ナオコライフ11 精神障害者で在ること

相変わらず自覚があるんだかないんだか、障害者と健常者をどう分けて考えたらいいのかよくわからないところがあります。そもそも分けるということがおかしいのではないかとおもったりもしますが、世の中そうもいってられないのも、それもわかるんです。病院、役所、福祉関連、とくにです。でも、はっきりいってイタリアには精神病院はないですから、地域で助け合って関係を築いているようです。


須賀敦子『塩一トンの読書』(河出文庫)

この本は一生涯手放してはいけない本のうちの一冊ですが、この本には書評や映画評論が書かれていますが、わたしが読むのはいつも決まったところばかりなんです。イタリアの映画監督フェデリコ・フェリーニ『アマルコルド』について書いてあります。「わがこころが愛するものへ」という評論です。わたしはこの映画は見てなくて、『81/2』『道』『甘い生活』はサントラと共に印象に残っています。話は戻って、『アマルコルド』のストーリーの中でも登場人物の精神病院に入っている叔父さんが家族で農場にでかけたときのエピソードが書いてあるんです。で、この評論のラストに、

『道』のジェルソミーナはもとより、目のみえない街角の楽師や、こびとの修道女、精神病院にいる叔父さんなど、フェリーニの映画には、からだや精神に障害をもった人物がよく描かれた。そこには、イタリア人がなによりも大切にする、メラヴィリア、自分にはとてもできない、とてもなれない、ある意味では常軌を逸した、めをみはらせるようなできごとやものごとや人たちへの、驚嘆と尊敬の交錯する精神が深く根をはっている。

こういう人たちがいて人間の世界がほんとうに人間らしくなる。

こんなことが書かれています。読んだとき感動して、何かわたしこんな病人だけど誇らしくおもっていいような感覚になりました。それだけ、この文章には力がありました。

今だに、自覚なんて薄いのはこの小さな誇りのようなものがあるからではないかとおもうんです。でも、それでいいのではないかな。

日本も精神障害者が囲われるようなことがなくなって、イタリアのようになればいいです。相互理解も必要です。簡単ではありません。でもいつか、そんな社会になったらと願うばかりです。



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