アメリカのタクシーが黄色いわけ
ニューヨークの写真を見ると少なかれ黄色いタクシーが写りこんでいることが多いと思います。ニューヨークのシンボルとしても、イエローキャブは大きな存在であるとも言われています。その過程をちょっぴりと解説していきます。
その前にアメリカでのタクシーの歴史について軽く説明をしたいと思います。最初からタクシーの色が黄色だった訳でなく、赤色や緑色だったのです。1907年にハリー・アレンというビジネスマンがフランスから赤色と緑色の「タクシメーター」を輸入したことから始まりました。これがニューヨーク初のメーター付きタクシーとなったのですが、1年たったのちに給料について揉め事が起きハリーのタクシー事業はなくなってしまいました。しかしこの1年でタクシー事業が広まり多くのオーナーが参加を始めていました。その中で自らのタクシーを差別化するために、自分のフリートの色を統一することが主流となっていました。コリゲート大学のタクシー歴史家のグラハム・ホッジズによると当時あった色として確認されていたものでは、白、茶色、黒、赤、そして黄色と様々な色があったと伝えています。あの映画「グレート・ギャツビー」でもラベンダー色のタクシーと描かれているほど様々な色があったと言われています。
そしてこの2年後にタクシー会社のうち2社が黄色を選択したと言われています。1つはニューヨーク州のアルバート・ロックウェルのイエロー・タクシーキャブ・カンパニー。そしてもう1つはイリノイ州シカゴのジョン・ハーツのイエロー・キャブ・カンパニーです。
それではそれぞれがどのような過程で黄色を選んだのでしょうか?
まずはアルバート・ロックウェル。妻とヨーロッパに旅行へ行った際にタクシー事業の良さをみて、1908年にイエロー・タクシーキャブ・カンパニーの設立をしました。妻が好きな色の黄色を妻から提案されて、確かに目立つ色だとロックウェルも思い1910年にはイエロータクシーと存在感を認知され、1912年にイエロー・タクシーキャブ・カンパニーに名前を変更することにしました。そして黄色を独自の色にするために法的にも行動を行いました。ニューヨーク州の最高裁判所では、他のタクシー会社に黄色を使うことを阻止することはできなかったが、イエロー・タクシーキャブ・カンパニーと無関係であることを示す必要があると決めました。この結果で50社に影響があり、結果的に黄色いタクシーを自社のみにすることができました。これはとても有名な話だと思いますが、実はロックウェルが全てではなかったのです。
それではジョン・ハーツはどうだったのでしょう?あのアメリカのレンタカー会社でおなじみのハーツさんこそが実は黄色いタクシーを有名にしていったのです。ハーツは1907年にタクシー事業を開業し大きな成功を収めていました。イリノイ州の大学の研究で黄色に少し赤色を混ぜた色が遠くからでも一番目立つ色だということが分かり、この塗装をすることに決めました。そしてイリノイ州シカゴでも同じく他のタクシーが黄色にできなくする手順をとっているとの報道がありました。
ここからタクシーへの規制が始まりました。1937年にニューヨーク州ではタクシーのメダルでの承認システムが始まり、タクシーの台数に制限がかかりました。承認があるタクシーは従来のタクシーのようにどこからでもお客さんを拾うことができました。承認がないタクシーはリムジンのように先にお客さんから予約が必要で決まった価格を先に提示する必要がありました。そのため承認がないタクシードライバーは空港など、決まったところから運転をするようになりました。空港からニューヨークシティーへは高い賃金がもらえることから承認があるタクシーも空港などテロテリーの争いが始まりました。そのためお客さんが見た目だけで区別できなことから、承認があるタクシーを黄色、承認がないタクシーはその他の色にするようにと州知事のジョン・リンディシーが1969年に法律できあがりました。
そして今よく知られている色こそが公式の色としてニューヨーク州に定められました。公式にはデゥポント社のM6284 yellowが今のアメリカのタクシーのシンボルとして選ばれました。
他にもタクシー以外で黄色い車はなかなか見かけないからっても言われてたり。
tl;dr(忙しい人のために)
・ニューヨーク州:アルバート・ロックウェルのイエロー・タクシーキャブ・カンパニーは妻が好きな色で提案されたから。
・イリノイ州シカゴ:ジョン・ハーツのイエロー・キャブ・カンパニーは大学の調査で黄色に少し赤を混ぜた色が一番目立つことがわかったため。
・ニューヨーク州でタクシーに承認が必要となり、お客さんがすぐにわかるように承認された会社が黄色のタクシーを利用することができた。
・公式の色はDuPont社のM6284 yellow.