
なぜ「私」はアニメの沼にハマったのか
最近の肌感覚
最近では、「鬼滅の刃」などの作品が広く知られるようになり、
アニメにハマっていることが話題の種となる。さらには、見ていない人たちに対して視聴を強く薦めること(俗に:布教行為)が幅広い年代において急速に流行しているのではないかと考えます。
そこで私がなぜアニメに魅了されたのかを明らかにすることで、
一時的な流行りとしてのアニメという捉え方ではなく、
一度入ってしまったが最後の「沼」としてのアニメの側面を伝えたいです。
※今回使用する「アニメ」とは、主に深夜帯に放送されているものを指します。
アニメとの出会い
私がアニメにハマったきっかけは、中学生の頃でした。
少し年の離れた兄がアニメにハマっていたのを知ってはいたものの、
当時部活でゴリゴリ運動していた私としては、
「まさかアニメなんかにハマるわけない」と思っていました。
しかし、ふと兄の見ていないが名前を知っている作品に手が伸びて
気付けば沼にハマっていたという経緯です。
アリスが穴に落ちるぐらい速かったのを記憶しています。
アニメ沼へ足を踏み入れた瞬間
私の場合、一番初めに見たアニメは伏線の多いアニメでした。
当時の私はアニメの展開に何回も驚き、感動というよりもいつの間にか全話視聴が終わっていた感覚を味わいました。
よって、正直よくわからないシーンが多々あったため、再視聴をしてみた。すると、ジグソーパズルのピースを埋めていくような今まで経験したことのない達成感と安心感を得ました。
なぜ"私"はアニメ沼にハマったのか?
以上の経験から考えられる2つの理由を述べていきます。
1つ目に、優越感です。
先ほど述べたように、現代では「どうしてこの○○見ていないの?」と
自身のコミュニティでの流行を相手にも求めてしまう行為がアニメにもみられるようになりました。
歴史を遡れば、貴族同士のより相手よりも着飾ることへの執着や
いかに相手を自身のロジックで打ち負かすかというソフィストの弁論術のように、相手よりも優位に立ちたいという欲求からの行動は、現れていました。
今回の私の経験を振り返ると、兄の知らないアニメを知っていることと
複雑な構造をしているアニメを理解しているというところに現れているのだと考えます。
さらには、この優越感が沼にハマる潤滑油、加速器のような役割を果たしているのです。
なぜなら、この優越感という評価軸はより広く、深く、アニメを知ることによって満たされるからです。
2つ目に、程よく分からないことです。
私は、アニメ沼にハマる前と後で決定的に考えが変わったことがあります。
それは、「理解すること」と「分かること」の違いです。
言い換えると、「ストーリーラインのロジックが理解できたこと」と
「キャラクターの言動の意味や価値が理解できること」の違いです。
アニメ沼にハマる以前は、起承転結を知っていることがアニメを知っていることである思っていました。
しかし、程よく分からないアニメを再帰的に見ることで
このキャラがこの場面でセリフを発することに、どのような価値や意味があるのかを考えるようになりました。
この考えの巡らせ方は、感情移入や共感に繋がる思考の仕方であると考えます。
極端かもしれませんが、高級料亭で出てきた料理を素材の味から、付け合わせのソースなどとの調和を用いて、段階的に深く味わう感覚に近いと思います。
この「吟味」の過程は、程よく分からないという脳に負荷のかかる状態でなければ発生しないとも考えます。
最後に
今回、ハマったら最後のアニメ沼を自身の経験から推察してみました。
私流アニメ沼の理由は、優越感と脳への負荷から生じる吟味の2つであることが分かりました。
この2つの理由は、アニメ特有のものではなく、本やアイドル、自分磨きやミニチュア作りなどの様々な事柄に対して、沼にハマっていく過程の中に存在することであるのかなとも感じました。
私自身アニメに沼ったことによって、少しだけ辛い思いをしたこともありましたが、アニメ作品を通して、キャラに共感し、自分のことも、他者のこともよく見えるようになり、吟味を重ねて粘り強く考えることを教えてくれたアニメ沼には感謝しかない!!
この文章が誰かの背中を少しでも押すことができたなら幸いです。