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戦争と映画―知覚の兵站術:極私的読後感(24)

20年ほど前に、ポール・ヴィリリオの著作を初めて手にとって以来、今は6冊もの彼のそれが私の手元にあるのは何故か、が、正直言うと明瞭ではない。とても魅力的で鮮烈な印象があったので、都度手に入れていったのだろう。

今、改めて読み返すと、やはり彼の独特の思想が蠱惑的(こわくてき)な魅力を放っていることを感じる。

それは、ヴィリリオだけではなく、フランスのフランス現代思想、特にポストモダンの持つ衒学性(げんがくせい)にも由来するのだが、やはりヴィリリオの主張する「新しいテクノロジーによる知覚の変容が生む、人間の行動や社会の変化」というコンテクストの素朴な面白さにあるのだと思う。

本書の序文は1991年2月8日の日付となっている。ちょうど湾岸戦争のイラク空爆(1991年1月17日)が始まって1ヵ月足らずだ。

■目次
序文(1991年2月8日)
Ⅰ 軍事力は虚像に支配される
Ⅱ 見るのではなく飛行する、それが映画だ
Ⅲ イメージの地獄に足を踏み入れた君よ、あらゆる希望を捨てよ
Ⅳ 臨場性の欺瞞(ペテン)
Ⅴ 映画館「フェルン・アンドラ」
Ⅵ 早いもの勝ち
Ⅶ 八十年間のトラヴェリング

湾岸戦争は、空爆開始をCNNで衛星生中継(Wikipedia: "Media coverage of the Gulf War")されたり、誘導ミサイルが目標に到達する映像が放映されたりしたことで”Real Time War”や"TV War"などと言われた戦争でもあったのだ。

ヴィリリオの本書におけるテーマは、まさにこのような映像技術が軍事技術に与える影響、そしてそれを受け取る人々の知覚の変容を解題することにあり、実に時宜を得た出版だった。

・・・遠い過去の時代、高く聳えていた城塞に始まり、「望楼」の考案という建築学的革新、係留気球の利用、さらには空軍の創設と写真による戦場復元技術の出現(1914年)を経て、レーガン大統領提案の「早期警戒衛星」に至るまで、私達は休むことなく戦争における視覚領域の拡大に立ち会ってきた。肉眼が捉える視覚世界や直接的な視像は次第に消失し、「眼」に代わって、光学的、光電子的手段や最高度に精密な「コリメーター(照準器)」が出現したのだ。(p.227)

このように、軍事技術の革新が民生用途向け技術の革新を促す、という文脈は、特に目新しいものではない。とはいえ、上の引用のような表現をされると、グイと引き込まれるような蠱惑的な香りが文章から漂ってくる。

一見バラバラな技術を、ある文脈で紬合わされることによって生ずる、ある視点。その”視点”こそが、”思想”とか”イデオロギー”と言われる”何か”の母胎となり得るわけで、その”視点”をもって、世界解釈を共有していく感覚、それこそが、本書の最大の魅力のような気がする。

そして、この独特の、”知の疾走”さえ感じさせる筆致こそが、ヴィリリオの魅力でもあり、ある種の”胡散臭さ”というか、「衒学性」をまとっている所以でもある、と、私は思う。

とはいえ、こういう「衒学性」、特に自らの思想を補強する意味で援用する物理学や数学、歴史学などの用語解釈の誤用が、後に批判の対象となったのは事実で、「ソーカル事件(1995年)」を生んだり、日本でのニュー・アカデミズム論壇(特に1980年代以降の)でも同様の論争が巻き起こったりしたもので、私自身も、必ずしも「正統的な」学問領域ではなく、謂わばスノビッシュな趣味の一つ、という感じで捉えているところはある。

私自身も、学問、というよりも、単なる世界解釈の一つ、という理解で読んでいるところもある。他にもノーム・チョムスキージャン・ボードリヤールジャック・ランシエールの本を読んでいるのも、同じような理由だと思う。日本でニュー・アカデミズムが流行った頃(ニューアカ・ブーム)って、私高校生だったんだけど、やはり、多少は影響受けてるんだな、と、こうやってまとめながら思い直している。

■私の手元にあるヴィリリオの著作
情報化爆弾
情報エネルギー化社会―現実空間の解体と速度が作り出す空間
電脳世界―最悪のシナリオへの対応
・戦争と映画―知覚の兵站術 ※本書
幻滅への戦略―グローバル情報支配と警察化する戦争
自殺へ向かう世界

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