母への手紙
お母さん。
私が4歳の時、あなたは離婚し、生活保護を受け始めました。
お父さんは休日にパチンコに出かけ、遊ぶ金がなくなると、あなたの首を絞めたり、殴っていましたからね。
でも、私も5、6歳の頃から、耳垢がジュクジュクしているとか、胎児の時にお腹を蹴ったとか、あなたに悪口ばかり言われてきました。
「お前は父親に似ている」とも言いましたね。
幼かった私は、その言葉を真に受けて罪悪感を持っていました。
あなたがいつどこで怒り出すかわからないので、思考停止してしまったのです。
8歳の頃、いじめの加害者が私をからかって逃げました。
仕返しをしようと追いかけた私は、交通事故に遭い、手首を骨折。
病院のベッドにいる私のもとに現れたあなたは、私が泣きそうになりながら「おかあさ…」と言うのをさえぎり、「オマエハ何をヤッテルンヤア!」と怒鳴りつけましたね。
私は初めて憎しみを感じました。
私は、「痛かったな? お母さんが来たからもう安心しいや」と言ってほしかった。
それからのあなたは、いじめが絡んだ事故であることを担任が学校に報告していなかったことに腹を立て、12歳までの5年間、無関係の弟と私を自宅に監禁し、通学を禁じました。
あなたが「あんな学校に行きたいんカー!」と脅すので、私は怖くて「行きたくない」と言ってしまい、あなたはそれを利用して、私の意思で通学拒否しているかのように偽装したのです。
あなたが昼過ぎやおやつ時に起きてくるまで、私と弟は六畳の和室で学校から送られてくるドリルをやったり、テレビをみていましたが、大声で笑おうものなら、あなたが怒鳴るので、物音を立てないよう注意していました。
買い出し以外の外出や運動は禁止され、和室にいる事を強要されました。
朝ごはんや昼ご飯は抜き。
あまりにお腹がすいて、私が起こそうとすると、あなたは「ナンヤアー!」とやくざのような声で威圧しましたね。
洗濯や掃除は週一回。
私や弟は2、3日続けて同じ服を着させられ、服からは香ばしいにおいがしました。
着るものが無いからと、あなたの下着を履かされた時は、屈辱的な気持ちになりましたよ。
布団や部屋はホコリだらけ。
風呂はカビだらけ。
トイレはこびりついた黄ばみだらけ。
不満を言えば、あなたは耳をつんざく甲高い声で怒鳴っては私たちを黙らせ、「親の体調が悪いのに気を使えないなんて、なんて思いやりのない子だ」となじり、私が代わりに掃除をしようとすると、「ヤメテエー!」と叫んで邪魔しましたね。
私が10歳の頃、あなたは私が遊んでいたミニ四駆を踏んでめちゃめちゃに壊し、「こんなもんで遊ぶなー!」と怒鳴りました。
普通の子なら腹が立ったり、泣いたりするのでしょう。
でも、私は感情を持つことに罪悪感を植え付けられていたので、自分の気持ちが分からなくなっていたのです。
あなたは「全員敵だから口を利くな」と脅し、他人との交流も禁止していたので、私は人とつきあう方法が分からないまま育ちました。
兄弟げんかをすると、あなたは私だけ裸足のまま家の外に締め出し、1、2時間放置しましたね。
暗い夜の時間でも、休日の昼間でも。
近所の子が遊んでる前で放り出され、私は恥をかかされました。
中学に入ると、あなたは「小学校に通っていなかった事を誰にも言うな」と脅し、野球部をやめさせました。
野球のユニフォームは、あなたが浴槽につけたままカビまみれで放置され、私が洗おうとすると、あなたは「ヤメテー!」と怒鳴るので、着ていくものがなく、部活動に出られなくなったのです。
人が怖くなっていた私は、中学や高校で不良たちに目を付けられました。
トイレを覗かれ、ズボンを脱がされそうになり、椅子に薬品をかけられたり…。
一番怖かったのは、カッターを首に突きつけられた事と、首を絞められた事。
他にも、ありえないようないじめに遭い、私の心はボロボロ。
やがてパニック発作が出て、救急車で運ばれ、精神科で抗不安薬を処方されたのに、あなたは「依存症になる。飲むな」と言って薬を取り上げ、継続的な治療を受けさせてくれません。
大学に合格しても、「〇〇大学にしか入れんのかー!」と怒鳴りましたね。
私はやがて神経症になり、大学に通えなくなりました。
そんな私をあなたは放置し、健康保険証すら作らせず、病院に連れて行ってもくれません。
私は大学を中退し、短時間のパートで食費を稼ぐようになりました。
23歳の時、パートから帰った私を、あなたは玄関に入れず、「伯父の家に行け」と言いました。
当時の私は、あなたのイエスマンでした。
伯父の家に着いて三日目、伯父から「帰った方がいい」と言われると、あなたは「叔母の家に行け」と言いました。
いくら理由を聞いても、ヒステリックに「帰ってこんといて! 家には入れへんで!」の一点張り。
叔母の家に訪問を断られると、あなたは、離婚してから一切連絡を取っていない父の実家に行けと言いました。
父は感情の動きが見えない人でした。
19年ぶりに会う私を見ても顔色一つ変えず、家に泊めてとお願いした私に小遣いを渡し、「じゃあな」と言って去っていきました。
あなたに電話すると、「もう知らん」とガチャ切り。
その後は親戚の家をたらいまわしにされ、最後は警察署のロビーの長いすで一晩を明かすことに…。
それからビジネスホテルに泊まり、お金がほとんど底をつきました。
頭は真っ白。
はさみで手首を切ろうとしましたが、切れません。
それからの一か月間は、飲まず食わずで放浪し、公園のベンチや、駅に併設しているトイレの簡易ベッドなどで夜を明かしました。
真冬の12月。
寒くてブルブル震えて、とても眠れません。
100均で買ったアルミのシートを体に巻き、ろうそくに火をつけましたが、ほとんど役に立ちません。
朦朧とした状態で夜が明ける毎日。
その間に何度あなたの家のピンポンを押したでしょうか?
玄関のポストに何度手紙を入れたでしょうか?
あなたはすべて無視しましたね。
食べ物を買うお金も無くなると、市役所の食堂に入り、置き型のドレッシングを小皿に入れて舐めました。
夜はレストランや市役所のゴミ捨て場をあさり、ごみ袋の中から食堂の残飯と思われるチャーハンらしきものを手ですくい取って、むしゃぶりつきました。
藁にもすがる思いで役所を訪ね、あなたの生活保護を担当していたケースワーカーに事情を話すと、その男はヘラヘラ笑いながら「西成に行けや」と言いました。
私はフラフラの状態でハローワークに行き、求人を探し、実家の周辺5キロ四方を歩いて、面接を受けました。
運良く畳工場が「明日から来てくれ」と言ってくれて、翌日から働き始めました。
お金が無いというと、日払いにしてくれました。
食べ物や飲み物、下着を買い、マクドナルドやすき家などで安いものを頼んで一晩中い座りましたが、どの店も数日繰り返すと追いだされました。
駅トイレの簡易ベッドで震えながら寝て、工場に向かう日々が三週間も続き、耐えられなくなった私は、公共施設のパソコンで助かる方法を探し、自立支援団体の存在を知ったのです。
団体へ行くと、すぐ行政につないでもらえて、施設に入る事が出来ました。
あなたは私の自立のために家から放り出したのだと、信じていました。
今はそう思いません。
あなたの6人の兄のほとんどは有名大学出身。
小学校の校長、中学の教頭、メーカーの役員、商社の役員などをしていました。
あなたは兄弟に見栄を張るため、私や弟を利用したかったのでしょう。
大学を中退した私には利用価値が無いから、家から追い出したのですね。
あなたにとって子どもは、あなた自身のプライドを満足させるための道具。
私は、あなたを「お母さん」と呼びたくありません。
私は未だにうつと複雑性PTSDで苦しんでいて、仕事ができないままです。
早くご自分の罪を自覚し、一生をかけて慰謝料を払ってください。
3000万円以上はもらわないと、気が済みません。
私の生活を、保障してください。
私の人生を、返してください。