1/24「わからないままでいる。」
なにかをわかろうとするのはむずかしい。
でも、わからないままでいるのだって、むずかしい。どうしてわかろうとしてしまうのかな。
「わかるとはなにか」という定義づけは、ここではふわっとさせておく。それはそれで大きな問題だから。今は、日常的につかうことばとしての「わかる」でかんがえてみる。
わかる。
それは気持ちいいこと。たとえば、
クイズで「あっわかった!」(ピンポーン)
絵を見て「こいつわかってんな」(おれは認めてやるぜ)
会話で「え、わかる〜」(友だちだいじ)
小説で「めっちゃわかるわ」(じぶんの考えていることをことばにされるよろこび)
実用書で「よくわかった」(知識マシマシ)
わかる、は気持ちいい。
どこか開けた新しい場所にいる気がする。風通しのいい、澄み切った感じ。目の前がぱっと明るくなって、まっすぐ走っていけるような。お正月の日の青空のような。
逆に、わからないはつらい。
クイズがわからない。
絵がわからない。
会話がわからない。
本がわからない。
さらに暗い気持ちになってみる。
将来がわからない。
なにをやればいいのかわからない。
これからどう生きていけばいいのかわからない。
わからないはつらい。だから気持ちいいを求めて、わかろうとする。そのために世の中には「わかりやすさ」をくれるアイテムがたくさんある。わからなさから一瞬でかろやかに抜け出せたと思わせるアイテム。たとえば、
クイズならヒント。
絵ならキャプション。
会話ならコミュ術。
小説ならほかのひとの感想。
実用書なら解説動画。
人生なら、なんだろう。夢や宗教なのかな。
すぐわかるように、すぐ気持ちよくなれるように。でもそれを選ばないじぶんでいることだって、できるはずなんだ。
最近ぜんぜんわからない本を読んだ。
柄谷行人の「言葉と悲劇」。
まず、著者の読みかたがわからなかった。からたに、こうじんって…よむんだ…へえ…。
ページをめくる。目次をながめて、知らない単語も多いけどなんかよさそうだなと思う。
読みすすめる。ぼう然とする。
『ユークリッド幾何学の在立は、ある種の外部、つまり直観や知覚にもとづいて確保されますね。一方、非ユークリッド幾何学というのは、たんにユークリッド幾何学の第五公理に反対して成り立つという幾何学ですけれども、両者の基礎づけ、連関は、「ユークリッド幾何学が正しければ、非ユークリッド幾何学も正しい」というような、まるで相対的なものでしかありません。では、ユークリッド幾何学それ自体の在立の証明はというと、それはできないのです。そこで登場するのがヒルベルトの形式主義です。それは、他者依存的な証明ではなく「絶対的」な証明をしようとします。その結果、完全な形式化・形式主義化、つまり外部を完全に排除することが行なわれる。数学は、もはや数学的なものと何の関係もない。たとえば、そこいらの椅子やテーブルででも数学(幾何学)ができるというような形式化をやるわけですね。それが、だいたい二十世紀の初頭のころです。』
(バフチンとウィトゲンシュタイン)
ん。
これは数学のことを言っているのかな?
この第一章はその後も、免疫学、言語学、哲学、経済学、社会学と、つぎからつぎへ〇〇学のものの見方で話が展開されていく。そしてさいご、今後の日本人はどういう観点から生き直す必要があるか、でおわる。たぶん。
わからない。つらい。
でもこのままでいよう。
もしかしたらこの本の解説動画があるかもしれない。数学や、〇〇学の入門書だってたくさんある。柄谷行人解説本も。でも、今はしばらく放っておこう。
べつにわからなくてもいいんだ。
むしろ、わかる気持ちよさをもとめて付け焼き刃でわかったつもりになるほうが害なんだ。
じぶんの人生にわからないものがあって、わからなさと一緒にすごす。ことあるごとにわからんなあを繰り返す。まぼろしの近道をせずにあーでもないこーでもないと右往左往して、気づいたら「なんかわかるかも」になっていくかもしれない。いかないかもしれない。
わからないままでいるのはむずかしい。
つらくて不快。でもそれでいい。
そのわからなさを味わいながら生きるのも、きっとおもしろいよ。
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