『デッドライン』
ゲイであること、
思考すること、
生きること。
哲学者/思想家でもある千葉雅也さんの小説『デッドライン』の帯に書かれたこのコピー。
真っ直ぐに畳み掛けるこの3行で僕は本を手にし、ぱっと開いたページから飛び込んできた「荘子」と「胡蝶の夢」の文字を見て購入を決めた。うん、やばそう、絶対当たりだ間違いない。一体全体、ゲイと荘子とはどんな取り合わせの小説だよ、と思う側からゾクゾクする。千葉雅也は小説という器のなかでどんな表現をするのだろう。
ひとことで言って、サイコーだ。
こんな小説が書けるなんて、
ひたすらに爽快だ。
悔しいほどの才能に衝撃的にお手上げ。
ドゥルーズ、マルセル・モース、ベンヤミン、荘子、デリダ。レヴィストロース、スピノザ、ヘーゲル。ページを繰るごとに当たり前に連打される名前についニヤニヤする。最初からぶっ飛ばすエロスと狂暴さも、ゲイやノンケやカムアウトの界隈も、大学生である僕と仲間の不毛なやり取りも、先生のチャーミングで心に残るアドバイスも、現実になる父の倒産も、迫りくるデッドラインも、めくるめくひんやりしたハッテン場も、ただ流れていくだけなのに読み手を離さない。
突出したモチーフ同士の意外性と、何より軽い流れのなかで現れ出る知性と深さや薄暗さ、仕組まれたカオスとオーダーが、誰にも書けないまたとない小説になっていた。小説の構造がまた、いい。
実は、この小説は、断片的に書いてその後シャッフルしたのだとインタビューで千葉氏が語っていた。(なんということか、とも、なるほどそうか、とも思う。)そして、小説のなかがハッテン場になっているのだとも言った。(実ににくい表現だ。)
カッチリしたものを書こうと神経症的に推敲したそれまでの書き方を捨て、このままでは仕事が続けられないとまで思い詰めて、書き方を崩した先に行き着いた本作。芥川賞候補にもなったこの作品には、小説というパッケージにしか詰め込めなかった当時の千葉氏の静かな声なき叫びが間欠泉のように吹き出しているようにも、感じた。
こういう手法があったのか。
剥き身の勝負。圧巻である。