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塩竈市杉村惇美術館を訪れて

「かんのさゆり・菊池聡太朗展 風景の練習」展

 宮城県にある塩竈市杉村惇美術館で行われていた「かんのさゆり・菊池聡太朗展 風景の練習」を訪れた。本展覧会は、これからの活躍が期待される作家に光を当てることを目的とする若手アーティスト支援プログラムVoyageの6回目にあたる。

また菊池聡太朗さんは筆者の研究室の卒業生である。作品やまちづくりについて、ビルド・フルーガスの高田さんや、ギャラリーのスタッフさんと対話した縁から、考えたこと展示中心に、少しでも言語化したいと思う。

塩釜のまち

 宮城県の塩釜を訪れた。2011年の東日本大震災の被害を少なからず受けた塩釜は、人口5万人少し、高齢化率30%で周辺地域にもみられるように、日本の他の地域よりも前倒しで高齢化が現出している。(高齢化という言葉はネガティブに聞こえるかもしれないが先入観は持たない方がいい派である。都会の50代の人よりも田舎の80代の人の方が楽しく朗らかな日常を送っていることは往々にしてあるのでついでにことわっておきたい。)

その一方で、風景の特徴として起伏に富んだ地形が都市計画的な整備をはばんだこともあり、空間的な余白が多いことがあげられる。街を歩いていると、一時期に計画では決して生まれる事のないくねった道や歴史的な出来事を想像させる時間の積み重ねが窺える。

(震災の影響か、沿岸部は区画割的な状況になっている。本塩釜駅周辺にはアートギャラリーや地域の資料館、近代以前期の湯屋の名残を感じさせる歴史的建造物、石造の建物が多く残っており、非近代的な情緒が保存・活用された貴重な風景を吸収することができる。)

ズボンをお尻のところまでドロドロにした小学生たちの楽しげな声や、高校生のカップルのプライベートなひとときも見受けられた。

(ちなみに塩釜駅周辺には阿部仁の菅野美術館、長谷川逸子の長井勝一漫画美術館がある)


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塩竈市杉村惇美術館周辺(googleマップ)

建築について

 のびやかな風情を感じながら、2月19日、20日と2日続けて塩竈市杉村惇美術館を訪問した。本建築は1950年建造の塩竈市公民館分室を改装し、2014年11月に開館した施設であり、ジブリ世界に登場しそうな、かまぼこ型にふくらんだ赤い屋根が可愛らしい建築である。

構造的工夫によって高さが獲得された大講堂に加え、現在は採掘終了している塩竈石を使用しされており、貴重な文化資源でもある。公民館と美術館の併存する特性をもち、訪問当日もバイオリン教室や体を動かす活動などが行われていた。

 元公民館であることから、地域との物理的距離が近く、展示室に子供たちのキャッキャする笑い声が入ってくる地域の日常が染み込んだ建築で、プロポーザルで敷地選定されて作られる現代美術館とはまた違った雰囲気が味わえる。

年数回の企画展の他に、子どもや地域住民向けのワークショップ、音楽イベントなど多彩なプログラムが実施されているようである。

 前のnoteでも触れたが、これからの実空間や都市のあり方、地域の文化施設のあり方を考える上でのヒント、課題を捉えられないだろうか、と言ったことも改めて考えていきたいと思わさせられた。


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「亀井邸越しの旧公民館分室」釣船富紀子 

杉村惇美術館近くの旧亀井邸で開かれていた「塩釜近辺モチーフの絵と不思議な絵 釣船富紀子作品展2」で手に入れた絵葉書より 

菊池聡太朗さんの作品について

 本展覧会での菊池さんの作品を取り上げたい。本作は、設計、施工と生活が混淆され、生活の変化や建築自体の変容およびそれらにともなう時間の堆積が内包されたウィスマクエラという建築に滞在し、図面や写真に記録と解釈を続けた上で、家の経験を記述するインスタレーションである。

(過去にされた写真を中心とする展示の模様を五十嵐先生が書かれているのでみてみてください。)

https://artscape.jp/report/review/10153534_1735.html

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展示風景1

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展示風景2 ラッパのような平面構成の小さな構造物の周りを回ると立っている位置から構造体越しに記録写真が眺められるよう仕掛けられている。

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展示プラン


 先述したように東北大学五十嵐太郎研究室出身の菊池さんは、在籍時に修士設計に取り組む段になって、先生からウィスマ・クエラのことを聞き、留学までしてどっぷり調べたという経緯があるそうである。

以下、作者の修士設計における説明を少し編集した。

(「記録と建築 DOCUMENTARY AND ARCHITECTURE」菊池聡太朗より)

 2017年、作者はインドネシアジャワ島の古都ジョグジャカルタで、近代建築の父と慕われ、もともとカトリックの神父で、アガ・カーン賞受賞者でもあるマングンウィジャヤという建築家と、彼の自邸ウィスマクエラに出会う。

市内中心部にある建築は、1984 年から即興的な増改築が繰り返され、建築家が亡くなってもなお、そこで活動する人々によって部分的な増改築が行われ続けられたという。

30 年以上に渡って増改築が行われている建築は現在、教育団体が活動を行なっているオフィスであると同時に、3 人のカトリック神父の住居にもなっているようである。

 その他にも彼の研究をする人や文化人が集まる文化サロンのような場所となっているようだ。増改築に伴ってできた段差の多い迷路のような空間において、様々なディテールや模様、素材が過剰に用いられた建築空間は、膨大な情報量を内包し、複雑化しており、全体像を把握するのは困難である。

室同士が壁で明確に区切られておらず、通常の構造体未満の家具や物によって空間がかたちづくられているために、奥が見え隠れすることも視覚的情報量の多さの一因になっていると同時に、この建築をより一層魅力的なものにしている。

 また大きな特徴として、ウィスマクエラは建築家の作品でありながら、図面が残っておらず、建設にも図面が用いられていない。

マングンウィジャヤが図面を用いずに建設を行ったことは増改築の即興的プロセスを反映しているとともに、周辺の匿名の人々との関係性を見いだすことができるように思われる、としている。

ここで建築家の活動に欠かせない建築図面の始まりについてのテキストを付記しておくので、参考されたい。

建築家の始まり 拙稿「情報技術と建築家 ー広がる職能ー」より抜粋
「建築家」という職業は、情報技術とともに生まれた。活版印刷がうまれたことに影響されているのである。ルネサンス期、当時活躍していた建築家でもあり、彫刻家でもあったミケランジェロは、彫刻の掘り出す作業について「私は、その大理石の中に天使を見出す、彼を自由にするまで掘り続けた」※1と語った。これに対し、L.B. アルベルティ(1404-1472) は、『彫刻論』のなかで、人間の作った計測表に従って職人が彫り出せばいいと主張し、データこそ彫刻の本質だとした。紙媒体の発明・流通による情報伝達が可能になった当時の時代ならではである。こうした現象は彫刻だけでなく、建築の図面、音楽に見る楽譜人も見られる。またA. パラーディオ(1508-1580)は、建築図面を掲載した自身の作品集も作っており、この時点で現代とほとんど変わらない建築家像に至っていたことになる。「建築家」という職能は、建物を実際につくる職人に対して、それをつくるための図面を基本とする情報生産者として位置づけられたのである。ここにデータを操作する設計者と素材を操作する生産者の分離がなされた。

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ヴィラ・ロトンダ アンドレア・パラディオ

■模型作品が赤く塗られていることについて


 ふと思い出したが、建築には白や黒など色に関する議論が存在する。少し引用ししてみる。

「黒で表されるミース的なるもの(近代建築の三代巨匠と称されることの多いミース・ファン・デル・ローエ)は、スティール系で、直線が勝っていて、線的な構成で透明感があって、即物的である。科学的理論者の装い。アンチ個人で必然の趣き。「虚の透明性」。白で表されるコルビュジエ的なるものとは、コンクリート系で、曲線が用いられ、面的な構成で、彫刻的で、物語的である。芸術家的幻想の装い。個人で自由の趣き。」(『独身者の住まい』竹山聖)


 また、モダニズムの建築は白く塗り固められたものがイメージされやすいが、このことについてスイスのヴァレリオ・オルジャーティは、以下のように語っている。Vオルジャーティは、「自分の建築が思考を刺激することが重要でーー理解しなければそのよさがわからないようなもの」を志向する建築家である。

「白色のコンクリートを使うのは、その建物が1つの発明であり、1つのアイデアである事を表現するためです。そうですね、「啓発」と言う言葉が適当でしょうか。独自の、コンテクストによらない建物であり発明です。一方、赤褐色のコンクリートからなる私の建物(氏のプランタホフ農業学校の講堂という作品に関する件です)は、従来の意味合いのコンテクストに基づいたものではありません。しかし、考えだけに基づく、つまり1人の頭の中で考え出されただけの建物でもありません。」という発言があります。(『Conversations with Europian Architects』長谷川豪)


菊池さんの作品は白でも黒でもなく赤く塗られている。ウィスマ・クエラは、建築家による即時的なスケッチと職人の手作業によって作られ、建築家の死後も建築が続けられた作品であり、計画と施工と生活が混淆した日常空間としてあり続けた。

ミースによるアンチ個人で、必然の趣きを持つ「黒」の建築でもなければ、コルビュジエのような個人による自由の趣きを持つ「白」の建築として捉えることも難しい。

印象由来で、推測に過ぎないことは承知していますが、あの作品を白く塗ることも黒く塗ることも許されなかったのだ、ということは理解することができた。

(オルジャーティ氏の赤褐色の建築に関して1人の人間が考えたのではない、という部分は菊池さんの作品とも共通しており、赤の意味を考えるヒントになるかもしれない。ひとつ前のnoteでふれた象設計集団の今帰仁公民館や笠原小学校にも赤が使われていて、複数性を孕んだ建築と赤い表現には何か連動性がある可能性が感じられる。)

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展示風景3

■砂について


 建築は英語にするとアーキテクチャだが、今日、アーキテクチャという言葉は、建築以外のコンピュータシステムや、社会システムにも当てはめて使われる。しかし建築にはそれ以外のアーキテクチャとは明らかな相違点がある。

それは、他のアーキテクチャのシステムの更新断続的に更新可能であるのに対し、建築は断続的に計画することが困難で、一度完成させるための図面として書き起こして計画上の「切断」をしなくてはならないという点である。(参考:『思想地図vol.3 アーキテクチャ』東浩紀・北田暁大)

しかし、ウィスマ・クエラは図面のない建築、すなわち図面による「切断」のない建築であり、絶えず更新し続けられていた。建築以外のアーキテクチャと同様に、見えないメンテナンスが積み重ねられているのである。

建築の持つ目に見えない時間の堆積を模型の下に積らせた砂で表現し、そして今後もその更新が続いていくことを模型の脇の小さな砂山で表現している。

すなわち、「切断」されることなく断続的に更新され続ける建築を、建築設計が本来持つ計画上の「切断」という手法で表現していることになる。

インドネシアでの空間経験を塩竈で記述し直すと言った時に、なぜもう一度表現し直すのか、と言ったことは制作過程で考えることになったと思うが、この作品で建築の「切断」性を浮き彫りにしていると捉えることができるのではないか。


理解できた点について言語化した。インドネシアの地方都市にある特異な建築を通した空間体験を、塩竈の歴史的建造物にインスタレーションとして再構成する試み。まさに「風景の練習」展にふさわしい展示であった。

しかし、採掘の終わった塩釜石の用い方や、模様の入ったセメントブロックの積み重ねの意味、塩釜で行ったリサーチがどのようにインスタレーションに現れているのか、塩釜で行う意味などはいまだ謎が多いが、一方で鑑賞者にとって、訪れたことのない別の場所を想像することの可能性を拓いているとも言える。

また濃密で膨大な情報量を有する建築を記述した空間作品は1つの視点からは到底理解し得ないものであるし、建築のみならず、今日のアート全般に対しても示唆的であったと言えるだろう。


参考:
『独身者の住まい』竹山聖
『Conversations with Europian Architects』長谷川豪
『思想地図vol.3 アーキテクチャ』東浩紀・北田暁大
「記録と建築 DOCUMENTARY AND ARCHITECTURE」菊池聡太郎

「情報技術と建築家 ー広がる職能ー」石田大起

菊池聡太朗「ウィスマ・クエラ」artscape 五十嵐太郎↓


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