松尾芭蕉と似雲。西行法師を募った二人のすれ違い。大阪府 南河内郡 河南町 弘川寺
松尾芭蕉(まつおばしょう)は、1644(寛永21)年に伊賀の国に生まれ、1694(元禄7)年に大坂南久太郎町で死去する。似雲(じうん)は1673(寛文13)年に安芸国に生まれる。芭蕉がまだその俳号を称せず、江戸に住んでいた頃である。ともに西行法師を募っていた二人である。
芭蕉は、西行法師を想い、旅をしながら歌を詠むというライフスタイルを求めて、まず、『野ざらし紀行』の旅に出る。東海道を西へ向かい、伊賀・大和・吉野・山城・美濃・尾張・甲斐を廻った。再び伊賀に入って越年すると、木曽・甲斐を経て江戸に戻ったのは1685(貞享2)年であった。
そして、西行500回忌に当たる1689(元禄2)年の3月27日、弟子の曾良を伴い芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出た。
その後ふるさとの伊賀上野に行くわけだが、それから大坂へたびたび行くときに使っていたのが、聖徳太子の時代から通っていた竹内街道である。
芭蕉は旅すがら竹内街道あたりの景色を歌にしている。奈良県葛城市竹内から竹内峠へ登り始める街道沿いに綿弓塚という芭蕉にちなんだ記念碑がある。
芭蕉の「野ざらし紀行」(甲子吟行)に収められた句(1684年)
綿弓や 琵琶に慰む 竹の奥
一方、似雲は1700(寛文13)年1月2日、広島で酒造を営む裕福な商家に生れる。10歳にして「大学」の素読をうけるなど、教養ある環境に育ったと思われるが、8歳の折、すでに母を亡くしている(『としなみ草』巻20「思出草」)。1701(元禄14)年父をも亡くし、1708(宝永5)年、36歳の10月に安藝宮島の光明院にて出家し、如雲と号した。翌年京へ出て仏道修行をし、このころ歌道に志す。1715(正徳5)年、似雲(じうん)と改め、前後して晩年にいたるまでの間、諸国を行脚する。生涯をとおして西行追慕の詩情を持ちつづけたことはことに著名であるが、この感情の原点に亡母の命日2月16日が関係している(西行法師の命日は旧暦2月16日)。1729(享保)14年亡母の五十回忌を営み、1732(享保17)年60歳の折、河内国弘川寺に西行塚を発見、以後毎年2月16日に西行塚に詣でて和歌を献じた。1753(宝暦3)年81歳の7月8日、和泉踞尾の常楽庵に没す。弘川寺西行塚のほとりに葬られた[i]。
似雲の作歌は、あまり一般によく知れたものはないが、1748(寛政2)年刊の京都の文人伴蒿蹊(1733‐1806)の筆になる『近世畸人伝』ⅱの似雲の項に、西行法師の墓のそばに居住を決めた時に歌った歌。
並ならぬ 昔の人の跡とめて 弘川寺に すみぞめのそで
また、吉野の山に庵を置いたときに歌った
露の身を おく斗(ばかり)なる草の庵 結ばんとすれば 山風ぞ吹
が伝えられる。
似雲が西行の墓を見つけたのは1732(享保17)年2月16日。芭蕉の死後38年が経っていた。
通いなれた竹内街道から、ほんの数キロのところに、西行法師の墓があると知っていたら、かならず芭蕉はそこを訪ね、その墳墓の前でなんと歌を詠んだことであろう。
西行法師の吉野での歌。
とくとくと 落つる岩間の苔清水 くみほす程も なきすまひかな
芭蕉が「野ざらし」で、西行を思って読んだ歌
露とくとく こころみに浮き世 すすがばや
似雲が吉野で読んだ
露の身を おく斗(ばかり)なる草の庵 結ばんとすれば 山風ぞ吹
この三つの歌を合わせて、私はこの歌を捧げることにする。
弘川の 露とくとくと蝉の声 出会えぬ人の 縁ぞ結ばん
[i] 似雲,ネットミュージアム兵庫文学館,
https://www.artm.pref.hyogo.jp/bungaku/jousetsu/authors/a1074/
[ⅱ]近世畸人伝(正・続),国際日本文化研究センターデータベース,
芭蕉と共に旅をした曽良の終の棲家は壱岐の島でありました。
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