「生理の貧困」からみる「正義の貧困」
コスメは買えても生理用品は買えないという記事を読んだ。
先日3月8日の国際女性デーを境に、女性にフォーカスしたジェンダー平等問題の記事を多く目にするようになった。
やっと前向きに物事が動き出した気がして嬉しい。私はフェミニストでもなんでもないけど、女性として生まれたから声を上げる使命があると、そう感じてこの記事を書くことにした。
そしてその(別名ミモザの日)と共に、話題に上がるようになってきた「生理問題」
女性として生まれた以上、切り離せない関係にあるのが、そう、「生理」だ。
あの毎月やってくる鈍い下腹部の痛み、些細なことでも鬱々とさせる重たい気、不快感のある生活を1週間ほど共に過ごさなければいけないのだから、ただの整理現象で片付けてもらいたくはない。
初潮を迎えた瞬間は、恥ずかしくて言い出せなかった。初めて、お祝いされることに心地悪さと抵抗を感んじた日でもあった。けれど、母親が用意してくれたケーキになんだか”大人の階段を登る”という感覚さえ味わった思春期のあの日を、今でも覚えている。
正式に女の子として認められた感じがしたあの日。
そんな時代とは裏腹に、今社会で起きているのは残酷な現実だった。
母親のネグレクトによって、初潮がきた小学校4年から中学卒業までの6年間、ナプキンはもちろん、それを買うお金すら与えられなかったという少女。
昼はティッシュやキッチンペーパーで代用し、夜は昼用のナプキンを使う。多いときは昼用のナプキンを2枚重ね、寝るときは布団にバスタオルを敷いた。
ティッシュで過ごす昼間は、経血漏れとの闘いだった。黒いスカートを履き、ショーツの上にさらにスパッツを履く。ショーツにティッシュをはさみ、さらにショーツとスパッツの間にもティッシュをはさむ。また、椅子に座るときはスカートに染みないよう、スカートをまくり、スパッツが椅子に当たるように座った。
耳を疑うような現実だ、が起きているのは事実。
一体何人もの少女が同じ思いをしているだろう。胸がいたい。
日本は性に関しての情報がどこか汚い、恥晒し、というネガティヴな印象が強いと感じる。だからニュースにも取り上げられにくく、検討することへの優先順位も後回しにされやすいのではないかと思う。
それに比べ、海外のニュースを見ていると刺激を受ける。
ホワイトデーを目前に、度々目にするのは、ジョークを交えたアダルトグッツの広告や、性に関しての悩み相談コラムなんかが多く見られる。
男女関係なく、性が生活の一部として浸透しているように感じる。そこには抵抗がなく、理解がある。
性差別をなくすこと=性教育についての見直しを図ること
でもあるのではないかと思う。
イギリスでは公立小学校、公立中学校、公立高校で、生理用品の無料配布がついにスタートした。
日本も同じように対策をあげて行かなければ、不登校やいじめが増え続ける社会から切り離すことはできない。
この女性×生理のテーマは多くの社会問題と並列してくる。
紙ナプキンを布に変える取り組みや、月経カップの浸透を視野に入れた環境問題の改善。
今回のように貧困差も明らかになってくるだろう。
コスメは買えてもナプキンは買えないという現実は存在する。おしゃれを優先し、外側からはわからない経血処置、つまり「見えない部分」を後回しにするのだ。
こうした「見えない部分」を改善するためにはどうしたらいいのか。 生理について語りやすい環境にすること、「見せかけ」の安心・安全ではなく、隠された「見えない部分」の問題を正当化していく為に綴ってみました。
Justice is truth in action.
END
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