食のリスク学―氾濫する「安全・安心」をよみとく視点:極私的読後感(21)
私個人としては、仕事として食に関わるようになって30年近くになるが、食の安全・安心についての消費者の意識のみならず、食を提供する側の意識が大きく変わったのは、(個人的経験から言うと)2001年のBSE(狂牛病)感染牛が国内で発見されたのに続いて、2002年の国内の食肉業者による産地偽装問題、そして2003年12月の米国でのBSE発生に伴う米国産牛の輸入停止の3連発が大きかったと認識している。
これら事案について、私個人としては「食材を供給する側」として、様々な知識を、文字通り「走りながら、読む(知識を得る)」を繰り返しながら、管理体制や書類整備などを行いつつ、物量確保のリカバーを行った、濃密な時期であった。(逆に、この時期に勉強したり外部の諸先輩に接していなければ、今の私は無かったと思う)
こういう経験から言えることは、
① 安全と安心は、それぞれ異なる概念であること
② "リスクゼロ"は可能であるが、その実現に必要なコストを払う人は大抵居ない
ということだ。
で、究極的には、それらに必要なコストは、顧客にご負担頂くしか無いために、[a) 売価に転嫁する]、[b) 量目を減らして売価を維持する]、[c) 販売自体を止める]のどれかになる。
ここで供給側が直面するのは、顧客の「リスクゼロ志向」の強さである。
当然といえば当然ながら、誰も好き好んでリスクのあるものを選ぶことは、無い。
ただ、それ(リスクゼロ)を実現するのに大変な手間やコストがかかることは、よく分かるだろう。その為多くの場合、「コスト(価格)と品質の折り合い」を付けている。これを「リスク・トレード・オフ」と表現する。
ただ、今回のコロナもそうだが、一度リスクが顕在化すると、極端にリスクを排除する方向に(特に日本は諸外国と比べて)判断が偏るものだ。BSEの時の全頭検査しかり、福島原発事故の際の福島県産農水産物への残留放射能検査の全量検査しかり・・・。
しかし、それはある種の「資源(ヒト・モノ・カネ)の無駄遣い」につながる
また、こういう事案の際に、大きく声を上げる人は、いわゆる消費者団体と言われる組織の属している場合が多い。当然、企業論理を優先しがちなメーカーに対する牽制として必要な社会的機能を担っているのではあるが、往々にして、かなり無理な要望を出して結果的に消費者の利益を損ねる(単価上昇、供給量の減少や途絶等)ケースが生じたり、はたまたそういう組織自体が、ある種の党派性を帯びているケースも散見される。
本書は、これら数多の論点に対して非常にバランスの取れた論考が平易にまとめられており、「食のリスク」だけではなく、社会全体にかかわるリスクに対する視座を安定させてくれる良書だ。
ペルーでは、水道水が原因でコレラが蔓延し、80万人が罹患し、7,000人近くが死亡したという事件がありました、1991年から1992年にかけてです。
原因は水道水の塩素消毒をやめてしまったことにあります。なぜ、水道水の塩素消毒をやめたかというと、米国環境保護局(EPA)が塩素処理によって生成する発がん性物質トリハロメタンなどを規制しようとしたことにあります。そのことを知ったペルー政府が、発がん性物質によるリスクをゼロにしようと考え塩素消毒を中止してしまいました。それによってコレラが蔓延し、多くの犠牲者が出ました。(p.15)
この例を馬鹿げていると言うなかれ。日本でも同様の議論が今でもよく起きているではないか。よく冗談で言われる「健康のためには、命をかける」のような話だ。
そこに、情報の送り手と受け手側との間の「情報の非対称性」特に、受け手が科学の基礎知識が無い場合に繰り返される(受け手にすれば)難解で分かりにくい説明に、フラストレーションが溜まることになる。
その上、かかるリスクに対して"圧力団体”として対峙する市民運動が、往々にして「党派性」を持っているケースが多い。そしてそれは大抵「左派」か「リベラル」で「反大企業」である。
その「党派性」により歪められていく「事実の認識」によってもたらされる「民主主義における意思決定の歪み'(事実との整合性を欠いた論理による意思決定)」についても、明快に述べられている。
市民運動は、最初は正しいのでしょうが、一つのスローガンをずっと言い続けなければならないので、時代が変わってくると却って間違えてしまいがちです。そこが悲劇だなと思います。本人たちが悲劇だと思っているかどうかは分かりませんが、いつまでも同じことを言い続けています。農薬が悪いというスローガンを掲げると、農薬がどんどん良くなっていっても変わりません。(p.158)
人間、生まれてしまったこと自体がリスクだ、という言い方も出来ないでもない。生まれなければ苦しむことも無い訳だが、生まれてしまったからには、なんとか折り合いをつけて、ゆるゆると生きていくしかない。と、言ってしまえばお終いなのだが・・・。
ともかく、我々は考えながら、学びながら、リスクを避けたり、付き合ったり、やり過ごして生きていくしかないのだ。
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
夏目漱石「草枕」の冒頭の一節より
と、漱石先生も言うている。