国からやってきた大天狗・智羅永寿と行動する天狗として愛宕山の大天狗日羅坊が登場する。『源平盛衰記』巻二「盲卜」では、盲卜が愛宕山の天狗によって大極殿の炎上(太郎焼亡)が起こるだろうということを予言している。「太郎房」という名前については、おなじく『源平盛衰記』巻八「法皇三井灌頂事」およびほぼ同文が延慶本『平家物語』に見える。また、根津美術館蔵の『天狗草紙絵巻』にも諸宗の天狗とともに「愛宕護太郎房」が同座して描かれている。以上、愛宕山の天狗については院政期ごろから語られ、その主の「太郎房」という名前は鎌倉期になって広まったと考えられる。
以下、僧伝記事については基本的に『元亨釈書』に基づいて述べる。
【17】 玄昉(?~746)阿刀氏の出身。東大寺義淵に従って唯識を学んだ。霊亀二年(716)、第九次遣唐使の留学生として勅命に従い、阿倍仲麻呂・吉備真備らと共に唐に留学する。唐では濮陽大師智周に法相宗を学び、玄宗皇帝から三品に准じて紫衣を賜った。天平七年(735)、遣唐使多治広成に従って帰国。仏典五千余巻・仏像などを持ち帰った。法相宗の第四伝とされる。吉備真備とともに聖武天皇のブレーンとして活躍。天平八年、封戸を賜り、天平九年八月には僧正に任じられる。光明皇后の邸宅内の海龍王寺を与えられ、同寺を内道場と定める。天平十二年(740)権勢を憎んだ藤原広嗣は吉備真備と共に玄昉を弾劾し反乱を起こすが敗死(藤原広嗣の乱)。天平十七年(745)十一月、造観世音寺として筑紫に左遷。封戸も収公され、翌天平十八年(756)に死去する。
僧侶として政治に介入することを快く思わない人物も多かったようで、『続日本記』では藤原広嗣の霊によって害されたとの風聞を記す。この一文によって中世では種々の説話が展開した。『元亨釈書』には天平十八年六月、観世音寺落成の導師として輿に乗り入殿しようとしたところ、突然捉まれて空中に騰りあがり、行方不明になった。後日、玄昉の頭だけが興福寺の唐院に落ちたが、これは藤原広嗣の霊のしわざであったと記す。『今昔物語集』巻六「玄昉僧正亙唐伝法相語」も同じような説話を記している。また、大江親通『七大寺巡礼私記』によれば、興福寺菩提院は玄昉の旧跡であり、十三層の塔(頭塔)は玄昉の頭を埋めたものであると記している。
親通は古老の話として、玄昉は藤原広嗣の霊によって雷撃にあたり、身体が五つに分断された。身体が落ちた各地に墳墓を建てたが、頭が落ちてきた場所に建立したのが頭塔であると記している。『七大寺巡礼私記』、『松浦廟宮先祖次第并本縁起』および『元亨釈書』によれば、藤原広嗣が玄昉を恨む原因となったのは、玄昉が太宰少弍として任地に赴任していた広嗣の「在京妻室命婦」に「花鳥之気」を送ったことにあるという。『今昔物語集』では光明皇后が玄昉を寵愛していることを聞いた広嗣が聖武天皇に諫言したことを藤原広嗣の乱の発端としている。藤原広嗣は死後松浦明神として神に祀り上げられため、その政敵であった玄昉が貶められている可能性もある。たとえば『松浦廟宮先祖次第并本縁起』は聖武天皇が玄昉に帝位を譲ろうとしたとするなど、道鏡と混同するような記述もあり、密通の事実は信用できない。ともかく、説話集に見える中世の玄昉のイメージが『太平記』においても継承され、「雲景未来記の事」においても天狗として登場しているのであろう。
【18】 真済(800~860)正六位上・巡察弾正紀御園の子。柿木紀僧正。弘法大師空海の高弟として二十五歳で両部大法を授かり、伝法阿闍梨となった。その後、高雄山で十二年籠山行を行う。承和二年ごろ、嵯峨上皇から内供奉十禅師に任じられる。承和三年(836)、請益僧として渡唐するも途中で船が難破し、筏にしがみついて二十三日間漂流する。同行の三十人余りはみな餓死したが、真済と同門の真雅のみ南方の島に漂着し生存したという。承和七年(840)、神護寺別当に任じられる。同十年権律師、同十四年律師、仁寿元年(851)小僧都、仁寿三年(853)権大僧都。斉衡三年(856)、真言宗で初めて僧正に任じられるが、空海に譲ることを申し出たところ、空海に大僧正位が追贈され、真済は僧正となった。天安二年(858)八月、文徳天皇の看病を行うがその甲斐なく崩御。真済は志を失い籠居した。貞観二年(860)二月二十五日逝去。行年六十一。
覚一本『平家物語』巻八「名虎」や流布本『曽我物語』巻一には惟喬親王と惟仁親王(のちの清和天皇)との皇位争いに際して惟喬親王側に付き、惟仁親王に付いた天台宗の恵亮との法力比べを行い、敗れたという説話が記されている。長門本『平家物語』巻十五では恵亮に敗れたことを恨んでその弟子を取り殺したが、慈念僧正延昌によって改心したという説話を載せる。同型の説話として『扶桑略記』巻二十三および『拾遺往生伝』巻中に真済が浄蔵に調伏されるというものがある。また『元亨釈書』に「惑色成魅」とあるように、失意のあまり天狗(天狐)となって染殿后(清和天皇母)に取り憑き悩ませたが、無動寺相応和尚によって調伏されたという説話が展開する。
その初出は『天台南山無動寺建立和尚伝』であり、『拾遺往生伝』巻下『古事談』巻三、『宝物集』巻二などに継承されていった。なお、『今昔物語集』巻二十「染殿后為天宮嬈乱事」にも同様の説話を載せるが、こちらは金剛山の聖が染殿后を恋慕するあまり鬼となって取り憑き、調伏もされないという内容である。こうした説話によって真済=天狗というイメージが定着し、『源平盛衰記』巻八「法皇三井灌頂事」では「中比我朝に柿本の紀僧正と聞こえしは…大法慢を起して日本第一の大天狗と成て候ひき。此を愛宕山の太郎房と申すなり」とあるように愛宕山の太郎房と同一視されている(小峯2001)。
【19】 寛朝(916〜998)式部卿敦実親王の子。宇多天皇の孫にあたる。遍照寺僧正。東密広沢流の祖。延長四年(926)宇多法皇のもとで出家。のち寛空より灌頂を受けた。円融院の信任を受けて永観元年(983)、円融寺落慶供養の導師を務め、封戸一百戸を給わる。寛和元年(985)、大僧正となる。永祚元年(989)、遍照寺建立。永延二年(990)八月三日、円融法皇に両部灌頂を授ける。長徳四年(998)六月十二日、遷化。密教の事相に通じ、声明にも優れた。寛朝の流れは広沢流として小野流と並んで東密の二大流派を成した。寛朝が天狗であるという話は管見の限り発見できなかったが、『今昔物語集』巻二十三「広沢寛朝僧正強力語」では仁和寺別当として寺の修理中に現れた盗人を足場まで蹴り飛ばしたという逸話(『宇治拾遺物語』巻十四にも同じ話を載せる)や、巻二十「祭天狗僧参内裏現被追語」では円融天皇の加持に現れ、天皇の病を癒した聖人が実は天狗であったことを法力で明らかにしたという逸話がある。また、『十訓抄』巻一に一条天皇の御宇の話として、内裏で五壇法を修した際、慈恵大師良源は不動尊に、寛朝は降三世明王に変化してまったく本尊と変わらなかったという説話を載せる。同類の説話は『沙石集』巻一「出離を神明に祈る事」にも載っているが、こちらは村上天皇の時代とし、良源は不動尊の姿となってまったく変わらなかったのに対して、寛朝はある時は降三世明王となり、ある時は寛朝となった。これを見た村上天皇は「不便の事かな。寛朝は妄念の起れるにこそ」と評したという。こうした説話によって寛朝=天狗のイメージが作られたか。
【20】 慈恵大師良源(912~985)。俗姓木津氏。近江国浅井郡の出身。十二歳で比叡山に登り、理仙のもとで出家、師事するも延長六年(928)に理仙が死去。同年四月、尊意のもとで円頓戒を受ける。承平七年(937)、興福寺維摩会に出仕し、興福寺の義昭を打ち破り名望を高め、藤原忠平やその子・師輔の知遇を得た。天暦四年(950)、師輔の要請を容れて東宮・憲平親王(冷泉天皇)の護持僧に任じられる。翌五年には四十歳にして師・覚慧から阿闍梨位を譲られている。天徳二年(958)、師輔の子・尋禅を弟子に迎え、九条流との結びつきを強める。応和三年(963)、宮中の法華十講において興福寺の仲算と論争し、更に名を高めた(応和の宗論)。康保元年(964)、内供奉十禅師、翌二年権律師、翌三年天台座主に任じられ、以後治山は十九年に及ぶ。同年十月、火災によって荒廃した比叡山の再建を担う。天延二年(974)には興福寺の末寺であった祇園社を延暦寺の末寺とする。天元四年(981)、任大僧正。永観三年(985)正月三日、遷化。寛和三年(987)、慈恵の諡号を贈られる。藤原氏九条流と結びつき、子息を弟子に迎え、延暦寺の再建を主導するなど実務能力に優れ、源信や覚運などの名匠を輩出し、比叡山中興の祖と仰がれた。一方で貴種の入寺によって比叡山の世俗化が進んだことは否めず、また、円珍派の余慶が法性寺座主に任じられたことを不服として円仁派の山僧が関白藤原頼忠の屋敷を取り囲むことを黙認するなど、強引な姿勢は批判も招いた。
『今昔物語集』巻二十「良源僧正成霊来観音院伏余慶僧正語」は欠文でタイトルのみ伝わるが、良源が霊となって余慶のもとに現れるが調伏されるといった内容と推測される。同巻三十一「祇薗成比叡山末寺語」にも祇園社の帰属をめぐって興福寺と争いになり、祇園社の神人に無理やり比叡山の末寺となると認める判を押させたという記述がある。同話によればこれに憤った興福寺側の強訴があったが、亡くなったはずの良源が仲算のもとに霊となって現れ、仲算に請い受けたため、強訴も止み祇園社は比叡山の末寺となったという。『今昔物語集』巻二十「震旦天狗智羅永寿渡此朝語」では中国から来た天狗・智羅房を良源に供奉する護法童子が散々に痛めつける説話を載せる。この話を発展させた『是害房絵』では、十一面観音の垂迹でありながら比叡山を守るために天狗となったという記述がある。また、『宝物集』にも「慈恵僧正の行業のたかかりし、延暦寺に執をとめて金の天狗となれり」とあるように、延暦寺に執着するあまり天狗になったという説話も残る。『比良山古人霊託』でも天狗道の「第一の威徳の人」という認識があったが、得脱したようで、今は観音院僧正余慶が第一の人だと言われている。一方、鎌倉時代に入ると良源は観音菩薩の垂迹であるという言説が広まり、正月三日に亡くなったことにちなんで元三大師と呼ばれ、観音菩薩の三十三身に応じて三十三体の彫像が作成されるなど篤く信仰された。鎌倉末期には民間へも信仰が浸透し、『元亨釈書』によれば厄除けや疫病を防ぐとして門戸に良源を描いた護符が貼られたという。
【21】 頼豪(1004~1084)「平安後期の天台宗の僧。京都出身。藤原有家(ふじわらのありいえ)の子。園城寺(おんじょうじ)の心誉(しんよ)(971―1029)に就いて出家、1037年(長暦1)入壇伝法。祈祷(きとう)に効験をうたわれ、白河(しらかわ)天皇の皇子誕生を祈り効があった。1074年(承保1)天皇の勧めで、恩賞に園城寺戒壇建立を請うが、延暦(えんりゃく)寺の強い反対にあって聴許されず、頼豪は寺に籠(こも)り怨嗟(えんさ)し、天皇の慰諭にも応ぜず、断食して果てた。せっかく誕生の皇子も病死し、世に頼豪が数千の鼠(ねずみ)に化して延暦寺の聖教を食い尽くし、山徒が鼠祠(ほこら)をつくってこれをおさめたといい伝えられている。」(以上、小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』より引用)
『太平記』巻十五「三井寺戒壇の事」に上記の逸話が見える。
【22】 仁海(951〜1046)東密小野流の祖。石山寺元杲に灌頂を受ける。正暦二年(991)、山科小野に牛皮山曼荼羅寺を建立する。寛仁二年(1018)六月、旱魃に際して勅命を受け神泉苑で請雨経法を修し、大雨が降ること三日。権律師に任じられる。その後、長元五年(1032)、長久四年(1041)と勅命により雨乞いを行うこと九度、そのたび雨を降らせた。長元二年(1029)、東大寺別当。同四年、東寺一長者。長暦二年(1038)降雨の功によって僧正となり、世の人は雨僧正と呼んだ。長久の賞として輦車宣旨を受け、封戸七十戸を給わる。永承元年(1046)五月十六日、九十二歳で入滅。
仁海については『古事談』にさまざまな説話が載っている。仁海の父が亡くなった後、牛になったことを夢で知った仁海がその牛を買い取ったという話や、弟子の成典が「弘法大師を拝見したいならば、仁海を見よ」という夢を見て参上したという説話は仁海の非凡さを伝えるものであろう。一方、「仁海鳥を食ふ事」では雀を好んで食し、「成尊仁海の真弟子たる事」では女房と密通して成尊を産ませたという、破戒のイメージもあった。鎌倉末期に成立した『渓嵐拾葉集』巻三十九「吒枳尼天秘決」によれば、仁海が稲荷の峰で一千日「一階僧正供」という吒枳尼天の秘法を行った結果、一足に僧正に直任されたという説話を記す(田中2004)。こうした験力とマイナスイメージとが仁海=天狗の描写に繋がったか。
なお、『今昔物語集』巻二十「仁和寺成典僧正値尼天狗語」は仁海の弟子・仁和寺円堂院の成典僧正が、仁和寺の辰巳の角にある円堂に出現した尼天狗を調伏する説話を載せる。円堂院は宇多院勅願の堂舎であったが、「其の寺には、天狗有」と噂される場所であった。尼天狗は成典の三衣筥を盗み、堂の後ろにある欅の木に登ったところを調伏されたという。『太平記』巻二十六「大塔宮の亡霊胎内に宿る事」において、大塔宮をはじめ高僧たちの怨霊が仁和寺の六本杉に現れるのはこうした説話を踏まえるか。
【23】尊雲は大塔宮護良親王(1308~1335)の還俗前の名前。『太平記』巻十三「兵部卿親王を害し奉る事」によれば、眉間尺説話を踏まえた壮絶な最期を遂げたという。大塔宮の怨霊について、巻二十四「正成天狗と為り剣を乞ふ事」では「兵部宮親王」と呼ばれている。巻二十六「大塔宮の亡霊胎内に宿る事」では乱世のために直義の子・如意王に生まれ変わったとされるが、その際は法体として登場する。
【24】淡路廃帝は淳仁天皇(733~765)。舎人親王の子で天武天皇の孫にあたる。藤原仲麻呂の推挙によって即位したが、孝謙上皇のクーデターによって廃位され、淡路に配流される。淳仁という諡号が贈られたのは明治三年(1870)のことであった。最澄の『長講法華経先分発願文』には崇道天皇(早良親王)をはじめ、井上内親王・他戸親王・伊予親王らとともに淳仁天皇の名前が見え、『法華経』の功徳によって悪趣を離れ、国家を守護するようにと祈願されている(山田2014)。
【25】 後鳥羽院の怨霊については注【11】を参照。なお、延元元年(1336)六月七日には光厳院が御影堂に「今度運命無為、願望成就」したならば、先々の御願の事をきっと執り行う旨の願文を捧げており、後村上天皇も正平五年七月二十二日に大興禅寺の建立をはじめとする御願を果たすべき旨の願文を記している。後鳥羽院の怨霊は南北朝時代にあっても強い影響力を持っていた。
【26】 『太平記』における後醍醐天皇の怨霊は『太平記』巻二十四「正成天狗と為り剣を乞ふ事」および巻三十四「吉野御廟神霊の事」に登場する。前者では「元来摩醯修羅の所変にておはせしかば、今帰って欲界の六天に御座あり」というように、後醍醐天皇は大自在天とされる。同話は後醍醐の命により、怨霊となった楠木正成が天下を乱すため大森彦七の刀を狙うという筋書きであるが、その中で後醍醐は「正成が相伴ひ奉る人は、先づ先帝後醍醐天皇、兵部卿親王、新田左中将義貞、平右馬助忠正、九郎大夫判官義経、能登守教経、正成加えて七人なり」と、保元・平治の乱、源平合戦、元弘・建武の戦乱で滅んだ亡霊とともに登場する。後者では怨霊となった日野俊基・資朝を御前に召して「君を悩まし、世を乱る悪臣ども」を罰する算段を聞いている。「摩醯修羅王の前にて議定」された通り、楠木正成・菊池武時・土居・得能・新田義興らに命じて計画を実行する予定だと聞いた後醍醐は満足気に笑ったという。なお、『渓嵐拾葉集』によれば、天照大神は大自在天であり、色究竟天で成道した大日如来でもあるという。また、衆生は天照大神の子孫である。大自在天も三界のあらゆる衆生を我が子であると思い、慈悲を垂れる。ゆえに天照大神は大自在天なのであるという。『太平記』において後醍醐天皇が「摩醯修羅の所変」とされるのもこうした中世神話の言説と関係があると考えられる(彌永2019)。
【27】 大内裏は平安中期に度重なる炎上を重ね、里内裏が営まれるようになると天皇の居住地としての役割が衰減し、院政期~鎌倉初期には牛馬の放し飼いがされるなど荒廃していった。安貞元年(1227)の焼亡を最後に再建されることなく廃絶し、宮城の跡地は内野と呼ばれるようになった。『今昔物語集』には院政期の実情を示す説話が掲載されている。例えば巻十六「仕長谷観音貧男得金死人語」は長谷詣の帰り道に検非違使の下部に突然捕らえられた男が、内野に打ち捨てられていた十歳許の死体を川原に捨てるよう命令されたが、下部は実は長谷観音の化身で、その死体には黄金が入っており、裕福になるという内容である。その他、巻二十七「西京人見応天門上光物語」や同巻「狐託人被取玉乞返報恩語」では内野を通る際に「応天門の程を過むと為るに、極く物怖しく思」ったように、内野は荒れ果てた不気味な場所であった。鎌倉期になると内野は武士の狩場や犬追物の場として使用された。南北朝時代には元弘三年(1333)五月七日、足利尊氏と六波羅探題の軍とが内野で合戦をしており、明徳三年(1391)十二月の明徳の乱でも戦場となっている(貝2013)。
また『古今著聞集』巻第十七「仁治三年大嘗会に外記廳内の黐木の梢に臥せる法師の事」では後嵯峨天皇の大嘗会に際して、外記庁の左のもちの木の梢に臥した法師がいたが、これも天狗の仕業とされている。同じく巻十七「伊勢國書生庄の法師上洛の歸途天狗に逢ふ事」も天狗に化かされた僧侶の話である。『古今著聞集』では仁治の頃とあるが、『明月記』嘉禄三年(安貞元年、1227年)七月十一月条に同様の記事が見える。『明月記』に従って概要を述べると、伊勢国から上洛してきた法師が帰路、同郷の知り合いの僧(山伏姿)と出会い、京都に引き返してきた。まず大内裏に出ると、他の僧侶と合流し、相伴って法成寺に入ったところ、先客がいた。その場の貴人の下知によって、その僧侶の衣・帷を酒に代えて酒を買わせて酒宴乱舞に及んだ。そこから清水寺の礼堂に行こうという話になったが、その僧侶はうつつ心なく、礼堂に座ったと思ったところ、実は鐘楼の上に縛られていたという。大内裏で山伏(天狗)と合流し、不思議な目に合うという点で「雲景未来記の事」にも通じていて興味深い。
【28】大庭の椋木について、『明徳記』巻上、義満方の軍勢を配備する場面に「畠山右衛門佐は八百餘騎にて神祇官の北大庭の椋の木を南にみて土御門のすゑに陣をとる」と見える。
【29】大雨のことは『師守記』貞和五年六月十一日条に、祇園社御霊会巡行のことは同六月十四日条に見える。同記によれば、この頃山門の訴訟によって祇園社も閉籠し、神輿の巡行も行われない予定であったが、武家より厳密の沙汰があったため神輿巡行が行われたという。
【30】 この部分は諸本で共通しているが、雲景が不思議な体験をしたのは六月二十六日(他本では二十日)であるから、ここでそれ以前に起きた四条大橋勧進の桟敷崩れについて記すのは不審。
付論:「雲景未来記の事」は『太平記』作者の思想か?
・長谷川端(1972)
更にいうならば、「大塔宮之霊宿胎内事」の政道批判的発展が巻二十九「雲景未来記事」であり。「吉野御廟神霊事」を発展させたものが巻三十五「北野参詣人政道雑談事」であると考えられる。つまり、「大塔宮之霊宿胎内事」と「吉野御廟神霊事」という巷話的挿話は簡略ながらもその後の本系を拘束制限するように構想されているのに対して、「雲景未来記事」と「北野参詣人政道雑談事」の長い段は…(中略)…太平記の本筋とは関係ない独立的なものになっているのである。たとえば、「雲景未来記事」は西源院本・神田本などでは「雲景未来記事同天下怪異事」として「上杉畠山死罪事」のあとに置かれて巻二十七の末尾にあり、玄玖本・京大本の類ではこの段を欠き、前田家本、米沢本の類では構想に関連づけて位置の移動が行われ、さらに天正本の類、梵舜本の類では詞章の改訂がなされているが、これに対して「大塔宮之霊宿胎内事」…(中略)…は諸本ほぼ同文を有している。このことからも、「大塔宮之霊宿胎内事」と「雲景未来記事」の両段の本系に対する独立性の差は大きく、後者が後からの増補であることが理解されよう。
・大森北義(1972)
こうしてみると、「雲景未来記事」は、直義と師直の対立抗争から始めて観応擾乱、さらには正平一統から南朝の敗退までの歴史過程を展望し、それを予見しているのである。…(中略)…この「雲景未来記事」は、その章段の位置にかかわらず重要な役割を果たしていると思うし、西源院本のように巻の最後に附加されているにしても、その後の巻二十八から三十一までの各事件を、政道批判と時勢観を含めて予見しているという点において、構想にかかわる位置を与えられていると思う。巻末に附されている点で、明らかに後に附加されたことをみることは出来るが、この位置にあって、直義、師直の抗争(観応擾乱前段階)をうけて、さらにつづく事件展望を予見的に示しているのである。
・鈴木登美恵(1997)
この〝雲景未来記のこと〟において、歴史・政治を論じ、未来を予見するのは、愛宕天狗太郎房であり、その太郎房の語つた内容を書き留めたのは、羽黒山伏雲景であるが、太郎房も、雲景も、太平記の中では、この段の他には登場しない。一回限りの登場なのである。〝雲景未来記のこと〟の如く、ただ一回限りの登場人物が、歴史・政治を論じて未来を見通したり、神仏・天狗・怨霊に逢つてそのことばを伝達したりする記事は、太平記中に十数例指摘できる。その場合の一回限りの登場人物、特に、一回限りの登場で歴史・政治を論じ未来を見通す人物は、しばしば太平記作者の分身といへる存在であり、その登場人物のことばに作者の思ひが託されてゐると見ることができる。
「雲景未来記の事」が“原”『太平記』にはなく、後補であるだろうということは研究者の間で一致している。その根拠としては、
① 甲類本でも玄玖本・南都本系諸本で「雲景未来記の事」の章段が存在しないこと
② 諸本によって挿入されている場所が異なること、特に西源院本・神田本ではとって付けたように巻二十七の末尾に存在していること
が挙げられる。
これに対して兵藤裕己は、室町幕府による原太平記の編纂作業が放棄された時点で「原本」という概念はありえず、どの本が古態をとどめるのかということはあくまでも諸本の間の相対的・総体的な問題に過ぎないと述べる(兵藤2014)。
確かに玄玖本(神宮徴古館本)系の諸本に「雲景未来記の事」が無かったとして、オリジナルの『太平記』というものがそもそも存在しないのだから、それをもって「雲景未来記の事」が後から挿入されたとは断言できない。
これに対して小秋元段は、綸旨や三種の神器といった王権に関わる物に注目して、「雲景未来記の事」とそれ以外の『太平記』の部分とを比較して次のように述べる。
「雲景未来記」は『太平記』作者とは異なる者が挿入した増補記事であり、先行研究がいうような「太平記作者の歴史論・政道論」として見ることはできない。なぜならば、三種の神器をめぐって王道論を展開する「雲景未来記」に対して、ほかの『太平記』の場面にあっては綸旨や三種の神器はそこまで重要な存在として扱われていないからである。むしろ、『太平記』の関心は、「偽の綸旨や神器が平然と通行するような、南北朝争乱の時代状況にあった。とりわけ、謀略・策略のためには王権を象徴するモノを偽造してはばからない策謀の世界を描く」ことにこそ関心があり、王権への関心は低い。『太平記』は南北朝の分裂という現実感覚に根差した認識によって構成された作品である。したがって、「雲景未来記」 の歴史論・政道論は『太平記』作者の思想とは切り離して考えるべきである(小秋元2019)。
「雲景未来記の事」の思想は『太平記』の主眼から外れており、別の作者が挿入したというのである。
なお、小秋元は「雲景未来記の事」の増補について、「村雲の僧」は妙吉のことであると事前に説明している点から、吉川家本の祖本の段階ではじめて巻二十七に増補されたと推測し、章段の場所も本来は観応の擾乱の第一段階にあたる「左兵衛督師直を誅せんと欲せらるる事」の前に追加されたのではないかと推測している。また、「雲景未来記の事」が巻二十七の末尾に存在する西源院本・神田本は、吉川家本の祖本の形態よりも後出のものであり、西源院本・神田本の祖本にはなかったものを、他本から書き入れて巻末に増補したのではないかとも推測している。ゆえに巻末に配置されていることに特に意味は無く、巻二十八以降への橋渡しとしての役割は想定できないとして、1991年の自説を撤回している(小秋元2014)。
もともとは独立して通行していた「雲景未来記の事」が、のちに『太平記』に組み入れられたという説は戦前、平田俊春がつとに主張しているが(平田1943)、小秋元の説は内容の比較検討から結論づけた点で新しい。
しかし、そもそも『太平記』は『平家物語』などの軍記物語とは違い、内容的に一貫したテーマや整合性がない書物である。この点について大津雄一は、『太平記』における議論の場面に注目し、それらは「困難な問題が議論の場に持ち出され、困惑した人々が口を閉ざしているところに、知恵ある人物が意見を述べるが別の人物が反論し議論はまたもや膠着して人々は口を閉ざす。最終的に、議論は権力・怒り・笑いあるいは実利といった外在的要因によって提示される」という型を持つ。しかし、その問題は外的要因によって強引に解決されるのであって、議論の内部で問題とされ、論拠として提示された和漢の故事や内外典に基づく「知」の対立は投げっぱなしのまま放置されてしまうと、その特徴を述べている(大津2020年)。
「雲景未来記の事」は議論ではなく問答であるが、儒教思想、因果思想などを引いて政治を論じ、三種の神器に基づく王権論を展開させながら、来客(梵舜本・流布本では火炎)によって唐突に問答が中断されるという点で、大津のいう『太平記』の議論の型に合致するといってよい。内容的にも三種の神器による王権の正統性やその失墜といった論説はあくまでも問答の中の一部分であり、同様の思想は『愚管抄』や『神皇正統記』にも見えるため、けっして「雲景未来記の事」の中だけで主張されているわけではない。よって、綸旨や三種の神器の扱われ方をもって「雲景未来記の事」の作者やその思想を『太平記』とは別に想定することは難しいと言わざるを得ない。きわめて月並みだが、結論としては、たとえ増補されたものであっても、「雲景未来記の事」はやはり『太平記』の思想を語るうえで欠かせない章段である、ということになろう。
『太平記』参照本文
西源院本:兵藤裕己校注『太平記』(第四巻、岩波文庫、2015年)および、鷲尾順敬校訂『太平記 西源院本』(刀江書院、1943、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1885210 (参照 2024-08-23))
神田本:黒川真道等校訂『太平記 神田本』(国書刊行会、1907、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/994594 (参照 2024-08-02))
梵舜本:尊経閣文庫本複製『太平記 梵舜本』第七巻、古典文庫、1966年、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1354338 (参照 2024-08-02))
天正本系統:野尻本『太平記』(国立公文書館内閣文庫所蔵、出雲国三澤庄住人・野尻蔵人佐慶景による筆写。天正六年に出雲国造千家義廣所持本を書写した旨の奥書あり。国書データベース https://doi.org/10.20730/100011899 (参照 2024-08-02))
流布本:今井弘済・内藤貞顕編『参考太平記』第二(国書刊行会、1914年、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/945789 (参照 2024-08-02))
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