清貧の思想の中の階級差別的固定観念
例によって近所の古本屋で約100円だったので買った本だが。
中野孝次『清貧の思想』文春文庫[1996]
(単行本の出版は1992年)
だいたいバブル崩壊後に出て広く読まれたようで、僕が買ったものは16刷[2018]だった。
この本のテーマを端的に言うとしたら、「まえがき」にある次の数行を引用するのが良さそうだ。
このことを中野氏は「西行・兼好・光悦・芭蕉・池大雅・良寛など」を引きながら、二百数十ページにわたって解説しているのである。
次の箇所などは、同時代の雰囲気を伝えていて興味深い。今日、未来への不安に駆られて非常に多くの人がiDeCoやNISAをやるのとは、だいぶ違うようだ。
さてこの手の本や言説(清貧、隠遁とか)に共通するのは、次の二つの考えである。
❶お金の話をすること、お金にこだわること、お金のことを考えることを卑しいと見なす。もっと広く一般化すれば、実利に結びつくこと全般を低俗と見なす考え方だと言っても良さそうだ。
❷詩歌、絵画、音楽など実利に結びつかないことを尊い、高尚なことと見なす。
不思議なことにこの二つは、先祖代々物質的に恵まれてきた人々と同じ考え方なのである。要するに、極めて貴族的な考え方なのである。
実利を低俗と見なし、実利を度外視したことを高尚と見なすのは、顕示的閑暇の考え方に基づいている。
だから、「お金のことを考えるのは卑しい」という考え方は、一面では確実に、階級差別的な固定観念を含んでいる。もっとあけすけに言ってしまうと、清貧とか隠遁の思想というものは、顕示的閑暇が極限まで発展してしまって、「金がないほうが偉い」という状態にまで達した結果発生した思想なんじゃないか、とすら思われる。
たとえばつい10年くらい前は、家にテレビがないほうがなんとなく生活レベルが高そうな感じがしたものである(今はちょっと違うようだ)。何かが「ある」ことが当たり前になると、かえって「無い」ことのほうがステータスになることの好例だ。
この手の本や言説の残念なところは、何を高尚と見なし、何を低俗と見なすかを決める価値観を、当然のものとして受け入れているところだ。言い換えれば、顕示的閑暇のレベルまで掘り下げて分析したものは見たことがない。
(他には、この手まとまった本としては、佐藤正英『隠遁の思想―西行をめぐって』とか、言説としては「日本人は昔はpoorであってもnobleだった」とかである。)だから、その主張に同意しない人にとっては、せいぜい面白いエピソード集とか、道徳的な説教話程度のものになってしまう。
しかし一方で、芸術や、何か精神的な価値があるものに接して、それを尊いと感じるのは、階級的な固定観念を超越した、何か絶対的な価値基準があるようにも思える。
たとえば、原始人の社会にあっても、つまり顕示的閑暇や顕示的浪費などの差別的な観念が発達していない社会であっても、芸術に感動したり、芸術を大切にしたりする気持ちは、多分発生すると想像できる。
では金や物の話をすることや考えることは、卑しいのだろうか。金や物は本来役に立つものである。役に立つ物事を考えること自体は、卑しいはずがないというのが僕の考えだ。
では何が卑しいと感じられるのか。顕示的閑暇に基づいたものの見方でなくても、卑しいと感じられる何かはあるのだろうか。それはもしかしたら、安易に何にでも交換価値を考えること、本来交換できないはずのものを交換可能だと見なすことかもしれない。