
【小噺 #5】万年筆
男は父の遺品整理を重たい気持ちで続けていた。段ボール箱を開けては、思い出の品々と向き合う。そんな作業を繰り返す中、一本の万年筆を見つけた。
艶のある黒い軸に、細かな使用傷。でも不思議なほど手入れが行き届いている。父がこんなに大切にしていた物だとは知らなかった。その時は箱の中に戻し、他の遺品と一緒に押入れにしまった。
しかし、どうしても万年筆のことが気になって仕方がなかった。休日、文具店でインクを買い求め、万年筆を手に取った。
原稿用紙に向かい、おそるおそる万年筆を走らせる。すると不思議なことが起きた。まるで誰かが耳元で囁くように、物語が次々と浮かんでくる。指先から溢れ出す言葉たち。父の万年筆は、まるで男に語りかけているようだった。
それまで、小説家になることを夢見ながらも、一度も書き上げることができなかった男。でも今は違う。物語が、まるで生き物のように息づいていた。
デビュー作は予想以上の反響を呼んだ。「天才的な新人作家の登場」と批評家たちは絶賛した。テレビ番組にも呼ばれ、サイン会には長蛇の列ができた。
成功は男を変えていった。「才能は元からあった。ただそれに気づいていなかっただけだ」。そう思い込むようになった。
ある日、高級文具店のショーウィンドウに飾られた万年筆が目に留まった。「あんな素晴らしい万年筆なら、もっと素晴らしい作品が書けるはずだ」。父の形見の万年筆は、机の引き出しの奥へと追いやられた。
しかし、新しい万年筆は期待を裏切った。書き上げた原稿に、かつての輝きはなかった。
二作目の売上は初版の半分にも届かなかった。「スランプですね」と編集者は言った。三作目はさらに売れ行きが落ち、書評も厳しさを増していった。「デビュー作の輝きが失われた」「新鮮味に欠ける」。そんな言葉が並ぶようになった。
締切りに追われ、焦りだけが募っていく。「これではいけない」。男は次々と新しい万年筆を買い求めた。高級なものも、珍しいものも、古いものも。でも、どれも違った。
「あの万年筆じゃなきゃダメなんだ」。
気づいた時には遅すぎた。長い間放置されていた父の万年筆は、もはや文字を書くことができなくなっていた。インクは固まり、ペン先は錆びついていた。
その日を境に、男は一行も書けなくなった。物語を紡ぐ力を完全に失ってしまったのだ。
やがて男は筆を折った。
構想:私
執筆:Claude 3.5 Sonnet