僕ときのこ帝国-②期待と信頼という名の呪いについて
僕ときのこ帝国-①で、「呪い」という表現をしたが、ここでの「呪い」とは、ある対象に向けられたイメージの固定化の意味で使用した。そして、きのこ帝国の場合、その「呪い」は、主として、(1)期待のシューゲイザーバンドであるというイメージ、そして、(2)パーソナルな領域における代弁者としてのイメージの2つが挙げられるのではないかと思う。
(1)期待のシューゲイザーバンドであるというイメージについて
『フェイクワールドワンダーランド』以降のきのこ帝国は、何をやっても以前の姿と比べられていた。前作の『ロンググッドバイ』が傑作だったこと、そして『フェイクワールドワンダーランド』がメジャーデビュー作だったこともあり、ネットの一部では「裏切られた」とか、「金に目が眩んだ」というようなことまで当時は言われていた記憶がある。
他ではない僕としても、このままの路線を継続すれば、間違いなく(海外でも)より影響力をもった存在になると思っていたし、何よりも『ロンググッドバイ』を超える作品を期待していただけに失望感が大きかった。
ただ、今考えてみると、自分を含む多くのリスナーが、過去のきのこ帝国の残像にばかり囚われ、期待のあまりに一つ一つの曲やアルバムの評価を正当に行えていなかった節がある。そもそも、きのこ帝国は根っからのシューゲイズバンドではない。例えば、『渦になる』のインタビュー記事では、驚くべきことに佐藤以外のメンバーにシューゲイズというジャンルへの知見がほとんど無いことが分かるし、初期の楽曲は「退屈しのぎ」や「ミュージシャン」、「WHIRLPOOL」など一部の楽曲を除けば、軽やかで疾走感のある曲調のものが意外と多いのだ。こう考えると、元々きのこ帝国としてやりたいことがシューゲイズであったわけではなく、やりたいことをやった結果、シューゲイズに分類されるような楽曲が生まれたというような表現の方が合っているのだろう。それにもかかわらず、「シューゲイズバンド」のラベルを貼ってしまっていたのだ。
しかし、バンドのポテンシャルを最も発揮できるのは『ロンググッドバイ』を聴いてしまった以上は、「シューゲイズ」以外はないと思ってしまうのも事実であった。
(2)パーソナルな領域における代弁者としてのイメージについて
話が僕とバンドの関係性の話からは少し脱線するが、このバンドで「呪い」という言葉を使う以上は避けられない話題であると思うので触れていく。
My Bloody Valentineの「only shallow」を思わせるドラムで始まる作品『eureka』(こういった部分もきのこ帝国=シューゲイズバンドの図式を成り立たせる為に寄与していただろう)は、きのこ帝国の中でも特に暗く切迫感のある楽曲が並んでいる。歌詞に関しても、愛憎をテーマにした攻撃的な内容のものが多い。
とにかく重く、自分自身を削り取って生み出したかのような楽曲たちは、自分を含め、音楽に共感性を強く求める人に刺さりに刺さったのである。また、その表現がシューゲイズ的世界観と非常にマッチしており、感動的ですらある。
(下の画像は2ndアルバムの『eureka』)
こういった作品の世界観にハマったファンが感じるバンドに対する信頼感は、表現されている感情がパーソナルなものであればあるほど、強く絶対的なものとなる(誰に相談することもできないような行き場のない感情の代弁者となりうるため)。しかし、皮肉なことに、この『eureka』のインタビューで佐藤はこのように述べている。
でも、自分が目指したいゴールがあれば、進みたい道も自ずと明確になるはずで。で、それはたぶん、多くの人に聴いてもらえる方向だと思っています。つまり、一部のコアなリスナーに届ける方向ではない。今はまだ友達やおじいちゃんおばあちゃんに聴いてもらえるような曲じゃないなって思うんですけど(笑)。いつかもうちょっと成長したら、そういう人たちにも自然と受け入れてもらえるような曲が書きたいなって。
実際に、次作の『ロンググッドバイ』からは、徐々に開けた楽曲が多くなっていくのだが、これはきのこ帝国を自分たちの代弁者だと考えていたファンにとっては受け入れがたい「裏切り」であったのだ。
このように、ここでの「呪い」とは、僕(ファン)の勝手な期待や信頼の裏返しのことであり、恐らくバンドの側からすれば迷惑極まりないものだろうが、新曲が発表されれば『ロンググッドバイ』で見せたような最高にカッコいい曲を期待しては撃沈する「呪いの」日々がしばらく続くことになる。
そう、あの曲を聴くまでは…。
(僕ときのこ帝国-③に続く)