他者への優位性を保たない努力(障がい福祉の仕事をしながら、ジュニアサッカーコーチをして見えてきたもの)
『子ども』は大人から教えてもらうのが当たり前。
『障がいがある人』は健常者(支援者)から助けてもらうのが当たり前。
この2つの当たり前の考え方には共通点があります。
①どちらも前者が弱い立場であること。子どもや障がいがある人は大人や健常者より劣っていると思っている。
②その対象となる人と立場が入れ代わることができないということ。子どもは将来的には勿論大人になりますが、子どもが突然大人になったり、大人が幼少期に戻ることはタイムマシーンでも無い限りできません。また、障害がある人は健常者になることができないし、健常者は障害がある人になる可能性はあるがその時点では障害がある人にはなれない。それぞれの対象と入れ代われないことで優位性を常に保つことができる。
まず①について。確かに子どもは大人から多くのことを学び、吸収します。しかし、常に子どもが立場的に劣っている状況なのかと言えばそうではありません。少なくても対等な場面は本来沢山あるはずです。「生徒と先生」「サッカー少年とコーチ」「親子関係」など。対等な立場を作れないのは大人の側の問題です。意図的に「子どもなんだから…」「子どもにはまだ早すぎる」など理由をつけて上下関係を構築して行ってしまうのです。その方が大人にとっては’’ラク"ですから。同じことが障害がある人と健常者との関係でも言えます。
次に②について。本人がその対象者と入れ代われないという状況が上下関係をより構築して行きます。そもそも上の立場にいる人は優位性を保ちたいと考えてしまいます。それは無意識的行っていることもあるかもしれません。しかし、それがエスカレートしていった場合、体罰やブラック部活、児童虐待など現代の社会問題になってしまいます。
また、障害がある人と健常者の関係でも同じことが言えます。こちらの方が問題は大きいかもしれません。障がいがある人は「自分が人より劣っている」と子どもの頃から感じていることが多く、最初から「自分は出来ない人間だ」と考えることが多い。その場合、最初から健常者(支援者)が優位な状況を作ってしまいます。本来、支援する側される側であったとしても対等な関係を構築して行かなければ、障がいがある人の自己実現はできず、支援する側が勝手に夢や希望を押し付けていることになります。また、街に障害がある人がいたときに行動には出ないが、感情として良くも悪くも過剰(敏感)に反応してしまうことがあるかもしれません。
このような現状があるということを理解しながら生活しているつもりですが、私自身も優位性を保とうとしていることがあります。それは子ども、障害がある人へだけではなく私生活の中でもです。文章や口で言うのは簡単で、実際に行動し続けることは難しいことだと思いますが『他者への優位性を持たない』ことを考え続けていくことは大切なことだと思います。