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「retake-とらえなおされる日常-」コンセプト・ノート

これは、2002年にせんだいメディアテークで開催した「retake-とらえなおされる日常-」を企画するときのメモである。開館2年目の最初の企画で、展覧会・上映会・ワークショップを組み合わせたものであった。私は全体のコンセプトと、展示作家の一部、上映企画、ワークショップの基本的なアイディアを担当した。20年も経った今読むと「SNSがない時代」を実感する。
ところで、当時の分担からしても私がギャラリーの企画に関わることは想定外であった。このまま展覧会の仕事もコンスタントにしていたらどうなっただろうと思うことがあるが、おそらくそうした業務的需要も自らの関心もなかったのは今となっては幸いと思われる。記憶では、当初計画されていた展覧会が頓挫し、急遽応援要員として組み入れられたのだったと思う。職場の会合がはけて皆が二次会に行っている間、夜中に馴染みの飲み屋で一人この草稿を書いていた。

初出:notweb(2002年2月1日)


「retake(リテイク)」とは、「re(ふたたび)-take(とる)」の通り、写真や映画の再撮影あるいはそのようにして撮り直されたものを指す言葉である。

撮り直すというのだから、どこか否定的な意味が漂う言葉でもある。撮り直したものが良いとは限らないのだが、一度撮ったものがどこか物足りなくて、もう一度撮り直す。頭のなかで描いていた「現実のイメージ」と目の前の「現実」が違うという思いと、もう一度撮ってみればより「イメージされた現実」に近づくだろうという期待。あるいは、目の前にある光景への漠然とした希望がその行為の背景には隠されている。外界からの単なる刺激(情報)から意味を見いだそうとする無意識のはたらきなのかもしれない。

しかし、見ようとしていないために見えていないもの、あるいは、知ろうとしていないために知らないものは、おそらくこの世界にあふれている。あるいは、そのような世界のありかたがごく普通のもの=日常なのであろう。

ところで、その日常の空間は何種類かに分けることができる。たとえば、「私」という身体に属している領域については、現代に生きる私たちは比較的関心が高い。毎日の体の調子や清潔さについて、過剰なまでに関心がある人は少なくないだろう。また、TVやインターネットを通じて触れることができるグローバルな規模での日常にも関心が高い。毎日ニュース番組を見ては、世界各地で起こっている悲しい出来事について、危害がおよばない場所で私たちは憂えている。そして、毎日を暮らす街や、街を構成するさまざまな場所における日常がある。友だちとの会話に出てきたりタウン誌に掲載される情報をもとに毎日の生活に変化を与えながら人生の大半を過ごしている。しかし、その日常について常に、それこそ「日常的」に敏感であろうとすることは少ないだろう。タウン誌や口コミがその役割を代わりに担ってくれているので、それ以上に知る必要はないと感じているのかもしれない。現代は情報が氾濫していると言われるが、それらは目の前を通り過ぎるだけで見ているわけではない。その方が現代という自然を生きるためには的確な方法で、いちいち目の前の光景の意味を自分で考えていては生きていけないだろう。

「retake-とらえなおされる日常-」は、そのような日常的な空間において、隠されている視点、また、意識することがなかった空間そのものをさまざまな装置を媒介として知覚しようとする試みである。ここでの装置とは、アートであり、映画であり、科学的な調査であり、自らからだを動かすこと(ワークショップ)である。それらの装置を通して、意図しなくとも存在する空間とそこにいる自分について新たな視点で眺めてみることは、先に述べた目の前にある現実への漠然とした希望を、対象を見つめる能力をもった人間を手を借りながら、あるいは、それに触発されながら、自分自身で具体化することである。この場に訪れたことをきっかけに、日常を鋭敏に意識するひとつの姿勢を自分のなかに取り入れられるとすれば、通俗的な「新しさ」という脅迫に必ずしもとらわれることなく、見えないものを見ようとする行為から立ち現れる「新しさ」として知覚することが可能になるのではないだろうか。

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