肥満児のぼくは社長と呼ばれた
鏡に映る僕は丸々としていた。
頭頂部から始まるそれは亡く子も黙らせる前衛的な曲線美をしており一切の凹凸も存在していなかったように思う。太っているものの比喩としてはいろいろ言われるが、ここではあの日憧れた雪だるまとでも言っておこう。
我ながらプライスレスである。
最初に気づいたのはおそらく年長くらいでその頃はなんとも思っていなかった。そりゃあ太ってるなくらいには思っていたがそこ止まりである。直感でそれを感じ、それ以上は何も発展しない。もちろんいじられたりなんかした記憶はない。
いや、ちょっぴしある。幼稚園時代の写真として台所に長らく餅つき大会の写真が飾られていたからだ。その中にはプライスレス雪だるまとその祖父母が笑顔で並んでいた。
いやわしほぼお餅やねんて。。。ほんでおじいちゃんビデオ撮りだすんやめて。。。おもむろに3脚持ち出すなや。。。
餅だけに粘り強く脳裏に焼き付いている。無理やり引きちぎってもどうせこびりついているので、そんなに強く引っ張らないでください。それでもあなたを助けたいんです!という方は下記にご連絡ください。
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種子島宇宙センターにおつなぎします。私を宇宙に連れてって〜
さて、太っていた頃の思い出といえばいくつもあるのだが、今回は
「社長」というあだ名の由来について書いていこうと思う。
課長就任の日
太っちょの大物ルーキー登場に入学式はそれはそれは湧いた。ハワイが好きな方ならキラウエア火山を連想するようなワキっぷり。これが本当のワイキキ?とフラガールたちの頭を混乱させつつも1歩1歩踏みしめたあの体育館を今でも覚えています。
何事もなく終わるかと思わりほっと一息ついてタイミングで少年少女なら誰もが夢見る天井タッチに向けて膝の軟骨を縮めようとしたのも束の間、当時の6年生が僕に向かってこう言ってきたのだ。
「お疲れ様です!課長!」
課長、、、??
入学式を終え、私は学校創立以来初の課長に就任したのだ。当時まだ7歳、異例のスピード出世である。日本における課長クラスの平均年齢は40歳程度であるためその差33歳。まさに大島優子1人分の差である。
当時、金刺課長は課長という概念を知らず「よ、課長!」などといじられてもおどおどしていたように記憶している。ほっぺたを真冬の東京タワーのように赤くしてテヘヘってなもんである。
下級生よりも役職が下にもかかわらず(いやそもそも役職なんてないのだが)6年生の優しく接してくれていた。全く上級生の器の大きさには驚かされるものだ。イメージ的にはギネス記録に挑戦する芋煮会の鍋くらいデカい。
そんな6年生から将来有望だと見出され、毎日砂場で相撲の特訓をするようになるのだが、またそれは別記事にて。
この課長がきっかけとなり社長へと続いていくのだが途中の役職は飛ばしてのいきなり社長となった。
金刺専務!
金刺チーフ!
金刺エリアマネージャー!
呼ばれたかったものである。今悔やむとすれば小1の教室に会社の役職に関する表を貼らなかったことだ。時間をかけて教育すればガキンチョでも昇進システムに理解はあっただろうに。教育現場に新たな波を起こしかねないので、この件はこの場にとどめておく。
足が一番速い子が確か言い出したことがきっかけでみんなも言うようになったように記憶しています。小学生は足の速さ=カースト層と言っても過言ないですから、言うことは絶対というかみんなも言うようになるわけです。ちなみに私は当然クラスで1番遅かった。
遅いなりに走ることに苦手意識はそんなになく、体育のリレーは猪のつもりで望んでいました。走りながら「俺は猪だ。猪突猛進だ」「前一直線にしか走ることのできない獣なんだ」と唱えながら走っていました。マジなのがイタイ。。
小学校では陸上大会の練習で段階的にスピードを上げるうまさを先生に褒められた。上級生や同学年の中唯一褒められたのですごく嬉しかったのを今でも覚えている。おそらく遅すぎて速度調節が見やすかっただけなのだったと今では思うので、僕も足が決して早くない子には同じメニューをさせて、同じように褒めてあげたい。きっと誰でも嬉しいから。
社長ゲーム
社長就任後「社長ゲーム」に苦しんだ。社長ゲームとは100%社長が鬼で始まる増殖鬼ごっこで、走るのが遅い僕にはどうにも面白くない遊びだった。
きっかけとなったのはある日の図書室。好きな子の名前を言われると恥ずかしがり顔をクリスマスの東京タワーのように赤くするのが通例だった僕ですが、その日はなんだかノリに乗っていて「Yちゃん!」って言われた瞬間に白目を剥きながら行ってきたやつに襲い掛かりました。白目太っちょに襲われるなんて宇宙の歴史で見ても知る人は少ないはず。私も月の裏側以外では見たことありません(いやあるんかい)。
それ以来は「社長ゲームやろうぜ!」の一言で半強制的にスタートしていた。いやモンハンでもここまでやろうぜで始まることはないって。。しばらくして図工の時間とかと被っている時に友達の作品が気になり鬼でありながらのぞいていたらカーストTOPと喧嘩になりました。その時の僕が喧嘩の弱いこと弱いこと。柴田理恵くらい泣きましたね。
まあそんな感じで社長になったわけですが、中学以降は定着せず自然と呼ばれなくなりました。私にとっての定年は12歳だったわけです。以来役職で呼ばれるようなことは無くなりましたが、今でもあの「社長!」と呼ばれていた日々を懐かしく思う日々はあるとかないとか。
あだ名についてでした。
あなたのあだ名は何でしたか?
よければコメントで教えてください。
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