久保勇貴『ワンルームから宇宙をのぞく』を読んで
日々読書に励んでいると、読んで良かったと思う本との出会いがある。数年に一度。もう50を超えているので人生が変わるとまではいかないけれど。でも、こうした本との邂逅を求めて、何十年もの間、毎日毎日繰り返し本と向き合っている。
久保勇貴『ワンルームから宇宙をのぞく』。JAXAの研究員で宇宙機工学を専門としている。この人の呟きのような一言一言が心にしみる。
頭上に見えるおうし座のアルデバランは、地球から65光年離れている。だから、僕が今アルデバランを見上げている映像がアルデバランに届く65年後には、僕はもうこの世にはいないのかもしれない。
久保さんが日々向き合う宇宙は永遠だ。その世界を語る数値も文字通り天文学的な単位を基準にしている。我々の日常遙かに超越する世界が広がる。そうした無限の宇宙に久保さんは率直に向き合う。
大好きな人も、家族も、友達もみんな、みんないないかもしれない。そして、そんなことにはやっぱり関係なくこの宇宙は当たり前の顔をして存在し続ける。それってやっぱりおそろしいことだよなあ。
永遠や無限というものは言葉にすると簡単だし、陳腐に響く。でもその内実は深遠だ。マリアナ海溝よりも深くて、素人の僕には宇宙の果てがどうなっているのか想像も及ばない。そこに自分の生を重ね合わせると尚更だ。圧倒的にちっぽけな自分。人間なんてそんな卑小な存在だ。宇宙を目の前にすれば。でも久保さんは、そうした現実をしっかりと受け止めて、直向きに足搔き続ける。
けれどゆっくりと、僕は階段を降り続けている。宇宙の中心であったワンルームが一歩ずつ僕から遠ざかっていく。こわいもの見たさともまた少し違う独特の引力を放ちながら、なおも星明かりは律儀に平等にその輝きの明瞭さを増し続けていた。
この真摯な率直さに心打たれる。分からないことに戸惑い、彷徨いながら、少しでも宇宙の真理に近付こうとする。そうした久保さんの生き方に共感するし、僕自身もそうありたいと願う。日々の些事(とはいっても生活を支える無視することのできない義務なんだけれど)に振り回されていると、忘れてしまいがちな宇宙という存在。宇宙の永遠と向き合う事は、公益性や収益化とは無縁かもしれないけれど、未知の世界に触れるロマンを求めて、久保さんは徒手空拳で抗い続けようとしている。
人間の存在は無常だ。須く消滅する運命にある。その存在は、宇宙と比較すると果てしなく小さい。宇宙の摂理は人の意思と全く関係なく、無縁だ。にも関わらず久保さんは、虚無に流されず、自棄にもならず、手探りのまま自分の歩むべき道を進もうとする。その生き方が正しいかどうか、自信が持てない。常に悩みを抱えながら煩悶している。でも自分が大切だと思った事を手放さず、粘り強く、根気強く前に進もうとする。その清々しさ。誤魔化そうとしない潔さ。そうした久保さんの実直な生き様が、宇宙の不可思議さと共に語られる。
「ボーヨー、ボーヨー」と中原中也が喚いたように、生きる事に明解な処方箋はない。僕も中也のようにボーヨーとしながら生きて、死ぬ寸前まで迷い悩み続けるだろう。でも、そんな無様な僕でも肯定し、優しく受け止めてくれる。そうした気持ちにさせてくれる本だった。